ロードスターと笑顔と、あるエンジニア。 | くるまの達人

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とか、タイトルで謳いながら、実はただの日記だったりするけど、いいですか?

ついぞクルマを創る仕事に関わること
がない人生になってしまったわけだが、
書きものの仕事を通じてクルマを創る
仕事を手に入れた人たちと多く知り合
うことはできた。

自動車エンジニアやデザイナーは、き
っと多くのクルマ好きにとってのあこ
がれの職業だろうけど、もちろんどの
ようなスタンスで仕事に向き合ってい
るかということは、各人の属性に由来
しているわけで、いわゆる9to5的に
こなしている人もいれば、生きている
ことの証のごとく染まりきった人もい
る。働くということと生き様の関わり
が、所属する会社の別であるとか、男
女の違い、国籍などに因らないことは、
その他の業種でもほぼほぼ同じだ。

ただ、自動車メーカーで働く開発者に
おいては、そもそもわたしがその分野
に傾倒していることもあって、ときど
き心を通わせるような付き合いに発展
するような相手もいる。


若狭章則さんとは、2013年末から始ま
った仕事を通じて知り合った。とは言
っても、若狭さんを紹介する原稿を依
頼されたり執筆したりすることはなか
ったし、わたしから積極的に接点を求
めることはなく、広島に出掛ける度に
若狭さんの方からたくさん話しかけて
いただいたのが当初の様子だった。

そして間もなく、わたしも若狭さんと
いう人に強い興味を持つようになった。
彼は、わたしとエンジニアリング論を
交える時間がとても好きそうだったし、
まさにその時、公に発表するときへの
カウントダウンを刻んでいた新型ロー
ドスターに盛り込まれた知的な技術へ
の具体的な感想もたくさん訊かれた。

けれども、わたしが若狭さんに惹かれ
たのは、彼が話す技術的な各論よりも、
その技術はいったい何の役に立つのか
ということから逆算するような話っぷ
りと、逆算の起点を示す単語が“笑顔”
一辺倒であることだった。

朝起きて“笑顔”、昼めし食ったら“笑顔”、
夜寝る前に“笑顔”……。

そんな調子の彼のロードスター論に、
最初は失笑を禁じ得なかったことは、
今となっては、わたしがまだその領域
への悟りを開けていなかったというこ
とで、工業製品であるクルマを表現す
る単語として“笑顔”などという表現
があり得るのかと疑っていたわけだ。



2020年の4月5日に若狭さんは、逝っ
てしまった。


この後に紹介する原稿は、その日の1
週間前に実施した広島での撮影時の出
来事を柱に書いた。嘘みたいな話だが、
5日の深夜2時ころに仕事部屋の電話
が鳴った。酔っ払いの間違い電話だろ
うと受話器を上げることはしなかった。
わたしは、この原稿を書いていた。後
日、遺された奥様にその話をしたら、
ちょうど容態が急変して最期を迎えよ
うとしていた頃だと教えられた。

4月27日発売の雑誌に掲載された。ご
本人に読んでいただくことは叶わなか
ったが、若狭さんが“笑顔”という言
葉で、ものを書き発信する立場で働く
わたしに向けて訴え続けた、自動車エ
ンジニアとして染まった人生を表現す
る彼の集大成、

人と人をつなぎ、幸せを共有すること
技術の目的は、つまりそこにあります

というタイトルを付けて紹介した記事
を、今年も読み返した。

皆さんにも、ぜひ読んでいただきたく、
紹介します。



*********************

掲載用の写真を撮るために、若狹さん
の赤いロードスターで移動した。2年
前まで毎日通った懐かしい場所に着く
までの時間、いろいろな話をした。相
変わらず相手の様子を窺うように言葉
を選んで話す若狹さんに、わたしは初
めてこんな直球を投げた。

あなたは、会社では引く手あまたのエ
ンジニアではなかった。そう感じてい
ます。

初めて見る少し驚いたような横顔。そ
して、しばらく沈黙が続いた後、返っ
てきた。

「懇願して懇願して、しつこいくらい
その時々の上司にお願いして、ロード
スターの開発メンバーに加えてもらっ
たんです。私に対する会社の評価は、
私には分かりません。けれども、どう
してもロードスターの開発をやりたか
ったんです。“人馬一体”を創る多く
の手の中に、自分の手も添えたかった
んです」


