マントラ第6章の3 心の構造 | やまのブログ

マントラ第6章の3 心の構造

 8月9月とボランティア名目で障碍者達を見ていて 早い時期から親近感、、、のようなもの、、、を感じていた のだが それが引っかかっていた なんだろう? 分かるようで分からない 分かる ようで 分からない 引っかかっていた



 好奇心からボランティアを始めた私は とりあえず嫌われちゃまずいと無理のない範囲でにこやかに努めていた それは私なりの処世術 本来の私はクール 見も知らない相手には好意も嫌悪もない 思いは相手を知ることによって生じ当面の距離感が決まっていく 
 ボランティアを始めた目的は障碍者それも重篤な彼らを観察すること どんな人達なんだ? 彼らを知ることで障害者への基本的な知見が得られると考えていた しかし見る前に嫌われちゃまずい だから刺激しないように
 <大丈夫 敵じゃないよ> 
そんな姿勢で彼らを見ていた 

 施設職員の障碍者へのケアはしっかり行われているように見えた 概ね良好だと思う 障碍者といってもその障害の状態は一人一人違っている 全く動けない者から動き回る者まで様々だ そしてコミュニケーションがどこまでできるのか一人一人が違うんだ 私的にはここ大事なとこかなと思ってる 対して職員はそれぞれの障碍に応じて対応しているように見えた(他のことは特に興味ないのでよく知らない) 通りすがりの一市民としては不満は感じていない あくまで通りすがりの一市民としてだけれど合格点でいいと思う
 でもそれじゃない そういうことじゃないのは分かっていた 私が感じている「親近感のようなもの」はそことは違う じゃ私は何に対して感じているのか 分かるようで分からない もどかしかった

 これはなんだろう?どうしてだろう?と考えてた バシストと似てる気がした でも何が似てるんだろう? 見た目じゃない 外見や言動にパリワラ達と似たところがあるとは思えない ではなんなのだ? 分からない 分かるようで分からない 何だ? なぜ私はこのように感じるんだろ? ずっと引っかかったままだった 



 10月になりボランティア期間も終わり そのバシストに帰って何もしない何も考えないものぐさの私に戻った

 ピザ食べたいな 「ピザカエガ?」 孫世代のパリワラに言った その結果あれよあれよの間にピザパーティになった 私はまったく動いていない そもそもピザ屋がどこにあるのか知らない いくらなのかどんなピザがあるのかも知らない すべては子供たちが動いてくれた 私はお金を出しただけ
 そろそろ洗濯しなきゃいけないな 全自動の洗濯機があるけど湧き水を使っているため終わるのに4~5時間かかる 温泉で手洗いなら30分ぐらいか、、、 で手洗いしようと 息子世代の嫁さんにバケツどこにある?と聞いた 嫁さんから洗濯機に入れとくからと示されたので汚れものを渡した 3,4時間後に庭にあるトイレに行ったついでに洗濯機を見た え? 何も入ってなかった 「ヤマ!」 同世代のパリワラが呼びかけ指さしたところに洗い終わった私のシャツやパンツが干されていた 私が何もしないままに洗濯は終わっていた 
 肩掛けを買おうと思った しかし私は織物に目が肥えているわけではない 偽物つかまされちゃかなわん 信頼できる店を選ばねば、、、 「ミー ショール チャイエー」 妹世代の婿に言った 後はすべて彼が手配してくれ私は美人店員(直観だけど彼女はセールスマン時代の私に通じると感じた 駆け引きはするけれど嘘はつかない)を前に選ぶだけになった おまけに身内価格にもなった
 バシストに居る時はほとんどこんな調子で進むため 特にすることのない私はものぐさになる つか それが地なんだろうな


 ものぐさな私は一日の大半をぼ~と過ごしている しかし 体はものぐさでも心は忙しく動き回っている いや むしろ体を使ってしなければいけないことがほとんどないために心が自由に動き回れると言うべきか
 心の中では思いが妄想となり駆けずり周っている 私の心は一定方向を持たない 瞑想中の私は迷走する心をぼ~と見ていた そして気づいた

