マントラ 第8章 真言 | やまのブログ

マントラ 第8章 真言

 

 「ママ 月が出てるよ」
いつだったか 夜の田舎道を歩いてたらそんな声が聞こえて思わず夜空を見上げた きれいな月があった 声は多分窓の開いた2階の部屋からかと思われたが私のいた路上からは数十メートルの距離がある ママの応える声は聞こえなかった 当然だと思う 子供の声が聞こえたほうが不思議だ 

 同じようなことはインドのバシストでも経験した ベランダに座っていたら遠くの声が聞こえた 
「アマー!」
子供がお母さんを呼んでいた どこの家かはまるで分からない かなり距離があると思われた でも声は届いた 

 部屋でのんびりしていた私にベランダから子供の歌う声が聞こえてきた
♫ テリ アマ アーエンギ(君のママが来るよ)
♫ メリ アマ アーエンギ(私のママが来るよ)
四歳の子が一歳の子に歌ってた 
ドアを開け放してたから聞こえて当然なんだけど 心に響いた 

 私が清掃していた東京の高齢者施設で途中入社してまだ間もない頃の坂井(仮名)さんに もう時間だよ まだ帰らないの? と声を掛けたことがあった 彼女はこう答えた
「時間過ぎてるのは分かってるんですけどね 誰か(先輩職員)に言ってもらわないと帰りにくいんですよね 、、、、、、、、、、、 でも もう帰ります」
 分かるなあ と思った 新人の時ってそんなもんだよね

 さて いくつかの言葉を並べたけど 状況は違えど共通するのはそれぞれの言葉が語り手の心に密着してるだろうってことです 上記のような言葉をここでは「真言」と呼びます 次はここで使う言葉についての私なりの説明です




 成長した人間にとって言葉というのは大きく2種類に分けられます【自分の心により発せられた言葉】と【これこれの時にはこれこれのように応えるとシステム化された言葉】です
 前者を「心言」 後者を「AI言」と呼ぶことにします 

 心言はさらに心にある実を語る「真言」と実のない「虚言」に分けることができます
 AI言は社会通念上の「儀礼言」や接客などに使われる「マニュアル言」などを指します それらをAI言としたのはAI(人工知能)に心はなくただこういう時にはこう答えるようにシステムとして組まれた言葉ということで便宜的にそう呼ぶってだけです

 言葉は真言から始まり小さな子供の頃はそれが当たり前だったはずなんだけど 年を経て知識と経験が増えていくにしたがって虚言を覚え儀礼言をも憶えマニュアル言をも使うようになってく いつしか心にもない言葉も普通に喋れるようにもなる 人により程田の差はあれどそういうものかと私は考えています 
 さて ところで



 <こいつなにもんだ?> って顔で職員の平木(仮名)さんは私を見てました それは2019年に私が隣接する障碍者施設のボランティアを志願した時です 分かりやすい人だな と思った その後も彼女がボランティア係をしていたこともあって折々に見ていて私はちょっと興味をひかれてった というか気になった 

 平木さんって分かりやすい人だな と見るたびに感じた パリワラ達に似てるような気もする でもよく分からない 何だろう?と考えてた 見れば見るほどに彼女にひかれていった 容姿? 違う(と思う) 趣味が合う? 合わない 思想? よく知らない ではなぜ? 彼女の何が私を引き付ける? 

 若い時とは違って今は私もけっこう冷静になれる 冷静にしているとだんだんと見えてもくる
 <私に似てる> 
それも若い時の私 インド以前 パリワラ達に出会う前の私  

 もし 私の想像通りなら彼女は私と同じ間違いをしてる可能性がある 確かめてそうであるなら伝えたいことがあった でも これ説明が難しいんだよな そう思ってるうちに彼女は人事異動で他の施設に移っていった 私は気が抜けた感じがした でも なんとか気を取り直してこの記事を描くことにしたんだ  私のけじめとして、、、伝わるかどうかは知らんけど、、、、



 インドってどんなところなんですか? ってたまに訊かれる 今の職場でもいつだったか畑田(仮名)さんに聞かれた 
 「インド人は良くも悪くも自分に正直なんですよ だから良い奴と悪い奴がはっきりしてる感じです」
みたいなことを答えた 
 
