聴く人に届いてこそ完成する音楽 N響第9、Nコンの感想ほか

 今回は全く肩の凝らない短い記事にしようと思って書き始めたのですが、結局長く細かくなりました。演奏会などの感想です。というのも、NHKの見逃し配信サービスを見ることができたため、いろいろと確認できたことがあったからです。(現在は、以下のどれも配信期限は終了しています)


[印象に残ったNコンでの講評]

 昨年2021年のNコン(第88回NHK全国合唱音楽コンクール)の放送を視聴して印象的な講評だったのが、中学校の部での作曲家上田真樹さんの講評で、自らの作曲である中学校の部の課題曲「足跡(あしあと)作詞:Little Glee Monster」について、歌詞が詰まっていて表現が難しいことを認めた上で(私も聴いてすぐ「中学校の課題曲は難しく可哀想」と思ったくらいです。思い切り表現できる小学校の部の課題曲「好奇心のとびら 作詞:原 ゆたか、作曲:田中公平、編曲:横山 裕美子」とは対照的。)、演奏者ごとに別の曲かと思うくらい違いがあったこと(全国大会にもかかわらずです!確かに私もそう感じました)、その中には表現できていて伝わる演奏があったことを踏まえ、「音楽は聴く人に伝わった瞬間に完成する」ということを語っておられました。

 聴く人に届いて音楽が完成するということについては、今回(2021年)12/26に演奏会が行われたN響第9についても書きたいと思います。12/27の朝のNHKニュースでも、このN響第9が取り上げられましたが、今年オーディションに合格し、契約団員としてN響第9に初参加する若いビオラ奏者(三国レイチェル由依さん)に取材し、コロナでオーディションがどんどん延期され、人に演奏を聴いてもらえないことの苦しさを語っておられました。また、12/31の演奏会のテレビ放送では、ステージ直前の指揮の尾高忠明さんへのインタビューでも、コロナで演奏も練習も会うこともできなくなった時期があったことを踏まえ、演奏会が開催され満席のお客様に聴いてもらえることの喜びを語っておられました。


[指揮 アウフタクトの入りの示し方の違い]

 尾高忠明さんの指揮は、指揮の振りを書に喩えるなら「止め、跳ね、はらい」がきっちり明瞭に示され、そして「イチとー、ニイとー」というリズムが小気味よく示され、まさに楷書体のような 緩徐楽章でも停滞することがなく滲みや曇りが少しもない、しかしクリアで透明というのとは少し違う、引き締まっていて、かと言って硬くはない、かつて「論語」を愛したという渋沢栄一の曾孫である尾高さんらしい「中庸(ちょうどいい)」が効いた演奏だと感じます。これは、後述するように斎藤秀雄門下ということで、もしかすると「斎藤メソッド」の形なのかもしれません。
 外山雄三さんの指揮に雰囲気は似ていますが、外山さんの場合は音への集中が喚起される研ぎ澄まされたような空気を作る指揮なので少し違います。また、第9の第1楽章にありましたが、大きく振りかぶってためるところや胸より下の位置に腕をいっぱいに伸ばして止めたり突いたり、真一文字に横に流すような動きは小澤征爾を思い出します(NHKプラスで再度見ていたら演奏前の林田理沙さんによる尾高忠明さんの紹介で、尾高さんは桐朋学園で斎藤秀雄門下だと言われたのでなるほどと思いました。Wikipedia「斎藤秀雄」2021年12月31日11:19版によると、斎藤秀雄の妹が渋沢栄一の孫と結婚していて、尾高忠明とは遠い親戚のようですし、これは有名ですが斎藤秀雄の母方の祖母が小澤征爾の母方の曾祖父の妹で、こちらもつながりがあって、縁故による入門が結構あって、そういう人達がやはり活躍しているのでしょうか。しかし、尾高さんの父はそもそも、作曲家・指揮者である尾高尚忠です。そのあたりは外山雄三さんと似ています。外山さんも父は、作曲家の外山國彦です。)。斎藤メソッドの「叩き」や「叩き止め」や「先入」から似たものを感じるのかもしれません。振りかぶってためるのはおそらく「先入」なのでしょう。

 音楽表現に「中庸」とはなんだろうとなってしまいそうですが、やり過ぎによる気持ち悪さのない「ちょうどいい」具合ということです。そんなの「面白味がない」という場合もあろうかと思いますが、ちょうどいいにも幅があるでしょうから、その中にも個性が出ると思います。

 今どきは、巨匠、大御所の指揮者は、ご高齢になるとそうなるのか、指揮棒は持たないスタイルでした。ブロムシュテットさんも、10年くらい前には指揮棒を持っていましたが2021年秋のN響定期では無しでした。でも冴え渡る演奏でした。
 あとは、ブロムシュテットさんや尾高忠明さんが、入りを示す時に予備拍をしっかり必要なだけ(過不足なく)振っていることに、今さらですが気付きました。予備拍一振りでテンポも何もかも示すのが良いみたいな考えもあるのかもしれませんが、それは指揮者とオーケストラが何回も練習で合わせる必要があるのかもしれません。

