本能すなわち欲望 | やまのブログ
2019-01-05 05:00:33

本能すなわち欲望

テーマ:神学第二部

 

 人間は本能の壊れた動物であり神様の作りそこないだ

 というような主張の一文を読んだことがありました 30年ほど前のことで誰のだったか憶えてないです
 その主張に至る内容にはもったもだなと同意できたのですが でもその結論の「神様の作りそこない」っていうのには、、、、 (・・? 
  分からない のです 分からないのに 心の内に感じる (・・? こういうのを違和感というのかもしれないと思った  

 30年後の今は思います 神様は百も承知だったんじゃないか 

 エントロピーは増大する 物事は散乱してゆく いろんなのがあらわれる 中に知恵を持つものもあらわれてさらに欲望を教えられたなら それは加速してゆく その結果どうなるかの想像ぐらいつくだろう 経験していなければ具体性は想像しにくいかもだけれど単なる計算の元(ラプラスの悪魔)でなら分かるはずだ それは滅びに向かうと

  原初の因果律は単なる物理法則だったのかもしれない でも個々の生命が現れたならそれぞれの生命体の因果律は本能に支配される その本能は在る 在り続ける という生存欲と言えるように思う
 在り続ける 生きるという本能のために動く お腹がすいてそれが他を殺して食することで癒されるならそうするのが神様の設定した本能だろう
 物理法則(?)で始まった因果律は本能に取って代わってゆくことになる 

 本能は個としての「思い」の始まりとも考えられる 心と呼ぶにはあまりにも淡い言葉以前の思い それでもそれは心の始まりには違いないだろう それは次元が変わる変革であり アセンション(次元上昇)って言ってもいいものだと思う

 初期の本能はしごく単純なものだったろう 食欲 睡眠欲 性欲 などの生存そして種の保存に必要なものだけだったかと思う けれどエントロピーは増大する いろいろな生命体が現れ 知恵を持つものが現れる 知恵は欲望を膨らます 所有欲 支配欲 名誉欲etc 欲望はいろんな方向に増大してゆく 

「人間は本能の壊れた動物、、、」って思う気持ちは私も分かる 人類の歴史をふり返れば酷いことをしてきている 他の動物ならしないだろうことをしている 他人の住処を奪い殺すか奴隷にしてた だけでなく仲間であるはずの者にも虐待をはじめ殺しはじめていた 時には親族も殺してた 兄弟を殺し親をも殺し子供をも殺してた それはどれも自分の欲のため、、、 

 知恵は欲望を増大させるが理性をも生む それは善悪や道徳等の概念を生み出し倫理観を手に入れる 自己の欲望の絡まないところでならそれらはけっこう強い力になるが欲望が絡むと形勢が変わる 欲望のためには何でも利用する 平和を主張し正義を語りながら悪行を行うものが現れる

 ゆえに 知恵に欲望が掛け合わされた人類は世界を巻き込みながら滅亡に向かう
 でも それでいいのだ 神様は作りそこなったりしない

 それでいいのだ 神様はそんなこと分かってたんだ 欲望も本能だろう それが外界と反応していろんな方向に膨れ上がってくことぐらい分かるはずだ エントロピーは増大する そんなことは百も承知なんだ
 そのうえで 神様は賭けをした

 神様はサイコロを振って結果を待つことにしたんだ と30年後の私は思っている

 12月10日にこんなツイートをした
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">神は奴隷なんか望んではいない なんでもこっちが命じなければ何も出来ないような者などいらない 神が望むのは自分の意思で動く者 神が望むのは自分と対等なもの 友達 家族 時にライバル そう言うものは因果律にしか動けない者ではない 神は自分と遊べるものがほしいのだ と私は妄想している</p>&mdash; やま (@yamasaki117) <a href="https://twitter.com/yamasaki117/status/1072092942825750529?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年12月10日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
 
 私の想像(妄想)が正しいなら神様と友達になるには因果律を破らねばならない 




 さてと 
因果律を破った者として私はまずブッダとキリストが頭に浮かびます 
 以下その二人に絡めながら記事を描いてゆきます

 

 私 思うに ブッダ(ゴータマ・シッダルータ)の真にすごいところはその残した言葉にあるのではない 残された言葉は参考になるだろうし 手引きにもなるかもしれないけれど でも鵜呑みにしてはいけない ブッダ自身も言ってたと聞いている
「たとえ どのような人が言ったことであろうと それを鵜呑みにしてはいけない あなた自身で咀嚼して納得した時に はじめて同意するんだ」
 私この言葉大好き 誰かの二番煎じではなくそのような言葉を発せられるのはブッダがその心境に至ってたからですね それは彼の生き様の結果です