 もちろん最初はそんなの分からなかった インドって私にはまったく知らない外国だった だから初めてのインドでは自分なりの儀礼言やら社会常識(日本のです)で対応した 2日目に親切な顔で近づいてきたインド人と知り合った 街のことをいろいろ教えてもらい宿も紹介してもらった その日の夜にパスポートとTC(旅行小切手)それに帰りの航空券を盗まれた 詳細は省くが主犯は親切面の彼だった TCが再発行されるまでの2か月を財布に残ってた現金100ドルだけで過ごすことになった 1988年3月 ニューデリーでのこと
 知らない外国でほとんど文無しになった私は開き直るしかなく 自分の感性を頼りに言動するようになった おかげでインドになじむのが普通より早かったかもしれない 

 最初に分かったのは店の人達の姿勢 日本とは大違い 日本って店の人は客に対してすごい丁寧だし謙譲の姿勢で接してくれるでしょ 店によっては露骨なマニュアルで喋ってるけど でもインドにはそれがなかった 店員と客は良くも悪くも人として対等 それは宿や銀行の人もそうだったし役人たちもそうだった 

 そしてさ それは開き直った私もそうだったんだよね それがもともとの私だった  

 日本では「お客様は神様」的な感覚があるし目上の人には敬語を使う文化だし私もそうしていたつもりではいたけれど内心ではモヤモヤしていた
 そんな私は日本では心をゆるせる友達とかいなかった インドに来るまで私がホントに心ゆるせるのは犬や猫しかいなかった だから動物好きの人間嫌いだと自分のことを思ってた 

 ところがインドはそんな私と相性がよかった ここでは日本の常識や儀礼に頼れないのは親切面のインド人が半面教師として教えてくれた 自分の良識と感性で接することで 無理のない自分になっていたようだ 日本にいた時と違って心にモヤモヤが起きない 私は自由らしいものを感じ始めてた 

 そして気付いた
 インド人は他人に嘘はついても自分に嘘はつかない 少なくとも私が出会ってきたインド人はそんな感じだった  

 だからインド人の言葉はいつも心言 違いはそれが真言であるか虚言であるか そしてまた こちらが焦りのない状態でいれば相手の心言が真言か虚言かはだいたい見分けられると分かってきた 
 結果 私と抜群に相性の良かったのがパリワラ達だった



 ここで再び言葉の説明ないし注釈です
「パリワラ」という言葉について デリーで知り合った東京外大ヒンディ科の学生が使っていた教科書では家族という意味になってましたが 私はパリワラという言葉を自分の解釈で使っています 「パーリー達」という意味です なぜ?ということに対しては内緒です 非常にプライベートなことなので 
 それから「マントラ」とか「カルマ」とか日本語にはない言葉をちょくちょく使っていますがそれもインドでパリワラ達が話すのを聞いていて自分が感じたままに使ってます 
 この記事で使っている「真言」も同様に私の感覚によります 真言というと日本の皆さまには1000年以上も昔に空海なる者が開いたという真言宗が連想されるかと思うのですが ここでの真言は私の言葉であり真言宗のものではありません だいたい私は空海の言う真言がどういうものかを知りません あなたはご存じでしょうか? もしこの先で空海の流れをくむ者に出会うことでもあれば 尋ねてみようと思っています
<お宅の使ってる「真言」とはどういう意味なのですか?> 



 平木さんに話を戻します 彼女は儀礼言が苦手のようでした それは彼女と施設利用者の保護者さんとの会話を聞いていてすぐに分かった 
 小学校の先生が受け持ちの生徒とは自然に話せるのにその父母とはギクシャクした会話になってしまってるみたいな感じでした 日本的な儀礼言がまるでこなれてなかった いわゆるポジショントークが出来てない  

 私も儀礼言は苦手でした 今も苦手だけど昔ほどじゃない 昔は意味が分からなかった もちろん言葉そのものの意味は分かります 私が分からなかったのはその言葉の向こうにある内心の意味です ホントはどう思ってるの? 