 例えば、ドヴォルザークの交響曲第8番第3楽章は8分の3拍子で、1小節(つまり8分音符分3つ)を1振りに感じて流れるような音楽ですが、入りは1小節中の3拍目で、3拍目の中でもさらに16分休符に16分音符3つが続くアウフタクトの入りで、昨秋のN響定期でのブロムシュテットさんの予備拍は、8分音符分の長さを一つずつ振り「イチ、ニイ、サン」になっていました。「サン」の途中で音楽が始まります。つまり、1小節弱、予備拍3つで、3拍目の途中で音楽が始まり、そのあと指揮は1小節一振りになり、予備拍の「イチ、ニイ」で感じた同じテンポで音楽が流れます。予備拍の振り方は、小さくても下向きの放物線で一つずつ打点を示し、アウフタクトの入りの部分ではほんのわずかに待って次の小節の頭に向かう感じです。もしも、最初から1小節を一振りにして予備拍が1回きりの振りだと非常にテンポは掴みにくいです(2打点目が来ないとテンポは確定しないことと、流れのある3拍子系で未完の2打点目を動きにより予想させながら音楽を始めさせるのはかなり不確実性が伴い、なおかつ入りのアウフタクトはテヌート気味に少しためて演奏されることも多く、そうなると次の小節からの本来のテンポは示されず不明のままです。あえて不揃いにして柔らかくぼかすような表現にはいいかもしれませんが。)。YouTubeで探してカラヤンの指揮の同じ部分を見たら、やはりと言うか、見た目は1小節一振りで予備拍1回きりの振りでした。カメラアングルで下のほうが映ってなく、その前の予備動作があるような、よく見えず、口の小さな動きがあったので、実際には1小節分予備的に、しかも暗示的に示されていたかもしれません。プロですから、そうでなくては。もしも1回きりなら、テンポが示されない振り方になるので、見せる演奏の裏にはおそらく練習での合わせがあるということになります。
 3拍子系、アウフタクトの入りは、学生時代の経験で難しいと思っています。

 同じくドヴォルザーク交響曲第8番第2楽章は、ゆっくりのテンポ、4分の2拍子で、2拍目の8分休符のあと8分音符を3分割する3連符のアウフタクトの入りです。ブロムシュテットさんは、非常に小さく「イーチ、ニーイ」と振って、次に、かなり大きく「イーチ」、さらに非常に大きく「ニーイ」と振り、「ニーイ」の途中から入る形です。予備小節丸々一つ、予備拍は4つです。カラヤンの場合、非常に小さく振る「イチ、ニイ」、非常に大きく振る「サーン」の「サーン」の途中で入る形で、予備小節の頭からは示していない格好です。この音楽は、ゆっくりな分、膨らみも大きく、アウフタクトから次の小節の1拍目に向けクレッシェンドして1拍目に重みと大きな膨らみをもって演奏されますが(検索して冒頭のスコアの部分だけを見ると楽譜もそのとおり表記されているようです)、違いは、カラヤンの場合、演奏のクレッシェンドと一緒に振りが大きくなりますが、ブロムシュテットさんの場合は、予備拍に(つまり演奏より先に)クレッシェンドが示されているように見えることです。ここでもやはり、カラヤンは事前のオーケストラとの練習で作っている感じがします。

 もう一つの例です。ベートーベンの第9の第4楽章Presto、速いです。4分の3拍子で3拍目の4分音符から始まります。YouTubeでこの入りの振り方をいくつか見ると、バースタインの場合「イチ、ニ、サン」(サンで始まる)、ここからは擬態語的に、クリストフ・エッシェンバッハの場合「ンーワーン」(「お任せ」みたいな)、カラヤンの場合「イチーー」。ここも、忙しくイチ、ニイ、サンと振ってきっちり示すか、ブワーンと大きく振って「お任せ」みたいに見える形か(お任せだと次からのテンポはわかりません)、2パターンあるようです。バースタインは拍を細分化しても指揮棒でリズミカルに示せる器用な人(だと私は勝手に思っています。普通は示せないような「ティロリロ、ティロリロ」とかトレモロのような細かな動きを指揮棒を上下に振って一つずつ拍を、リズミカルに「打って」示せる人です。)なので「やはり」という感じです。
 さて、尾高忠明さんはどうだったかと言うと「イチ、ニイ、サン」でした。やはり、きっちりしています。忙しいテンポで大きな音の入りですから、下向き放物線の「打点」ではなく、直線で「キュッ、キュッ、キュッ」と角で止めながら三角形(上向きの)を描き、角で「止まる瞬間」が拍の点になります(力が籠もる感じ)。1拍目の拍の点は最初に斜めに振り下ろした三角形の底辺の片側の角です。すると上の頂点に戻った瞬間が3拍目となり、実際に演奏は非常に正確にそこで始まりました。つまり、テンポは非常に明確に示されます。練習、リハーサルが十分にできず、自分の思うテンポに揃えたければ、本来こうやるしかないと思います。バースタインの場合は、「止め」ではなく「打点」でした。

