進路へのプレッシャーによる事件とかつて日本が挙国一致でやった事
日本人の「過剰」の代償(2)他者を巻き込む破壊行為

 

 新型コロナについて書きました前回の記事に続き、『日本人の「過剰」の代償』シリーズとしての内容となります。

 

 1週間ほど前に、東大前で受験生らを高校生が斬りつけた事件がありました。勉強が思うように行かず思い詰めた末の事件だったようです。
 ローカル局の夕方のニュース番組で女性キャスターが「自分が受験生の頃の競争はもっと酷かったのに。今回の事件の動機は全く理解できない。」と言っていましたが(事件を起こした高校生と、自分や一般人は違うぞという、これも一種の同調圧力です)、これはこれで、酷い時代錯誤、想像力の欠如ですし、(同調圧力になっている点が)危うい感覚だと思いました。バブル崩壊後、就職難は度々起こり、「将来に希望を持てない社会」の深化は着実に進行してきました。終身雇用や社会保障の継続への期待が崩れ、社会の中間層が失われ、年齢を経て誰もが幸福を獲得していくモデル、努力すれば報われる期待、社会が成長するという期待は完全に失われて、成功者になれなければ一生貧困に苦しむという未来だけが固定され、幸福追求のモチベーションを下げる圧力ばかりが増えました。人と違う価値観によって、その人なりの幸福を追求するのが日本人は苦手だからと言うには、それをするためには経済的な基礎や人間関係など様々な幸運も必要で、そもそも誰もが求めることは叶わないという現状を考えると、本人の努力のみに責任を求められないと思います。しかし、それでも日本人の同調圧力社会は頑なに自己責任を押し付けがちです。バブル期までに就職し、転落した経験のない今の50代後半以降のサラリーマンには、体験がないため理解できず世代ギャップがあると思います。人は自分自身に経験のないことを理解するのは難しく、想像力によっていくらか寄り添うくらいしかありませんが、その想像力も同調圧力により働きにくいのが日本人の傾向です。そういう自分自身も例外ではなく、女性の置かれている状況は理解できていないだろうと思います。誰かと交際し、困難を共有できれば違ってくるかもしれませんが、私自身も日本人的な傾向として想像力が欠如しがちかもしれません。
 安定した正社員になることは昔と違い難しく、就職できてもブラック企業など、引き換えとしての安定雇用も無い酷使、酷い搾取による使い捨ても待っていたりします。職業などでの自己実現を期待し、「やりがい」「生きがい」を求めるのは、ますます困難になっていると思います(これは、もともとそうなのかもしれませんが)。おそらく10年前と今でも違うでしょう。就職など学歴の先にある将来の進路へのプレッシャーは昔よりずっと厳しいものだと想像します。そういう意味で最近は理学部、工学部より医学部に志望が集中しているということが書かれたブログもありました。しかも、おそらく事件を起こした高校生の親御さんは、就職氷河期を経験した世代に違いありません(進路に関してより厳しくプレッシャーをかけたかもしれません)。一方、例えば医者の子息がプレッシャーに晒されることは今も昔もあるのでしょう。親や祖父母への「敬愛」によって同じ道を志すのでなければ、プレッシャーにしかなりません。それはそれとしても...です。
 事件について「我を失った酷い行為」と指摘するのは簡単ですし、自己の身勝手により他者を傷つけるような人が医師になってもらっては困ると思うことも自然、被害に遭われた方への同情が集まるのも自然なことですが、個人、本人のみの問題として矮小化せず、社会として考えるべきことはないかという視点も必要ではないかと思います。NHK首都圏NEWS WEBには、「大きな事件起こし死にたい」 面識ない人巻き込む事件相次ぐ(2022年 01月15日 14時46分)という報道もありました。

 「この道しかない」と思い詰めることは、前回も書きましたように「決めつけ」という一つの同調圧力であり、他者からの圧力としても、また自己の内面にも存在します。「失敗を許さない」不寛容(=失敗する者を敵と決めつけて全面的な「悪」とし、一切の責任を押し付け徹底攻撃し排除するという同調圧力)を自分自身に向けてしまうことでもあります(戦時下の日本でも多かったことでしょう)。そして、同調圧力は生得的なモラルを消失させてしまいます。しかし、この同調圧力は日本人が強く持つ傾向でもあります(後述 前回からの再掲)。多くの日本人は、事件を起こした高校生と同じような状態になり得るということです。