 AI言そのものはただのシステムでそこに心はないわけですが けれども人間が喋るとなるとそこに使う人の心が宿ってくる 分かりやすいのが先に名前を出した畑田さんの言葉です

 ここの施設職員が利用者さん(障碍者)に対してどのように接するかは当然マニュアルがあるでしょう 施設職員は皆マニュアルを基本に利用者さんと話しているはずですが人が違うとマニュアルは同じでも言葉の印象が違ってきます
 畑田さんの利用者さんへの言葉は分かりやすいマニュアル言なのですがとても安定感がある 安心感とも言えるかもしれない 人の内心なんか分かるはずもありませんが 私自身の経験から推しはかるにおそらく畑田さんは自分の仕事に納得している

 ちょっと自分の話をしますが 私は高校を出た後はずっと営業畑にいたんです メーカーセールスを4,5年やってその後は訪問販売を30歳過ぎまでやってました 訪販のセールスは客へのアプローチ次に商品説明そしてクロージングと三段階に分けられるんですけど私はアプローチと商品説明ならけっこう得意だったんですよね ところがクロージングの段階になるとうまくいかなかった これは私のセールスマンとしての心の問題だったと思っています
 セールストークはマニュアル言です アプローチで相手の気を惹いて商品説明では夢を見せるように語るんです 扱っていたのは子供用の教育図書が主だったのでお客さん(主婦が多い)に子供とどう関わるか等自分なりに考えたトークを使い相手をその気にさせる ここまでなら私一流のセールスマンだったとうぬぼれてます ところがクロージングとなるととたんに二流以下のセールスマンになり下がりました それまで夢を語っていたのがいざ契約ってことで現実に目覚めちゃうんですね <主人に相談しないと><絵本にこの値は高すぎる> それらよくある断り文句にももちろん対応するマニュアルトークは用意しているんですが自分の心がついていかなかった 
 私は夢を語るのは嫌いじゃなかった マニュアル言ではあっても嘘じゃなかった 本心からそう思ってた でもクロージングの言葉は強く言えなかった それはトークする私自身が納得してなかったからです それがお客さんに伝わったんじゃないかと思ってる

 畑田さんのマニュアル言には傍で聞いていて屈託がないんですよね それは彼が福祉の仕事に納得してるからだろうと思います 多分外れてないです 最近の畑田さんは露骨なマニュアル言だけでなくユニークなおばちゃん言が目立つようになって進化してるみたいですけどねww

 「おばちゃん言」について説明します 私はこの8年ほど同じ場所を清掃してるんですが今は障碍者施設のここも1年半ほど前までは高齢者施設だったんです その時の職員にはおばちゃん介護士が多勢を占めてたんですがそのおばちゃんたち(最初の方で名前の出た坂井さんもです)の利用者さんへ言葉がめちゃ面白かった 好き勝手喋ってるようにも見えます でもちゃんとマニュアルの基本は押さえてた(と思う) 人生の年季が入ってる人のマニュアル言は独特で傍で聞いてて楽しかった 多分利用者さんもそうだったんじゃないかな
 介護の仕事って決して楽なものではないと思われます だけどね だからといって しんどい つかれる きたねえ なんて思いながらやってたらそれは利用者さんにも伝わるだろうし上手くいくはずがない それじゃ長続きはしないでしょ 介護士のおばちゃんたちは楽しもうとしてた 利用者さんを巻き込んで笑顔の空間を作り出していた それは見事なものでしたよ



 障碍者施設に変わった今は職員さんの年代にバラエティがあって学校出たばっかりの人もけっこういます
 でも利用者となる障碍者さんの方はそれ以上にバラエティがあります 年齢のこともあるけれどそれ以上に障害が一人一人違うんですよね 身体障碍に知的障害それらを併せ持った人達 自閉症の人もたくさんいて健常者が通常おこなっているような会話の出来る利用者さんは一人を除いていないようです
 それでも職員さんたちは話しかけます 利用者さんに何らかのアクションが出ればそれがコミュニケーションってところでしょうか  

 小橋さん(仮名)って職員がいます 大学を出て2年目のかわいい女性です ある時彼女が寝たきりで特殊な車いすの利用者さんとコミュニケーションしていて 「やられたあ」って言って床に倒れたんです もちろんわざとですよ 言葉を発することができない利用者さんは笑顔を見せることで応えてました 
 私はそれを見て全身使ってがんばってるんだなあと思った そうやって少しでも利用者さんに楽しくいてもらおうとの気遣いなんでしょうね 小橋さんに限らず職員さんの言動にはそこかしこにそういう気づかいが見える 感じます 
 笑顔を求めてがんばってる職員さんたちを見ていて 私ちょっと興味深いことに気付きました 

