働くということ・18 松崎宜晃さん | くるまの達人

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とか、タイトルで謳いながら、実はただの日記だったりするけど、いいですか?

南禅寺 正的院
松崎宜晃さん


坊主の仕事というのは、何でしょうか
ね。

お寺に住んでるのが仕事かもしらんし、
話を聞きたいという人に仏法を説くの
が仕事かもしらんし、こうやって生き
てること自体、仕事かもしらんし。

仏の道に生きるということは、二元対
立の世界をどうやって生きるかという
話なんです。

丸いとか四角いとか、大きいとか小さ
いとかあるでしょ。どっちがどうや、
ということではなくて、大きいは大き
いでいいやないですか、小さいは小さ
いで。

大きいは大きいとなりきって生きるこ
とが、横も縦も丸いも四角いもない世
界なんです。

例えば敷居は敷居で横になってないと、
柱は柱で縦になってないと役に立たな
いわけです。柱が“私は横になりたい”
って言ったら、家つぶれますやん。
誰にも皆、それぞれの有り様があると
いうことです。私が坊主になったのは、
うちの家系がそうやったからで、それ
も自然の成り行きやと思うんです。


四苦八苦と言いますよね。凡夫(ぼん
ぷ)にとっては、この世に出てくるこ
とが苦しみの始まりなんです。生まれ
たら歳を取る、歳を取ると病気になる、
やがて死が訪れる。これが四苦。

加えて、生きていると嫌な人にも会わ
なきゃいけない、好きな人とも別れな
きゃならない、欲しいものが手に入ら
ない、五感に伝わる苦しみもある。

あわせて四苦八苦ですわ。でもそうな
るのが嫌やと思うから苦に感じるわけ
で、そういうもんやと達観できたら
苦でもなんでもない。それがお釈迦さ
んの教えです。

私にとって働くことの目的は、生きて
いくことそのものかも知れません。

昔は皆、そうやったんと違いますか。
生きるために畑を耕して作物を育てた
り、動物を殺したりして食べるという
ことだけやったんでしょう。

今でも動物は、きっとそうやと思いま
すよ。せやから人間みたいに悩んだり
苦しんだりはしてないでしょうな。少
なくとも明日の心配はしてないはずで
す。

ところが人間には知恵があるから、蓄
えをするようになってきて、自分の余
裕を持つようになってきて、いつしか
もっと大きな余裕を、という欲も出て
きたわけです。

物事が複雑になりすぎて、若い人の就
く仕事というのはそういう傾向が特に
強いように思います。

けれども目的は必要です。目的がない
と、仕事なんかやってられませんやん。

それは小さくても世の中の歯車の一つ
となり、必ず人の役に立つということ
やと思います。

仕事という言葉が相応しいかどうか
分かりませんけど、そこに坊主として
の私なりの目的があるとしたら、私の
日常茶飯事をいろんな人に話すことで
しょうか。

仏の世界というのは、手を合わせるこ
ともそうやけど、お腹がすいたらご飯
を食べるのも、ご飯を食べたらお茶碗
片づけるのも……。日常茶飯事そのも
のが仏の世界なんです。

話じゃなく、生きてる姿でもええんで
す。

この世を生きていくことを四苦八苦と
感じるのではなく、生を受けたことの
喜びをどう生きていくか。

それをいろんな人に説いていくことや
と思います。

私がいるだけで喜んでくれる人がいる、
話を聞きたいと訪ねてくれはる人もい
る。

それならば、どういう生き方が楽しい
のか、どうぞ私の生き方を見てくれっ
ていうふうに思うわけです。

Interview, Writing: 山口宗久


かもめ・2005年8月号掲載
※内容は、すべて取材時のものです

※記事掲載への思いについて。


山口宗久(YAMAGUCHI-MUNEHISA.COM)
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