北海道・函館を発った若狹青年の広島
での人生は、1972年に始まった。当時、
東洋工業(現・マツダ)は、世界初の
2ローターロータリーエンジンを搭載
したコスモスポーツを皮切りに、新時
代の到来を予感させるこの特徴的なエ
ンジン搭載車種を精力的に拡充してい
た。技術的な課題が山積するという実
際はともかく、このエンジンには夢が
あった。未踏の頂を目指して進む大勢
の技術者たちの足音が聞こえるような、
そんなエンジンだった。

「なんといってもロータリーエンジン
だったんです。猛烈に憧れました。こ
れだと決めたら、もう突進するような
勢いですよね。若さの美徳だと思いま
す。東洋工業に入社して、ロータリー
エンジン研究部/設計課というところ
に配属されたわけです」

ロータリーエンジンの研究・開発には
約10年間携わり、ディーゼルエンジン、
レシプロガソリンエンジンなど、いく
つかの部署を経験した。その間に、ロ
ータリーエンジンは時代の要請に適わ
ず幕を下ろし、一方で“人馬一体”を
標榜するロードスターが誕生した。

「なんて楽しいクルマだろうと思いま
した。そしてエンジン設計者としてエ
ンジンそのものに向いていた自分の興
味が、次第にクルマという全体の姿に
移っていったんです。エンジンのため
のエンジン開発をしていては、ダメだ。
クルマのためのエンジン開発とは何だ
ろう。その答えに近づくための機会に
貪欲になったのは、ロードスターを知
ったことがきっかけです」

本人曰くしつこいほどの懇願が受け入
れられ、晴れてロードスター開発メン
バーの一員としての任を手にしたとき、
若狹さんはすでに40代半ばになってい
た。ロードスターの開発は3代目のN
Cというモデルに突入していた。

「チームリーダーとして開発の進捗や
方針を引率するのが、私の仕事でした。
個別の技術というと、そうですねぇ…」

会社をリードするような技術的アイデ
アに溢れる引く手あまたのエンジニア
ではなかったかもしれない。でも、あ
なたのような人が開発の現場にいたこ
とは、ロードスターが道を違えず、多
くの人の笑顔を招くクルマとして今も
存在する大きな理由だと思っています。

間もなく撮影場所に到着する頃、そう
伝えた。若狹さんは黙って聞いていた。


毎月のように開催されるロードスター
愛好家たちのミーティング会場に、若
狹さんの姿があった。60歳、定年再雇
用のための健康診断で肺に癌が見つか
ってからは、全国どこの会場に行って
も、愛車の赤いロードスターと共に駆
けつけている姿が必ずあった。どれほ
ど好きなんだろうと感じていた参加者
は多いと思う。けれども、病魔が次第
に蝕んでゆく体調を押して、ロードス
ター愛好家たちが集う現場を訪ねて回
ったのには、大きな理由があった。

若狹さんは、開発メンバーの中では厄
介な存在だった。たくさんの制約の中
で進められる開発の現場で、もっとこ
うするべきだと無理難題を上司部下係
わらず提言した。ここは会社だから…
と煙たがられることも多かった。それ
でも伝え続けた。全国の会場で交わし
たたくさんの表情や言葉は、若狹さん
の赤いロードスターに乗って広島へ持
ち帰られていたのである。


人と人をつなげることこそ技術の神髄
と達観したようなその発想のきっかけ
は何だったのかを訊ね忘れた。写真を
撮った後、すでに運転することができ
ないほど弱った若狹さんを病院で降ろ
し、カーオーディオを最初と同じ松山
千春のCDに戻してご自宅のガレージに
帰した。一週間後、訃報が届いた。


技術だけでは、永く愛される心打つク
ルマは創れない。“目的は人なんです、
笑顔なんです”と話す声がまだ耳に遺
っている。



2020年4月27日
Car Sensor EDGE「クルマの達人」

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撮影翌日、茅ヶ崎に向けて走り始める
前に、いつもの場所に立ち寄りました。
広島はちょうど桜の頃でした。






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