 「(他国からの侵略を過度に怖れ、資源を確保し、増えた人口を養い、日本が生きるため、さらには日本が君臨するためには)対外拡張の道しかない」という決めつけ(プレッシャー)が、大陸への進出(北進)や南洋諸島への侵攻(南進)を国内的には正当化し、国民はそれを信じ、熱狂し、追い詰められ、突き進んだ結果が日中戦争や太平洋戦争でした。薩長が関ヶ原以来の徳川への恨みとして尊皇攘夷の同調圧力を利用して倒幕を決行し、明治の世を始めたものの、何の理念もなく、結局は水戸学や国学の「尊皇攘夷思想」(これも同調圧力の極み)を引き継いで、全体主義、軍国主義を生み、一方で幕藩体制からの急激な「規制緩和」という自由主義政策の結果、工業や経済などの急激な近代化とともに「人口の急増」を招いたこと(言わば「バブル」、つまり一時的膨張、過熱)が、このことにつながっていたと思います。

 徳川時代は、封建体制であり土地を基礎とする支配で(流動性、変化が少ない)、(実務上の)権力集中を防ぐため幕閣の月番制や幕藩体制による地方分権があり(権力闘争の抑制)、農民を「生かさず殺さず」という最低限の福祉政策(社会不安をある程度抑制)、新田開発など公共投資による経済政策、関ヶ原など初期の論功行賞に基づく秩序を固定し基礎としたこと(権力闘争の抑制)、犯罪に対する残忍な厳罰、新儒教という非武力による秩序の推進(ただし、水戸徳川家が新儒教から生じさせた尊皇攘夷が同調圧力を生み最終的に幕府の自滅を招いた)など、権力闘争の抑制や社会不安のある程度の抑制が同調圧力の暴走を抑制し、長期に渡り社会の安定が保たれました(人口は、前半で乱世後の秩序安定による経済成長のためかなり増加し、後半は一定に維持されました・・自由主義における規制緩和に起因する急激で一時的な成長と、社会の安定による成長とは本質的な違いがあります。自由主義の規制緩和では特定の支配層が利益を独占しようと動き、被支配層からの搾取は強まるために、格差拡大を伴って起こり、早く限界に至ります。安定した社会では利益は共有の方向にあると考えます。)。

 「自分の決めつけによるプレッシャーで追い詰められ、他者を傷つけても構わないという行動を起こした」という点に絞って注目すれば、先般の事件と、かつて日中戦争や太平洋戦争を起こした日本の行動は全く同じです。かつて先般の事件と同じことを挙国一致でやったということです。そう考えると(事件もかつての戦争も)他人事ではないと思えてきます。
 新自由主義と呼ばれる「資本主義支配で資本家本位の政策と、政治の独占化による全体主義志向」が長年(30年以上)続いた末に行き詰まっている現在の日本の状況も、戦争に邁進した当時と似たところがあるかもしれません(軍国主義という全体主義志向があり、昭和恐慌があり、自分の撒いた種で米英との関係を悪化させ物資が不足、石油が止められ、「追い詰められていた」点です)。自由主義による過剰な競争社会は強いプレッシャーを生み、かつ、社会を疲弊させて生きづらい社会をますます深化させ、社会不安、不満を蔓延させ、同調圧力を生み出しやすい環境を作ります。今回のような事件はその現れの一つという見方もできると思います。
 なお、かつて、アジアを欧米列強の支配から救うという大義名分は、非常に限られたごく一部の地域の現地の人々には実際そのように映ったかもしれませんが、大半の(現地の)見方は「侵略」だったとされていると思います(略奪や蛮行あり、同化政策ありでしたから当然です)。

 先般の事件を起こした高校生と同じことを、かつて日本は国を挙げてやっていたということ、他国も自国も破壊したということを忘れてはいないでしょうか。これは日本人が持っている性質であり、この行き詰まりを見せる社会の現状とつながっていること、社会が追い詰められているのではないかということを教えてくれる事件だと私は受け止めました。