 「A男さん」と職員たちから呼ばれている利用者がいます このA男が扱いにくいんですよ A男につくことになるとどの職員もコミュニケーションに苦労してるようです 
「まあ ババですって 失礼しちゃうわあ ママなら許せるけどババは許せないわ!」 
とおばちゃん職員が叫んでました もちろんジョークです 他の職員だけでなく利用者さんにもニコっとする人はいます ジョークが伝わるからです でも当のA男には伝わってません
 A男は身体障碍と知的障害を併せ持ちます その精神年齢は私の見るところ幼児以下です その言葉はというと うわああ ばうわあ そんなのばっかです 精神年齢が赤ちゃんなんですね 見た目もそれにふさわしければ かわいいな とも思えるでしょうが残念ながら見た目は露骨なおっさんです そのおっさん顔の赤ちゃんが 「わあああ ばうああ」 うるさいことこの上ない そこには他の利用者さんもたくさんいますのでA男に付いた職員さんはなんとかなだめて落ち着かせようとするのですがみんな手こずってるようです A男にはマニュアル言が通じない
 そんななかでA男を比較的うまく落ち着かせられる職員が丸子さん(仮名)です

 その丸子さんがA男をうまく落ち着かせられるのは永くA男をみているのと相性の問題なんだろうと軽く考えてたんですけどね あるとき丸子さんがA男ではなく他の利用者さんとコミュニケーションをはかっているのを聞いていて あれ? って思うことがあったんだ 
 丸子さんのマニュアル言が淡々としてるんですよ 先に例に挙げた小橋さんのそれとはまるで違う 地味なんだけど聞いてると心に沁みてくる感じ 個性の違いはあるでしょうが 言葉の種類が違う気がして、、、、 あ そういうことかと思うことがあったので次にその話をします


 

 私の経験で言うとマニュアル言というのは芝居のセリフのようなもので話者は演者なんだよね 仕事という舞台でどこまでお客さんを自分の芝居に引き込めるか なんですよ 
 心のこもってないセリフじゃお客さんを満足させられないでしょ それはセールスマンでも介護士でも一緒だと思うんだ その点で見ると小橋さんの頑張りは大いにほめたい 

 でもセールスマンと介護者では決定的な違いがある 特に訪販のセールスマンはお客さんとの付き合いは一過性のものでその時限り でも介護士と利用者さんの付き合いは長くなるからね その場をしのげばいいってことではない 人間関係が重要になってくる そのために避けて通れないのが自分の心にある障碍者に対する差別意識をどう克服するかだと思うんだ

 障碍者施設に勤める職員で利用者さんに差別的言動をする人はいないはずです 少なくとも私の知るこの施設にはいない 
 じゃ差別的言動がないからといって「差別意識」もないのかというとそう単純には言い切れない 

 人を外見によって差別してはいけないのは まあ 職員に限らず誰でもみんな分かるよね でも誰にも好き嫌いはあるはずなんだ 誰でも美人やイケメンを好むでしょ それが普通だと思うんだ 
 そんな普通の人がいきなりここの利用者さんたちを見たらドン引きしちゃうだろうと思います 外見だけで見たら街で普通に見かける一般の人達からは非常に遠いですから、、、 

 ではそんな利用者さんたちに一歩も引かず普通に接してるここの職員は普通じゃないのか? 

 そんなことあるわけないですよね じゃ どうしてるのか 

 お金のための仕事だと割り切ってる もしくは理性で差別意識を抑え込んでいると思われます 少なくとも最初はそうだったはずです 最初はです 
 でもね 一時だけなら理性で差別意識を抑えられても 長く続けるのは難しいでしょう そのまま無理して続ければそれこそ相模原の方で事件起こした植松某のようにもなりかねない そういう人はこの職に就いてはいけない 

 なので理性で差別意識を抑えるのでなく 差別意識そのものを心の中から解消するようにしなきゃいけません

 それは特に難しいことじゃないですよ 人の外見ではなく心を見るようにすればいいんです 簡単ですね

 人の外見じゃなく心を見るようにするんです

 人の外見ばかり重視するから美醜やら優劣やらが気になるんです 人の心を中心に見れば外見の違いは助け合いにはつながっても差別にはつながらない  

 心って直接は見えないから付き合いを通じてその心を感じていかねばなりません 心を当たり前に感じられるようになると次第に個性を理解することになります ここで言う個性は心(あるいは魂)の個性です そこまで行くのには多少の時間はかかるでしょうけどね 分かってしまえば差別意識なんかどこにもなくなる おそらくたいていの介護士さんは無意識にでもそれをしてると思います