 あの施設での職員と障碍者のコミュニケーションはバシストでのパリワラと私のそれに似ている
 

 バシストに居つくようになって3年目の頃 階下にネパール人の夫婦が部屋を借りた その奥さんが聾唖だった 私はその奥さんと顔を合わせても会釈以上のことは出来なかった でも当時10代後半だったパリワラがその奥さんと身振り手振りを使ってコミュニケーションしていた それがとてもスムーズに意思疎通出来ているようでちょっと驚いた それはまるで手話のようにも見えたが両者とも手話など知っているはずがなかった そして10代のパリワラが傍にいた私に言った
「ヤマ ナンディ セイム トウ ユウ」 

 ??? ナンディというのはその奥さんなんだけど 彼女がどうして私と一緒なのか どこが似てるのか 言葉の意味が分からなかった でも今は分かる、、、つもりでいる 

 パリワラとナンディは言葉ではないところでコミュニケーションしてたんだ そしてそれ 私とパリワラ達もそうだった 

 パリワラとナンディは同じ宗教を深く信じている 生活環境が似ている 常識が似ている だからナンディが用意しているものを見て 今日はあれをつくるの? それにはこれをしてもおいしいよ とかを身振り手振りを使ってコミュニケーションしていたんだろう
 私にその真似は出来ない 育った環境が違い過ぎる ヒマラヤの常識なんてまったく知らない 社会的な共通項がない 結果的にはそれがよかったのだと思っている 私はシンプルになっていた 社会常識以前の私が顔を出していた 

 私は片言のヒンディと片言の英語それに片言の日本語を使ってパリワラ達とコミュニケーションしていた それはナンディとパリワラが身振り手振りを使ってコミュニケーションするのと同じだった 分かるかな?

  記号論に通じるものだろう 記号論は言葉と言葉の指し示す物の別を知覚することから始まるようだけれど 私が知覚したのは言葉と言葉を発する物の別 私とパリワラ達にとっては言葉はただの道具にすぎず伝わったのは心の思いだったってこと 
 幸いにもお互いのそれは相性も悪くなかったようでそれがずっと続いている だから今の私達の関係になってる 
 そんな私がバシストでぼ~と妄想している自分を見ていたら これ あの施設での職員と障碍者の交流も同じじゃね と思いだしたんだ


 

 

 


 重度の知的障碍者に社会的処世術は持ちえない(当たりだよね) 加えてあの施設の知障者には自閉症を併せ持つ者が多いようで言葉による会話が成り立たない
 でも言葉を投げかけること等による交流は行われている
 
 知障者であれ自閉症であれ感じる思いは持っている 自らの内に閉じこもっているなら表に現さないだろうけど それでも交流を続けていればそれなりのことは分かる(感じる)ようになる 
 つまりここの重度の知障者は日常的に何らかの思いを発しているってことです 対する私達がそれをどう受け止めるかはその人次第でしょうけれどね

 12月に入った頃だったかトイレ近くの通路にソッポ君(いつもソッポを向いていて目を合わさない彼なのでここではそう呼ぶ)が座り込んでた その前を通って更衣室に入った後廊下で声がする 
「ヤマサキサン   ヤマサキサン」」
 棒読みだった ソッポ君の声だろうが感情が見えない  扉を開けて顔を出したらソッポ君の傍に居た職員のチビマルコちゃん(もちろん仮名)が言った
「すいません 山﨑さんのこと 憶えちゃって、、」
いえいえ どういたしましてって感じです つか ちょっとうれしい (憶えてくれてたんだ)
 後日通路のソファにソッポ君が座っていた アッチャーと小声をかけて通り過ぎる私

 「ミナイデ ミナイデ」

とソッポ君 私は振り返りにっこり笑い心の中でこういった  ('ω')ノ
 (ベーだ お前の言うことなんか聞いてやんないよおだ)
 

 さて ところでマントラ第4章 を覚えてくれていますか 以下はそこに示した概念を交えて話していきます ちょっと難しくなりますが ごめん
 まず 重度の知障者は私の言う「神の子」にあたるのですが 分かりますか?