同調圧力に関する前回の記事の記述を再掲します(当初掲載時からかなり追記して更新したものです。前回の記事もさらに改訂しました。2022/3/8版)。

 日本人(あるいはモンゴロイドやその影響を受けた人々と言うべきか)には「失敗を許さない」など不寛容という「極端」に傾きやすい同調圧力の強い国民性があります(セロトニントランスポーターの遺伝子型による「不安の感じやすさ」「キレやすさ」が原因と考えられます。遺伝的に日本人の大半は、短いタイプのセロトニントランスポーターになるらしいです。「不安」と「不満」は同類であり「強欲」にも通じ、「強欲が自らを滅ぼす」ことにも通じます。)。歴史的にも、この性質により内乱、戦争など悲惨な状況を繰り返してきました。他国の人が日本独特と感じる自主的な見かけの統制のような同調圧力があり、もしかすると自己肯定感の低さも自分への不満として関連しているかもしれません。もっと身近な例で言えば、例えばスーパーなどの店員の対応に些細なことで「過剰な」クレームをぶつける客が増えると真面目な店員は辞めていき、或いは「良かれ」が失敗だったとして改められ、サービスがますます劣化していくということが起こり得ます。劣化を引き起こすのは客が不満を増幅させて一方的に店員に全責任を転嫁し過剰な非難、攻撃をするからです。国家運営(選挙、国会、政権運営など)でも同じことが起こります。太平洋戦争の開戦もそのように決まった側面がありました(国民の過剰な不満や期待が、熱狂という同調圧力となり国の意思決定を左右した)。今も、ワイドショーなどが徒に政府批判をして国民を煽っています。「失敗を許さない」不寛容さは、失敗する者を敵として全面的に「悪」と決めつけ全責任を転嫁し徹底攻撃し排除するという同調圧力です。今の生活保護受給者への攻撃も同じです。日本の戦時下では、隣組という国民どうしの相互監視と相俟って同調圧力は自他に対して強烈に働きました。一度レールから外れた者(生活困窮者など)を自己責任として当人や家族に全責任を転嫁し助けず活かさない、皆が助けないから自分も「見て見ぬふり」をする人が大多数の社会は、成長の源泉の一つである「人」を大切にしない社会、課題と向き合わない社会であり、いずれ活力を失い衰退するでしょう。事故や事件の被害者に対して一部の人たちとは言え誹謗中傷するのも同調圧力。
 重要な点は同調圧力は、人間の生得的なモラル(憐れみなど)を消失させてしまうということです(自他の命を大切にしない状態。自己の利益のためには他者を傷つけて構わないという、後先を考えない状態。何らか、例えば脱「不安」への過度な集中で、脳のデフォルトモードネットワークの働きが弱まり、内側前頭前野の理性への接続が弱く、想像力が働かない状態となり、脱「理性」、脱「モラル」になるのかもしれません。あるいは「恐怖」などを源泉とするため脳の活動の萎縮か。そして、同調圧力による偏見が頑なで消えないのは、想像するに、デフォルトモードネットワーク枠外の領域で扁桃体の反応に連動して強化される神経ネットワーク上の記憶だからか。)。これは、約7万年前の火山噴火による気候変動で人類が激減し、社会的な協力で生き残って得た「性の中性化(特に男性の攻撃性の抑制)」を伴う諸刃の剣的な進化とは「攻撃性」で逆行し、さらに同時期に得て人類を躍進させた「虚構の共有(想像力)」という大規模な協力を可能にする力(YuvalNoahHarariの「認知革命」)とも一面では酷似するも「想像力の欠如」がある同調圧力は逆行します。かつて他国を蹂躙し戦勝を祝い熱狂した日本人。日本人が冷酷残忍で好戦的と言われるのは同調圧力のためです。社会不安が増すと同調圧力は起こりやすく、関連した事件も起こりやすくなるでしょう。