 丸子さんの利用者さんへの言葉を聞いていて上記のことに思い当たりました 彼女の言葉は心の思いをほぼそのまま語ってるように感じられたんだ マニュアルの枠はあってもほぼ真言なんだろうと思う 
 そしてさ だからみんなが手こずるA男も丸子さんにはおとなしいのかなと思う 真言は言葉の内容より心の方が大事です
<私はあなたの敵じゃないよ 私はあなたの友達>
それを言葉ではなく伝えるんですよね

 言葉は心の思いを伝えようとして出来てゆく そこに嘘はなくだから言葉は真言から始まる


 さてさて この記事を描き続けていて丸子さんと平木さんは同じタイプなんだなって気がしてきました そして多分私もです ただし性格は度外視してのことですけどね 性格の違いから人への対応は真逆のようにもなります
 さてさてさて いよいよこの記事も終盤です




 丸子さんと平木さんはどちらも嘘が不得手で演技も苦手な不器用なタイプだと私には見えます だからか儀礼言もマニュアル言も得意じゃない だけどだからこそ そんな彼女たちにとって施設利用者さんの相手は精神的には苦にならない 重度の障碍者って虚言も儀礼言も使わないから マニュアルの規制を別にすれば彼女たち心のままに接していればいい 

 平木さんが私に言ってました
「学生の時は動物園の飼育員にでもなろうかなと思ってた」
分かる すごく分かる 動物は嘘つかないもんね 見えるままだ

 私から彼女にこう言ったことがあるんだ
「私さ 孤独には強いって自信あるんだ でも 独りが好きってわけじゃない」
 彼女はすぐさま応えた
「わたしだってそうだよ ホントはみんなと楽しくやりたいよ でも合わない人と無理に合わせるぐらいなら独りでいい」

 さてさてさてと この記事の最後はまた自分の話です



 私 自意識が強いんですよ それはもう子供の頃からです このブログを読み続けてくれてる方ならお判りいただけるかなと思うんですが どうでしょう?

 自意識が強いとね これはダメ これをしたら赦せないと思うことはしない つか できないんですね 自意識がそれをすることを許さない それは規則や社会規範による制限よりはるかに強い 結果として自分自身を生きることにつながりやすい それはいいことだと思ってる 世間がどう評価するかは知らんけどね 

 でも自意識が強いことでマイナスなこともあります 人を理解するのが困難なことです 自意識が強すぎて他者の言動が理解できない その理解できない言葉が儀礼言です
 先にも言いましたが儀礼の言葉そのものは分かるんです 分からないのはその儀礼言を使う人の心です

 「栄転おめでとうございます 今後もよろしくご指導お願いします」
なんて言葉を聞くとするでしょ 自分とその相手との関係を考えちゃうんです もし仲良くない相手からそんなことを言われたら コノヤローどういうつもりだ なんて思ってしまう 
 自意識が強い私は心にもない言葉って喋れないんだよね なので儀礼言を当たり前に喋れる人が理解できない で 人と上手くやれない 
 その結果 つまらないことで人とやりあい続ける あるいは争う事が怖くて目立たぬように目立たぬようにひっそり生きる
 どっちも 損だよね

 今にして分かるのはね 私は儀礼言の用途を勘違いしてたってこと 自分がそれを使えないからって流暢に使う人に反感を持っちゃってたんだよね それって拙い 人はいろいろだ 心をフラットにしてなきゃ

 儀礼言ってさ まだ打ち解けてない人に対しては非常に便利なんだよ その相手とどういう距離感で話せばいいか分からない時あるでしょ その時儀礼言を使いながら相手との距離を見極め且つ決めていくんだよ
 私は儀礼言が下手だから相槌中心だけどさ それでもフラットな心でいればそれなりに相手のことが見えてくる それから付き合い方を決めればいいんだよ  

 いろんな人がいるんだからさ すべての人と仲良くってのは現実的には無理があるよね 合わないなってことが分かればそれなりの距離をとったスタンスでいいように思う 無理に人に合わせるのは自分がしんどい
 その一方で自分に合う人もいるよ そういう人を探そう それはすごく居心地のいい場所になると思うよ

 

『地獄極楽は心にあり』って言葉があるらしいけど そうだと思うよ
 

 みんな幸せになろうね