上から読んでも山本山、
では下から読んだら?
山本山!
ブブッー
下から読んだら、マヤトモマヤ ですー
とかしょうもないクイズ小さい頃やってました。
「上から読んでも、、」は、小さな頃は毎日コマーシャルに流れてて、贈答品によく使われる海苔のお店、と思っていました。
結構前にそれだけじゃなかった、
ことを知って、えーあの山本山が!と違和感を感じて今に至る、でした。
昨日の続きです。
宇治田原にある永谷園の祖、宗円の生家を訪れました。
地元のおばさんにもらったリーフレット読んで他に、色々調べたら、、、
宇治田原で煎茶の製造方法を開発したのにはワケがある。
当時、お抹茶は高価な飲み物でした。
抹茶は宇治の茶問屋がその製造販売の利権を握り、誰もが簡単に作れるものではなく一般大衆が気軽に飲むようなものではなかったのです。
当時の人は葉カスや茎などを焙じてお茶を飲んでいたそうで、茶色とはこの大衆のお茶の色からきた名前、だったんですね。
そこで永谷宗円は大衆でも美味しいお茶を飲める様に、と、合法な製造方法でお抹茶とは違う薫り高いお煎茶を開発したのでした。
しかもその製造方法は隠すことなくみんなに教えた、っていうからすごい人です。
でも利権ガチガチの京都、宇治、で煎茶のよさがすぐに認められるわけはなく、広めるのに苦労したそうです。
それを見込んだ2人の人物によって一般にお煎茶が広がる様になったといわれています。
まず1人は、京都の売茶翁。言わすど知れた茶祖、僧侶でありながらお茶の道具を担いで売り歩いていた、おじいさんです。
ファンキーな風貌 ♪
伊藤若冲の作画だそうです。
売茶翁は永谷宗円のもとへ行き煎茶を大いに認め広めた、といわれています。
売茶翁にリスペクトされた永谷宗円さん
もともと抹茶の茶道は信長や秀吉のように武家を中心に広がりました。でも煎茶は売茶翁が市井の中で人々に広めたのです。
この売茶翁の世俗と離れた清貧さの精神が、後に煎茶道となり今もたくさんの流派で抹茶の茶道とは違った世界観、文化を築いています。
そしてもう1人が、マヤトモマヤ、もとい、山本山です。
販路を求め宇治を離れ江戸に店を構えていた“ 茶商 ” の山本山は、わざわざ宇治田原から江戸まで尋ねてきた同郷の宗円の煎茶の良さをすぐに認め、買い付け、後に製法を習い、広めた、といわれています。そして、製法を教えてくれた御礼に毎年25両払い続けたそうです。とても律儀です。
このように山本山は本来、宇治から江戸の日本橋に移ってきたお茶の専門店で、海苔を扱いだしたのはなんと戦後から、なんですって。
つまり、永谷園の発明した煎茶を、売茶翁が文化的に高め、上から読んでも下から読んでも山本山が販路を広めた、ということになります。
それが今はなぜか山本山は海苔も扱い、(ホームページではお茶推しでしたが世間一般のイメージは海苔、でしょう)
永谷園はお茶づけや即席の食品会社となって
どちらも東京に拠点を置いております。
よっぽど宇治の抹茶のお茶問屋から恨まれたんでしょうね〜( ̄▽ ̄)
でもこの三者がいなければ今の日本の文化は大きく変わっていたかも知れないのです。
もともと武家や禅寺で飲まれていた抹茶文化。
煎茶は庶民の力、反権力の象徴、といえば言い過ぎかもしれませんが、売茶翁も権力と近くなりすぎた京都の宗門に対する反発心があったとも言われています。
売茶翁ゆかりの寺、萬福寺
毎年全国から各流派が集まり煎茶大会が開かれます。
興味深いことに煎茶道は、当時、政治の表舞台から隠れた存在となるも幕末に沸々と蘇った、京都のお公家さんを中心に広まりをみせます。
さらに驚きが、
そんな永谷宗円の煎茶を世に広めた山本山 6代目嘉兵衛さんが江戸から戻り宇治の木下家において研究し、なんと『玉露』を開発したんだそうです。
えーマジかよ(´⊙ω⊙`)
じゃあ何かい、
永谷園が煎茶を発明して、山本山がそれを広めて、そのうち山本山が玉露を開発して、と思ったら永谷園はあっさりお茶づけメインの即席の食品販売に転じ、山本山は海苔推しでコマーシャル流しまくってる、、、
もうわけわかりません(´Д` )
いや!やっぱりわかる!(゚∀゚)
わけわかりま〜す!ψ(`∇´)ψ
だってよく考えたら
煎茶もお湯かけるだけの即席の飲料やん!
お茶づけ海苔と一緒やん!
とにかくお湯かけるだけでなんかがしたかったんやわ。
お茶のお店がお茶湿らん様に管理するノウハウ活かしたら、海苔も同じ様に管理して扱えるやん!
とにかくお茶とついでになんかが売りたかったんやわ。
永谷家も山本家もとにかくお茶と同じ様になんかがしたかったんやわ。
なんちゅうベンチャー精神
すごい、すごいよ!永谷園!!山本山!!
京都が現代に陥ってるジレンマをとうに軽く乗り越え、イケてる老舗企業やわ、ってお話でした。