邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 〈原日本紀の復元〉が滞っています。清寧天皇即位=499年までは暫定的にさかのぼれたのですが、そこから先のきっかけが掴めないのです。それはまさに倭の五王の時代です。中国の史書に記された讃・珍・済・興・武の五王が実在したことは確かでしょう。しかし、それを『日本書紀』の歴代天皇に比定することは至難の業です。

神功皇后を卑弥呼になぞらえるような設定がなされていることから考えると、『日本書紀』の編纂者が『三国志』の記述を知っていた可能性は非常に高いと思われます。一方、倭の五王に言及した『宋書』などの史書については、知らなかったか、故意に無視したとしか考えられません。両者に関連性が見いだせないのです。

だから、ここから先は複雑な作業になりそうな気がしています。でも、あせらずにさまざまな角度からアプローチして突破口を見つけていきたいと思っています。本ブログのタイトル部分に書いているように「ぼちぼちと」です。

 

 そういう訳で、今回は銘文(めいぶん)について少し考えてみたいと思います。古代史を考えるにあたって、干支(かんし/えと)の入った銘文が記された遺物は非常に重大な意味を持ちます。それは、絶対的な実年代を確定する指標となるからです。〈原日本紀の復元016〉でみた「隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんしゃじんぶつがぞうきょう)」もそうでした。銘文の解釈にはさまざまな説があるとしても、鏡が作られたのは「癸未(みずのとひつじ)年」であることは、動かしようのない事実なのです。それが、503年か443年のどちらかであることは、ほぼ確実です。そういう事実一つひとつの積み重ねから、古代史の真実は見えてくるのだと思います。

 

 ここにもうひとつ、古代史の大発見とされた銘文の記された遺物があります。埼玉県行田市のさきたま古墳群の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣です。出土したのは1968年ですが、X線検査で銘文がみつかったのは1978年です。鉄剣の両面に合計115文字が、金象嵌(きんぞうがん)という技法で記されていました。金象嵌とは、まず文字を彫り、その溝に金を埋め込んでいくものです。この刀は、金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)といわれ、国宝に指定されています(金錯=金象嵌です)。

 

稲荷山古墳はさきたま古墳群で最古のものとされます。全長120メートルの前方後円墳です。

 

金錯銘鉄剣は埼玉県立さきたま史跡の博物館(行田市)に展示されています。

ガラスケース内で大切に保管されています。

 

 まずは、銘文の内容をみていきましょう。

 

【表面】

辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比

<一般的な現代語訳の例>

辛亥の年の七月に書き記します。(私の名前は)ヲワケの臣。先祖の名前はオホヒコ。その子(の名前は)タカリのスクネ。その子の名前はテヨカリワケ。その子の名前はタカヒ(ハ)シワケ。その子の名前はタサキワケ。その子の名前はハテヒ。

 

【裏面】

其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀 記吾奉事根原也

<一般的な現代語訳の例>

その子の名前はカサヒ(ハ)ヨ。その子の名前はヲワケの臣。代々、杖刀人の首(大王の親衛隊長)として、お仕えして今に至ります。ワカタケル大王の寺がシキの宮に在る時、私は大王が天下を治めるのを助けました。この百回も叩いて鍛えた刀を作らせて、私(の一族)が大王に仕えてきた由来を書き記しておきます。

 

 この銘文にも干支が登場します。「辛亥(しんがい/かのとい)」年です。5世紀、6世紀で辛亥年にあたるのは、411年、471年、531年、591年です。

 鉄剣の出土した稲荷山古墳は5世紀後半〜6世紀初頭あたりの築造と考えられています。また、銘文の解釈も考慮され、ここに書かれた辛亥年は471年もしくは531年に絞り込まれています。

 そして、現在最も広く支持されている解釈は、「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と読み、『日本書紀』で「大泊瀬幼武天皇(おおはつせ「わかたけ」のすめらみこと)」という和風諡号(わふうしごう)を与えられている「雄略天皇」であると比定するものです。それにより、辛亥年は471年となります。「記紀」の一般的な解釈では471年は雄略天皇の治世だとされているからです。

 つまり、「乎獲居(ヲワケ)臣が、471年の雄略天皇の治世に、この銘文を刻んだ鉄剣を作らせた」というのが通説となっています。さらには、「大泊瀬幼武天皇」の「武」は、中国の『宋書』478年の記述に登場する倭の五王の一人「倭王武」に通じるとして、雄略天皇=倭王武とみるのが定説となっています。

 

 さて、私は〈原日本紀の復元010〜015〉の継体天皇編で、暫定的な結論として「499年清寧天皇即位」を導き出しました。これを基準に、雄略天皇の治世が23年(雄略天皇紀には無事績年は存在しません)であったとすると、即位元年は476年となります。すると、476年=雄略天皇即位という年代設定で時代をさかのぼるためには、稲荷山古墳鉄剣銘文の「471年説」「雄略天皇説」を乗り越えないといけません。

ただし、一言補足しておきますと、「471年=雄略天皇の治世」は成立しませんが、「倭王武=雄略天皇」は成立することになります。

 

 そこで、今回はそれに挑んでみようと思います。

 

 最初にこの銘文の目的です。

 実は、刀剣や鏡に記された銘文にはほとんどの場合、それを与えらえる人物や子孫の繁栄や、さまざまな厄難からの庇護を祈る文言が入っています。しかし、稲荷山古墳鉄剣銘文にはそのような文言が見られません。書かれているのは乎獲居臣の系譜と鉄剣の作られた経緯です。そして、乎獲居臣はこの鉄剣を作り銘文を記した理由を、「記吾奉事根原也」であるしています。訳すと、「私の奉事の『根原』を記す」です。奉事とは大王に仕えることですから、乎獲居臣が大王に仕えた『根原』を記したということです。

 

 さて、この『根原』ですが、一般的な訳では「由来」とか「由緒」とされますが、さらに文字を突き詰めて考えると「上祖名意富比垝(先祖の名はオオヒコである)」ということが、乎獲居臣が大王に仕え、「左治天下(大王が天下を治めるのを助けた)」した源(みなもと)であると読めるのではないでしょうか。意富比垝(オオヒコ)は、崇神天皇が日本各地に派遣した四道将軍の一人、大彦命(おおひこのみこと)のことだと思われます。多分に憶測が入りますが、鉄剣が作られた時代には伝説上の英雄になっていたかもしれません。つまり、乎獲居臣は「上祖(かみつおや)」が大彦命だったからこそ自分が大王の親衛隊長として活躍できたのだと書いているのです。大彦命につながる系譜こそが誇りであり、自分の出自が立派で由緒あるものだと宣言したかったのではないかと考えられます。

 しかし、それは自画自賛でしかありません。

 

 そのような目的の銘文が彫られた刀ですから、誰か他人や部下に与えるものでないことは確かです。他人の自慢が彫られた物をもらっても本心から喜べないし、それを大切に敬うことはできません。だから、鉄剣は乎獲居臣本人が持つためのものであり、自身の威信を誇示するための財物だったと考えられます。

 このことから、稲荷山古墳に金錯銘鉄剣とともに眠っていたのは乎獲居臣本人とみて間違いないでしょう。

 でも、稲荷山古墳の埋葬主体部は別にある可能性が高いようです。つまり、古墳の主は他にいて、必ずしも乎獲居臣のために造られたものではないと考られるのです。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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