【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】 

中森明菜、01年ユニバーサル移籍で本格始動 第一弾はカバーアルバム「これからはボーカリストとして実績を作り上げていく」

ユニバーサルミュージックへの移籍が本格的に動き出したのは2001年の春になってからだった。中森明菜からも安堵の表情が見えてきた。

そんな中、明菜の移籍に動いてきた寺林晁氏から「新たに設立する事務所と契約を結ぶことになった」と聞かされた。

寺林氏は元ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で明菜の制作宣伝を統括してきた人物だ。だが、明菜の現場を離れることになり、その後、ユニバーサルミュージックの前身だったマーキュリーミュージックエンタテインメントに邦楽部長として返り咲いた。マーキュリー時代は松田聖子の移籍に動き、第1弾「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」をミリオンヒットさせている。

「マーキュリーの親会社だったポリグラムの石坂敬一社長(当時)もそうでしたが、寺林さんも『欲しいものは必ず取りにいく』考えでした。狙ったものは手段を選ばずの部分もありました。なので聖子の次に明菜というのも実はレコード会社のトップの意向だったはずです」(業界関係者)

ちなみに当時の明菜の事務所は加藤登紀子の音楽プロダクション「楽工房」と契約を結んでいたとされている。が、私は寺林氏から「興行会社のキョードー東京の元関係者が窓口になっている」と聞かされていた。確かにインディーズから新曲を出していることから「楽工房」との契約があったのだろう。ただ寺林氏の頭の中にはユニバーサルとの契約が締結されるまではコンサート活動でつなごうという考えがあったのかもしれない。

そんな状況下で、寺林氏から呼び出され、紹介されたのが門村崇志氏だった。東京・青山のユニバーサルミュージック6階の役員室に入ると、円卓テーブルに寺林氏と門村氏が向かい合っていた。私が部屋に入り、寺林氏の斜めの席に座るや、開口一番、「会うのは初めてだったね。今度、彼に明菜を任せようと思っているんだ」といきなり紹介してきた。明菜より4歳年下だったが、寺林氏との関係はあいまいな記憶しかない。ただ、過去に大手プロダクションにいた経歴もあり、寺林氏が「公私に渡って面倒を見てきた」ようだった。

「これからは、彼がしっかり明菜の管理をするだろうから」

ユニバーサルとの契約を前提に門村氏が新たな個人事務所「FAITH」を設立したことも聞かされた。

「ファンクラブも一新してスタートさせようと思っています」と門村氏は明菜のマネジメントに意欲を見せていた。

「デビュー20年目は盛り上げないとなぁ」

寺林氏も、いつになく意気込んでいた。当時の様子について、音楽プロデューサーの川原伸司氏も著書「ジョージ・マーティンになりたくて〜プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録〜」(シンコーミュージックエンタテイメント刊)の中で記している。

寺林氏とは「アルバイトで音楽ライターをやっていた頃からの知り合い」とし、その音楽性は、かつてウドー事務所で宣伝部長をやっていたことなどから「洋楽の人だから〝歌謡歌謡〟してなくてセンスが良かった」と評している。

その上で「『おい、明菜が戻ってきたから、川原頼むわ、やっぱりカヴァーだよな』ということで、ユニバーサルの移籍第一弾として『歌姫』の『2』を作ることになりました」としている。

寺林氏は、明菜をデビュー前から手塩にかけて育ててきた。

「それゆえ周囲の思惑もあって明菜との関係は引き裂かれ、結局は離れざるを得なくなった。ところが、その後の明菜の音楽活動は紆余曲折していた。寺林さんの中では『ようやく取り返すことができた』という気持ちだったでしょうね」(ワーナー時代の明菜の宣伝担当者)

明菜でカバーアルバムを出すことについて、寺林氏は、時代の流れの中で「これからはボーカリストとしての中森明菜の実績を作り上げていく」と明言した。