 いまさらですが 神の子とは赤ちゃん 牛 猫 鳥 花 その他命ある者すべてを指します 対する人の子は唯一成長した人類だけ つまり私達 その私達も赤ちゃんから始まっている

 赤ちゃんは少しづつ成長する過程で神の子から人の子になるわけです どういう人の子になるかは魂の個性とその環境との関係で決まっていくでしょうが その始まりとなるのが言葉です

 言葉なんですよね

 私達が考えるのは言葉を使ってでしょ どのような「思考」をするのかは人によって違いますが たとえ右翼でも左翼でもオタでもフェミでもその思考は言葉によるでしょ 言葉が無ければ人の子としての私やあなたは無いんです 
 我 思う ゆえに我あり の我も言葉以前には無いのです でも赤ちゃん見てください そこに存在しているでしょう 泣いたり笑ったり喜怒哀楽を示しているでしょう それが神の子 


 神の子から人の子に替わっていく際にはいろんな色があるでしょうね 個別の内容は分かるはずもありませんが一般論として言えば神の子は人の言葉を憶えることで情報量がぐんと増える 乳児は魂の思いだけで世界とコミュニケーションする それが幼児 園児 小学生中学生、、最初はごく身近な環境だけが世界のすべてだった 自分の経験が世界のすべてだった それが言葉を憶えることで行ったこともない世界の出来事を知り 会ったこともない人の思いにも共感する さらには時を超えた過去世界の出来事も知る 遠い昔の人の知恵に驚いたりもする 当然それらの世界も自身に影響を与える 成長につれ世界は広くなっている 知り得た内容は自身の経験よりも他者からもたらされたものが圧倒的に多くなる そう だから我々は人類の子なんですよ 分かるよね?

 重度の知障者は人の子に成らずにずっと神の子であり続けているってことです
 結果 彼らはこの社会で人の子達の試金石になった 分かるかな?

 私がしているのは体ではなく心の話ですよ 分かってるよね私達の体にはDNAとか親から身体的に受け継いだものがあるんだろうけどそっちじゃない 心の話
 
 言葉を憶えて以来の私達の心は人類の影響を受けてる 人類の中には親も含まれますがその親も人類の影響を受けてるしね 私達は環境は違うだろうけれど社会に揉まれいろんなものを学んで今の自分があるってことでは一緒でしょ これが心の構造です



 人の子としての個性は千差万別 人の数だけあるでしょう いろんな人がいる でも 元を糺せばみんな神の子 
 自覚しているかどうかはともかく人の心の奥底(無意識乃至潜在意識の領分)には神の子がいる 神の子のコミュニケーションは言葉ではない まだ言葉を憶える前はもちろん 憶えて間もないころは言語によるコミュニケーションより内なる思いの方が強い それは共感や反感の形で表われる 成長した人間集団すなわち一般社会ではそれが良心と呼ばれるものにつながるのだと思われます

 でも世間で起こる出来事を見てると (こいつ 良心ないのかな) と思いたくなる事件とかありますよね ラプラスの悪魔に乗っ取られてるんでしょうけれど その状態でこの世に生を受けたわけではなし 赤ちゃんの頃があったはず ラプラスに乗っ取られる前の彼ないし彼女はどんなだったんだろうと考えてしまいます 推測できることはあるのですが根拠が自分の思惟だけなので語りません 語れません ただ
 ただ幼児教育が大事というのは本当だと思いますよ でも最初の教育は知識じゃありません 最初の教育は子供の共感をたくさんたくさん引き出すことです ほとんどの親御さんは無意識にやってるでしょうけどね

 それでも最終責任は自分自身です たとえどんな育ち方をしようと他者に責任転嫁は出来ません 成人したあなたは人の子 人類の子ですから たとえどれほど酷い親に育てられようと人の子として目覚めてからはいろんな価値観に触れてるはずでしょう どんな生き方をするかを選ぶチャンスはあったはずです 
 ちなみに私は手塚治虫に救われたように思っています アトムに出会ってから私にある種の感情が目覚めた 私は共感しまくりでしたwww

 心の構造が分かればラプラスの悪魔に囚われてた人も自分の再検証が楽になりますよ もちろん再検証するしないはあなたの自由ですけど
 ただ自分の心を再検証して確かめるとどういう生き方をするかをもう一度選べるようになります 自分の意思で

