倭と朝鮮半島とのつながりは?①檀君神話 | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

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朝鮮半島の歴史や神話は、高麗時代に執筆された「三国史記」と「三国遺事」という文献などに記されています。
内容の信憑性に欠ける部分があるとの指摘もされていますが、ここではそれを踏まえて中国歴史書や当サイトの倭国の歴史と照らし合わせ、独自解釈を交えながら①檀君神話~⑦伽耶建国の7回に亘って検証します。

 

 

【文献などの歴史要約】
BC2333年 天帝(桓因)の庶子 桓雄が天帝の許しを得て、風と雨と雲を司る風伯 雨師 雲師を率いて天符印を持って三危太伯の神檀樹に天降る。そこへ人間になりたいと願っている熊が現れ、百日の籠りで21日目に女になり、桓雄とまぐわい男の子を産む。男の子は檀君王倹と名づけられ、平壌を都に定めて朝鮮を興した。

 

 

 

【解釈】
BC2333年と言えばまだ中国も殷の時代で、東夷である朝鮮半島に文明が起こっているとは考えにくく、明確にBC2333年という年代が特定できるのも怪しいように思われるので、この記述は複数の異なる年代の伝承を無理につなぎ合わせているのではないでしょうか。
「熊」が登場するので、代々「熊」の名前を持つ王が君臨した楚が滅んだのがBC223年であり、似通った数字が並ぶので、楚の最後の王「熊啓」が朝鮮に亡命し、朝鮮王朝から分かれた夫余の建国に関与したことを意味しているのではないかと思われます。
史記の秦始皇本紀にはBC224年に「昌平君(熊啓)死 項燕自殺」とありますが、楚世家には1年早いBC225年に「項燕殺」とのみ記されており、事実が曖昧なので熊啓が死んだかどうかは不明です。
楚滅亡時は朝鮮だけでなく倭にも逃れて来たことが想定され、記紀に登場する「熊襲(熊曾)」→「熊楚」で楚からの亡命者だったのかも知れません。
そして、「三危太伯の神檀樹に天降る」は日本の天孫降臨と同じ系統の話なので、「三危太伯」が、呉の始祖である「太伯」に因んで名付けられた山とすれば、BC473年に越の勾践に滅ぼされた呉の最後の王で「天帝桓因」である「夫差」らが未開地の朝鮮半島に逃れ、そこから夫差の庶子で呉滅亡時に越王勾践に許しを乞うた「公孫雄」が神市なる朝鮮を建国し、その子孫が熊啓と協力して夫余を興したと考えられないでしょうか。
「符都誌」という史書によれば、天帝の桓因は、四天人の一人である黄穹の孫とされており、夫差も同様に諸樊・余祭・余昧・季札の4兄弟の孫に当たります。
「夫差」の「夫」や「余祭」や「余昧」の「余」に因んで「夫余」と名付けたとすれば辻褄が合います。
「神社探訪 大年神の神裔」にあるように古事記にも高句麗を指していると思われる「曾富理神」が登場しますが、 「曾富理神」→「楚夫里神」→「楚の熊啓と夫差の子孫が興した国」→「夫余」→「高句麗」ではないでしょうか。
さらに、呉のことを記した史記の呉太伯世家なのになぜか斉の政治家に関わる内容が「故晏子因陳桓子以納政與邑 是以免於欒高之難」と記されており、一般的には斉の政治家の晏嬰が親の晏桓子を介して国政と領地を返納したので欒施・高彊の災難を免れたとされていますが、晏桓子が陳桓子になっている点、晏嬰を単に晏子としている点を踏まえ、因を単に助字と捉えずに固有名詞とも捉えて、晏子→晏孺子、陳桓子→陳の桓公の系統の田斉と解釈すると、 「故に晏孺子:因は、田斉の系統に国政と領地を返納したので仲間の高の災難を免れた」と斉の政変が呉につながると捉えることもできそうです。
つまり、天帝桓因とは、呉の最後の王:夫差に加え、景公死後の政変(BC490年)で斉から魯に亡命した高と晏孺子(呂荼)をも意味しているかも知れません。

 

 

 

以上を踏まえ、中国と朝鮮半島と日本の関係史を仮説を交えながら表に示します。

 

 

 

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<参考記事>
中国歴史書と記紀との関係は?
https://ameblo.jp/yamatai-michi/entry-12471924549.html
神社探訪 大年神の神裔
https://ameblo.jp/yamatai-michi/entry-12471921448.html