 彼 王子として生まれてるんだよね どの程度の王子だったかは知らないけれど結婚もしてたし子供も作ったようだ なのに家も家族も捨てて出ていった 何か思うところがあったんだろうけれど人の心の内 ホントのところは分からない  

 僕らは洗脳されている 御釈迦様の世間的なイメージに洗脳されてる

 実際的なことは知らないくせに仏教の開祖だとか目覚めた人(ブッダはその意味らしいね)だとかの世間的なイメージに洗脳されている 多分に無意識的な洗脳状態だろうし そう仕向けた外界に悪意は無かったかもしれないけれど 洗脳されてることに違いはない それは因果律の範ちゅうだろう そこにとどまっていてはいけない

 ブッダがどんな人であったにしろ 生きてゆくための生命活動は必要 家を出てしまえば王子であった頃とは生活は一変する ブッダが何を求めどのような信念を持っていたにせよ 糧食が要る 多くか少なくかはともかく必要 ブッダはそれをどのようにして手に入れたのだろう

 世間の施し

 だよね 施しによって生きていたと思われる その時彼は世界と自分の関係をどのように捉えていたのだろう? 彼は現実世界の自分をどのように思っていたのだろう?
 彼に限らず悟りは現実世界と自分の関係を的確に捉えるところから始まるものだ と私は考えている

 余計なことかもしれないけれど ブッダが生きていた当時仏教教団はない 彼は生まれた地から遠く離れた地を放浪している そんな彼を見て人の心はどのように動いたのだろう それとも何も動かなかったのか? 想像してみよう そして人の自分に対する反応を見てブッダの心はどのように動いていたのだろう 想像してみよう





 インドにはサドゥと呼ばれる人たちがいます 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC
 サドゥはブッダと同じく家も家族も捨てた人達です その理由はサドゥによって違うだろうけれどね そのサドゥたちのやってることや生活状況は基本的にはブッダの頃と変わっていないでしょう なぜなら シンプルだからです
 サドゥは社会的な一切合切を持っていない ゆえに社会環境により形成される欲望からは遠くなり人間の原初の本能に立ち返ってゆく 

 ところで私 サドゥのことなら体験的に分かることがあります この30年ほどの間に私がチラムを交わしたサドゥは少なく見積もっても三桁は楽に超えます 90年代の一時期 バシストで毎日お寺に座っててやってくるサドゥたちと梵してましたので (^。^)y-.。o○

 その私の経験で言うのですがサドゥには格があります それは社会的地位や財力など外界とは無縁のオーラ(雰囲気)により決まります 初対面のサドゥたちも瞬時にそれを感知し順列が決まっていく でなければマウンティング争いになってしまう? 

 2008年に描いたサドゥ絡みの記事2本を見ていただけますでしょうか どちらも非常に短い記事です
https://ameblo.jp/yamasaki117/entry-10127060100.html
https://ameblo.jp/yamasaki117/entry-10127174011.html

 上記記事のサドゥが右手を上げ続ける理由は知りません 正直に言えば特に興味もない 近しくなればもっと相手を知りたい欲が出てどうしてって尋ねるかもしれませんけどね☺ 
 右手を上げたままのサドゥに初めてあったのは90年代半ばです その当時でもう何年も(10年ぐらい?)右手をあげたままだったようです 村でも話題になってました でも私は彼のオーラが嫌いだったんですよね 

 うざい 目障りな奴だ って思ってた

 でも口には出しません 絡んで来れば何らかの応え方をしたでしょうけれどね でもサドゥたちとの中でそれは在りません 

 オーラなんですが 社会的な鎧を持たないのはサドゥだけじゃなくホームレスの人達もそうですよね そのオーラ 分かりやすいでしょ? それはね 表裏がほとんど必要ないので自分の内面が前面に出てるからじゃないかな その点でサドゥもホームレスも同じ条件なんですよ 

 なのでサドゥたちは相手のオーラを見て判断します そこに自分がいていいかどうか 合わないと思えば絡まない 彼らにとって争いになって得になることはひとつもない なのでサドゥたちの中でマウンティング争いを見ることはありません 

 とはいえ 内面ではいろいろ溜まっていてもおかしくないでしょう 俺のが正しいのに 俺のが先へいってるのに 俺のが、、、、 承認欲求というのはサドゥにもあるはずです でも彼らのそれは他者に求められない 他者に自己の承認欲求を求めるならその時点でもはやサドゥ(修行者)ではない

 社会に自己のアイディンティティを依存しない生き方をしていると 承認欲求に限らず心に溜まるものがあります 内面に溜まりに溜まったものがオーラに顕れると非常にインパクトが強い そして 時に奇妙な現実を引き起こすことがあります

 次回の記事に続きます
次回はイエスキリストに絡んでゆきますが内容的には今回の続きなので お待ちいただければ幸いです


 

 
 

  

  

 

 

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