 日本の全体主義は、抽象的な実態のない権威への畏怖・忠誠(いわゆる「空気」)という同調圧力でも成立します。「お国のため」の「お国」は「皆の祖国」というより、権威の所有物であり、何か無責任の集合体のようなものだったのではないでしょうか(国民に真実を伝えず無謀な計画を進めた大本営、同調圧力によりそれを誘発させた国民)。権威のために「自己を放棄」し身を捧げるのは同調圧力の一つで、家族への憐憫の情は残ったとしても全体としてモラルは消失し命は大切にされなくなります。あるいは家族が同調圧力の攻撃に晒されることを恐れ、それが破滅の道だろうと他者を傷つける道だろうと身を捧げます。零戦は軽量化最優先で人命軽視、機体は脆く防弾装備一切なし、そして活躍は最初だけでした。今も保守系の全体主義志向の政治家がこれを「公益」と呼びそうですが、現行憲法の「公共の福祉」のように個人を尊重した上での(つまり生得的なモラルは消失しない)幸福の追求、皆で幸福を「共有」するという社会民主主義的なものが本来の「公益」で、不寛容な全体主義とは違うと私は思います。不寛容さは人を追い詰めモラルを消失させ、結局は社会を不幸に陥れます。
 そして、同調圧力は煽り煽られて感染、連鎖、拡大し暴走するため、このような性質を悪意をもって利用し、誰かを攻撃し貶めるために煽る人たちもいるわけで、今なお世にはそういう情報があふれています。「断言」「決めつけ(レッテル貼りなども含む)」のような「決め過ぎ」という過剰、つまり同調圧力は、「決められない」よりも悪質となり、扇動の手法にもなります。「過剰」(あるいは「強欲」)という点では、過剰な効率優先によりかえって不効率を生み出す資本主義の姿(例えば、分かりやすい例は環境破壊により土地の生産性が壊滅的に失われること、経費削減や目先の効率優先と労働安全の軽視により事故を多発しかえって生産性や信用・品質を落とすことなど。資本主義は「私的所有」つまり排除・独占という一種の極端を基礎としています。)、勝ち負けだけを過剰に(つまり排除と独占を)瞬時に決める小選挙区制(多数決)にもつながっています(民主主義は「共有」の文化であり、多数決では実現しない)。同調圧力の強い日本の社会では、新自由主義と呼ばれる資本主義が支配する資本家本位の政策と政治の独占も同時進行し全体主義志向となる(例えば憲法の緊急事態条項に熱心な)体制が続くのも当然で、その結果社会は劣化します(緊縮も規制緩和も資本家による利益独占のためであり、緊縮で財政は健全化せず、規制緩和は投機を誘発し、新たな独占、利権を生み、労働者からの搾取を苛烈にし、成長の源泉となる発明や人材は緊縮と規制緩和による目先優先の過剰な競争では芽が摘まれて育たず、その結果成長もできません。社会は豊かにならず、緊縮により社会保障にも消極的で、同時進行する政治の独占により事実上強権的に「兵站なしで戦え」という政策になり、強制は同調圧力をより強めモラルを消失させます。)。「中庸」とは、極端、過剰を回避し「ちょうどいい」を自己の判断で行うことであり、難しいですが、「過剰」の害たる同調圧力とは逆の世界です。
 同調圧力という遺伝的な国民性を多くの人が自覚する必要があります。今の日本では戦争に「巻き込まれる」視点ばかりで、かつて「起こした」こと(憲法による戦争放棄が日本人に必要な理由)が軽視されています。同調圧力とは、恐怖、不安、不満への過度な集中、心酔などと自己保身の心理から心理的視野を狭め自己の理性や生得的モラルを失い、無責任な「過剰」の害を招く作用だと考えます(真偽問わず安心を提供するという強者や多数派を妄信し、靡き、すがり、強者や多数派に従うことに安堵し自分自身のモラルや理性で判断することを放棄した「決めなさ過ぎ」、「過剰適応(例えば、忖度、いじめを見て見ぬふり、対米追従)」など強者への過剰な依存、また、「差別(ある他者を自分より下の存在、または少数派と決めつけて、そこに属さないことで得る安堵)」、「逆ギレ」、「いじめ」、「誹謗中傷」、政治家による「レッテル貼り」、「あおり運転」などのように他者を敵や下や少数派や失敗者と「決めつける」つまり「道理を超えた決め過ぎ(過剰)」により何らかの恐怖や不幸の原因を全面的つまり過剰に他者に責任転嫁して不寛容に激しく攻撃排除し、自己の優位を確認し安堵)。攻撃相手自身の不幸を「自己責任」と呼び「痛み」を拒絶します。「すがる」も「攻撃」も自己の存立を左右するほどに過剰な他者への依存で、依存しながら排除する矛盾もあり、自己のモラルや理性が働かず無責任です。なお、攻撃対象が自分という場合もありますが本質は同じです(自己の責任を追及しているようで他者への依存攻撃。「どうせ私が悪い」など。)。他者に過度に依存した安堵は、不安や不満を生み続け、際限のない「強欲さ」となり、同調圧力は必ずエスカレートします。