 次に身障者の話をします 参考になれば幸いです 
 

 

 障碍者には重度の身体障害はあるが知能には問題のない人達もたくさんいますね こういう身障者達は基本的には亜衣さんや英知専務と同様だと思われます 心の構造は身障者も健常者も変わりませんが私が出会った限りではピュアな人が多い
 それは自分が他者とは違うと自他の別を早い時期に知るからだろうと考えています 社会常識や世間の価値観を知り人の子としての処世術を身につけるより前に自分のことを自覚するとその自分が深く心に刻まれる するとラプラスの悪魔に囚われにくくなる 

 ボランティア中に私が見たエピソードを二つほど描きます
 足の悪いお姉さんがいる 他の障害を併せ持っているのかは私には分かりませんが職員の言葉は理解し頷いている(無口な女性だった)このお姉さん基本的には椅子に座っているのだが移動の際には2本の松葉杖を使って移動している 足はあるのだけれどほとんど役に立っていない 地下の大ホールへ行く際には階段を上り下りする 必ず職員が傍についているのだがその言葉にやや冷たさを感じなくもない(ちょっと顔の怖いおじさんなのでそう感じるのかもしれない) そもそもなぜエレベーターを使わない なぜ車椅子を使わない 隣接する高齢者施設でなら考えられない指導だ、、 でもここは高齢者施設じゃない この松葉さんはまだ若い 腰から下は不自由かもしれないが上半身は自由にうごく 少しの間だったけどまじかで見ていた私にはこの松葉さんと顔怖職員はお互いに暗黙の了解をしていると感じるようになった 
<無理はしない させない でも出来そうなことはやらせる やる>
 彼らの言葉にしない会話 多分そんなもんだと思う 勘だけど ホントのところは知らんけど

 電動車椅子の松ちゃん(仮名)というお兄さんがいる 明るく元気なお兄さんなんだよね 自由時間には1階のフロアを動き回ってる 玄関で待っている送迎バスの運ちゃんたちとよく駄弁っている この松ちゃん車椅子に乗ってるところから分かるように足が悪い というか使い物にならない、、健常者の私が見慣れている足とは違う それは手も同じ この松ちゃんは電動車椅子がなければ手足をバタバタする以外にまったく動けない その松ちゃんが実習課題としてちっちゃな星や花のシールを台紙に張り付ける作業をしていた 健常者なら2歳児レベルの作業だろう 松ちゃんは私といろいろくっちゃべりながら作業してたんだけど作業しながらこんなことを言った
「障碍者だからって何も出来ないわけじゃないんだ 俺たちみたいな障碍者にも出来ることはあるんだって示したいんだ」

 他人と競争してるんじゃない 自分と勝負してるんだって事がその言葉から分かります 自分を生きてるって事でもあります あなた分かるかな?


 
 ところで英知専務は温厚な人なんだけどそれでもやっぱり気に食わない人がいるらしい 仕事帰りの都電で英知専務と一緒になった時ぼやいていた お袋さんがTVで障碍者のX氏を見ていて同じ障碍者なのに立派な人がいると自分サゲで言われたんだって 専務のぼやきはよりによってなんであんなXみたいな奴と自分を比べてくれんだってことでした(*´Д`) 
 専務は障碍者福祉に関わる仕事をしている そして自身も障碍者であることからその界隈の話を知っているようで X氏についていろいろ話していたけれど要するにX氏は人の善意を自分に利用するタイプの人らしかった 聞いていた私はそういう人は健常者にも時々見かける そう言うと専務はこう応えた
「でもなあ 障碍者で友達がいない奴ってよっぽどなんだよ」

 その辺の話は私には確かには分からないけど想像はつく 多分障碍者は共感能力に長じている だから彼らは理屈よりも自身の感性で人を見分けている おそらく当たっている

 その英知専務は松ちゃんとも親しい で その専務に松ちゃんも一緒に飯でも食べにいかないかと誘われてる その時は社会的地位や外見を全く度外視した食事会になると確信している