邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 邪馬台国論争の最大の原因として、投馬国(とうまこく)から邪馬台国への行程記述が「水行(すいこう)十日 陸行(りっこう)一月」と日数表記となっていることがあげられます。また、そのひとつ前の不彌国(ふみこく)から投馬国への記述も同様に「水行二十日」と日数表記になっています。

 この日数で表された「水行十日陸行一月」「水行二十日」をどのようにみればよいのでしょうか。今回はそれについて考えたいと思います。

*本ブログは9月16日に行われた全国邪馬台国連絡協議会主催「討論型研究発表会」での発表論旨をまとめたものです。

 

 「魏志倭人伝」には、里数等を用いて女王国(倭地)の在り方を示した記述が三つあります。これは、以前にも文献解釈上、邪馬台国が成立しない決定的な理由〈1〉〈2〉〈3〉」でふれました。

(1)帯方郡から国々をめぐって邪馬台国にいたるまでの行程記述

(2)帯方郡から女王国(邪馬台国)までの総距離に関する記述

(3)倭の地を参問した(訪ね歩いた)まとめの一文

の三つです。それぞれについて改めてみていきます。

 

 (1)の帯方郡から邪馬台国への行程記述は、「魏志倭人伝」の冒頭に書かれています。解釈の仕方としては、連続説と放射説があります(図1)。連続説は、帯方郡から邪馬台国まで記述にあらわれる国を順々に経由していく読み方です。放射説が登場しなければ、連続説という名称も生まれなかったであろうオーソドックスな解釈法です。放射説は、ここでは詳細の説明は省きますが、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国は、すべて伊都国からの並行した行程であるとする読み方です。

 

◆図1 連続説と放射説

 

(2)は邪馬台国までの行程を記述し、続けて21の旁国を列挙した後の一文に登場します。

 

(訳)これ(21の旁国)が女王の権威の及ぶ範囲である。その南には狗奴国がある。男王がおり、官は狗古智卑狗という。(狗奴国は)女王国に属していない。帯方郡から女王国までは一万二千余里である。

 

 帯方郡から女王国(ここでは邪馬台国を指すと考えられます)までは、1万2千余里だと明記しています。

 

(3)は、さらに記事が進んで、倭の地誌や習俗、卑弥呼の共立や政治体制について述べた後にあらわれます。

 

(訳)倭の地を訪ね歩くと、遠く離れた海の中の洲島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。「周旋(しゅうせん)」すれば、五千余里ばかりであった。

 

 ここに登場する「周旋」は、従来「ぐるっと一周する」という閉じた円のイメージで訳されるのが通説でしたが、それは間違いで、A地点からB地点まで「めぐり歩く」「転々とする」と解釈するのが正解です。

*詳細は文献解釈上、邪馬台国が成立しない決定的な理由〈1〉〈2〉〈3〉」をご覧ください。

 そして、倭の地を参問するスタート地点は、「魏志倭人伝」の行程記述において最初に倭の地であるとされる狗邪韓国です。だからこの一文は、狗邪韓国から邪馬台国までが五千余里であったと述べているのです。図2のようになります。

 

◆図2 周旋可五千余里の正しい解釈

 

 これは、私が畿内説批判の際に用いている図ですが、今回は主旨が違いますのでその説明は置いておきます。ここで注目してほしいのは、狗邪韓国からの周旋五千余里の前に、帯方郡から狗邪韓国までの七千余里があるということです。つまり、合計すると帯方郡から邪馬台国までが1万2千余里ということになります。

 

 さて、三つの記述についてみてきました。すべてが帯方郡から邪馬台国への距離に関するものであることがわかります。「魏志倭人伝」が一貫性をもって記述されていると考えると(この前提を無視すると議論になりません)、この三つの記述には整合性が求められるはずです。

 (2)と(3)は明らかに一致しています。ともに、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里であるとしています。

 では、(1)もそれに整合するものと考えると、どうなるでしょうか。私は連続説をとっていますから、図3のようになります。

 

◆図3

 

 帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里です。そして、帯方郡から行程記述にあらわれる里数を加算していきますと、不彌国までで1万7百余里となります。すると、不彌国から邪馬台国までの道程は、必然的に12,000里から10,700里を引いた1,300里となります。

 

 今回のタイトルである「邪馬台国への行程記述『水行十日陸行一月』をどう解釈するか?」という問いに対する私の答えは次のようになります。

 

「水行十日陸行一月」は、その前文で語られる「水行二十日」と合わせて、不彌国から投馬国経由で邪馬台国へ至る道程であり、計1,300(余)里とイコールのものである。

 

 この不彌国から邪馬台国まで1,300里というのは、特に目新しい説ではありません。昔から頻繁に唱えられてきました。しかし、十日、一月、二十日の合計2か月に対して、千三百里(一里70メートルとすると91キロメートル)という里数があまりに少なすぎ非現実的であるという反論から、近年ではあまり引用されない数字となっています。しかし、それは(1)の行程記述に対して、(2)の総距離だけを対応させて考えていた段階の話です。(1)と(2)の二つを対応させるだけでは、整合性を考える論拠としては弱いといわざるを得ません。

 ところが、今回(3)の考察から新たな数値が得られました。その1万2千余里は見事に(2)と一致しています。これにより、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里であるという確度は格段に高まったと思います。そして、二か所で1万2千余里と認識している以上、(1)の行程記述も1万2千余里を念頭に書かれていると想定してよいでしょう。これは文献解釈上「不彌国から邪馬台国まで1,300里」という論を相当に補強してくれます。つまり、予断を持つことなく文献解釈にあたれば、「不彌国から邪馬台国まで1,300里」という結論に至るのが最も妥当であると考えられるのです。

 

 以上のように結論を出しましたが、それはあくまでも「魏志倭人伝」を文字通りに読めばそうなるという意味です。私も「2か月で1,300里」という数字に整合性があると言い張るつもりはありません。これは非現実的な数字だと思います。

 そのうえで、この矛盾を解決できるのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説だと考えています。私が『邪馬台国は熊本にあった!』の中で提起した新説ですが、陳寿(ちんじゅ)の撰述した『三国志』原本には「水行二十日」「水行十日陸行一月」の日数部分に具体的な里数が書かれていたと考えるものです。その里数の合計は1,300里です。そして、その具体的な里数が後世の宋代(420年〜479年)に范曄(はんよう)の『後漢書』の誤認等が原因で、あいまいな日数に書き換えられたと考える仮説です。そう考えれば、(1)の帯方郡から邪馬台国に至る行程記述距離の合計を1万2千余里とすることに違和感はなくなり、(2)(3)の1万2千余里と矛盾なく一致するのです。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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