そして、そこに存在する差別や偏見も扁桃体の反応と関わる記憶ゆえか是正が困難(一方で理性的な記憶は忘却)なため、社会を分断し不幸にし、人を不幸にするのだと思います。これは制御不能な癌細胞や免疫の暴走のように病的で、「向上心」を生む「欲」や、ライバルとの競争とは違いそうです。なお、同調圧力は表面的には「他者と違う状態が怖い」環境と性質です(例えば、目立った能力のある人が「恐い」からいじめの対象に)。「過剰な」同質化を志向する同調圧力とは反対の「人と違っていい」も「過剰」になれば、混沌、社会不安から結局同調圧力を生みます。同調圧力とは「過剰」の害です。
 すがる対象が「恐怖」「不安」「不満」を作り出している張本人の場合(例えば、恐怖政治、詐欺、やっていることと真逆を掲げる政治など)や、「決めつけ」が「思い詰める」となり他者を殺傷し巻き込む事件(希望を失い自暴自棄のため自己破壊となりますが、他者への攻撃の面が強い。かつて日本人は「拡大しかない」と決めつけ、追い詰められ日中戦争、太平洋戦争を起こし国を挙げてそれをしました。)を起こす場合もあります。また、幼少期に親に捨てられたなどの心的外傷により、見捨てられることへの恐怖から過剰適応をする場合もあります(同情の余地あり)。新型コロナ対応の最初の緊急事態宣言において、「自分だけ外出」が怖いと思った場合は同調圧力的であり、自粛警察は疑う余地がない同調圧力でした。根底はどちらも「無責任」であり(人に依存、人のせい)、とても褒められた話ではありません。欧州が契約社会という個人と個人の約束を重視する文化であるのに対して、日本人は責任を持つことが「怖い」、そして「保身を考えると怖くて」上には逆らえず「無責任」なため、個人が自分で責任を持って判断することを放棄しがちです。組織が責任を持った判断を下せる状況ならプラスに作用しますが、どこまで行ってもこの「無責任」の積み重ねになる組織なら最悪です(例えば全体主義)。
 一方的に誰か何かが悪いという「極端」な思考をするために同調圧力の攻撃が起こるので(例えば、自粛要請に従わないのは一方的、全面的に「悪」という決めつけ、反対に自粛要請は「悪」という決めつけ)、本来は痛みを「共有」する必要があるのだろうと思います。誰かのせいと言うよりも、つまり、特定の者への攻撃はやめて、皆に責任があるという考え方です。ただし「誰のせいでもない」という無責任ではなく、皆に少しずつ「責任がある」というのが「共有」であり非常に重要な点です。さらに紛らわしいのは、極端で過剰な平等を主張する「極端な」社会主義(支配層への「攻撃」があり、極論が不寛容に「独占」し、本来の社会主義の「共有」は失われている。共有者の自由意志をいくらかでも反映し得るのが「共有」。)で、同調圧力、全体主義となり注意が必要です。ところが、さらにこの一面をもって「平等を主張するような社会主義」さらに「平等や社会主義と名のつくもの」は「全て悪」という極めて不寛容な「決めつけ」と過剰な攻撃もまた同調圧力となり根強いです。右翼(自由競争派)も左翼(平等派)も攻撃的、不寛容になれば同調圧力となり(全体主義に)、過剰の害、対立、戦争をも生みます。自由競争なのにそれは過剰な独占を招き同調圧力を生み、平等もその権利意識が過剰になれば我が儘、混沌となり自由競争のようになるという矛盾も。同調圧力という「過剰」の害を回避するのは社会民主主義(「中庸」)だと考えます。
 同調圧力の害がセロトニン不足による害とするなら、米食文化であった日本において、赤味噌(豆味噌)文化は、これをいくらかは緩和する合理的なものだったかもしれません。今でも比較的安価に摂取できるトリプトファン源の一つではないでしょうか。 

 

(関連)

日本人の過剰の代償(1)

 

日本人の過剰の代償(3)

 

日本人の過剰の代償(4)

 

同調圧力は癌細胞や免疫の暴走の如く

 

 読みにくい文章をお読みくださりありがとうございました。私のブログを読んでくださる方はほとんどいらっしらないので、今後は自分自身の文章の練習、下手くそな文章がこれ以上下手くそにならないためのトレーニングと思って記事を書くことにします。一応、公開するということが、「きちんとした文を書こう」という動機づけにはなります。