 欧米の指揮者は「止め」はやらないのかもしれません。つまり斎藤メソッド固有のものではないかと。最初に喩えた書道の「止め、跳ね、払い」は、まさに斎藤メソッドのことということになり、小澤征爾にもそれがあって、小澤征爾の演奏の音源を聴くと、なぜかいつも「若々しい青年」を感じるのは、この明解な指揮法によっていたのかもしれないと、ふと感じました。

 昔合唱指揮の経験があったため、つい細かな話になり、本来の今回のN響第9の感想の部分はこの指揮法に関しては少しになりました。プロだからこそ、よりよい演奏を導くため、そこは過不足なく明瞭にやるのではないだろうかと素人の私はふと感じたのでした。
 入りやテンポが明瞭に示されると、アンサンブルの縦の線が揃い、リズムが揃うと聴き合い、集中力も高まり、音程も揃うようになるため濁りの少ない澄んだ音の音楽になる傾向があると思います。ブロムシュテットさんの音楽はまさにそんな感じです。
 あとは、練習で作るのか、少ないリハーサルでもタクトにより高いパフォーマンスを引き出すのかの違いではないかと思います。

 もちろん、指揮者の人間性や存在感やオーラで楽団員を引きつけ、大きな力を発揮させる要素はありますが、その部分は別としてということです。

 

 

[N響第9 2021]


 今回のN響第9は、新型コロナの新変異株の再拡大のため日本政府の入国制限で来日できなくなった指揮者のファビオ・ルイージさん始めソリストの代わりに指揮者は急遽尾高忠明さんになったということでした(渋沢栄一の曾孫として2021年の大河ドラマ「青天を衝け」のオープニング曲の指揮をされたこともあってでしょうか)。また、ソリストも同様で今回は全員日本人、日本人だけによる第9演奏でした。森麻季さんは豪華な感じがしました。
 ファビオ・ルイージさんは、私が特に印象に残るのは、2014年1月、N響定期での「カルミナ・ブラーナ」、同じオルフの作品「カトゥリ・カルミナ」の演奏です。香水ブランドを持つほど香水作りにも情熱があるというイタリア人のファビオ・ルイージさんの音楽は、華やか、軽やかというのが私の個人的な印象です。
 尾高忠明さんの第9は、前述のとおり、過不足なしで「中庸」の効いた「ちょうどいい」と感じる素晴らしい演奏でした。おそらく飽きが来ない演奏です。
 昨秋のブロムシュテットさんのN響定期の映像では、オーボエの吉村さん、ファゴットの佐藤さん、この木管の美人のお二人が度々映し出されていました(佐藤さんの身を乗り出すような演奏スタイルが印象的)が、今回の第9はオーボエの吉村さんが(テレビの映像の編集上)圧倒的に目立っていました。そして、ティンパニーの植松さんも今回の第9ではオーケストラの最後部のど真ん中、指揮者の真正面で一人すごく目立っていました。実際、ティンパニーが大活躍する曲です。テレビで映像を見るとどうしてもこういう見た目の感想が出てしまいます。でも、オーボエのソロはラジオの聞き逃しで聴いてもとても良かったです。
 第1楽章は、尾高忠明さんのきびきびした動きにとてもマッチし、過不足なしでとても生き生きしたいい演奏でした。楽章の最後はやはり尾高さんらしい「ため」のある終わり方でした。
 第2楽章は、吉村さんの映像に注目してしまったこともあり、第2楽章にオーボエのソロありというのが強く印象に残りました。もちろん演奏も格好よかったです。第2楽章は演奏自体が全体としてとても楽しそうでした。
 第3楽章は、先ほどの指揮の入りで言うと、4分の4拍子で小節頭から8分休符に続き8分音符から始まり、8分音符と次の音のセットが、他パートにより音程を変えエコーのように3回次々と繰り返されて次の小節に移りますが、予備拍は4分音符2つ分が、まず静止からふわっと上行運動だけで「イチとー」、ふわっと下行上行で「ニイとー」で示され、次に軽く「引っかけて止める」ように8分休符を示され、音が始まります。指揮棒を持たず、手だけによる非常に柔らかで美しい動きにより、2拍分の正確なテンポが示されました(ほんとに美しい動きだと思いました)。ゆっくりなテンポなので2拍分くらいは示さないと伝わりにくいかもしれません。テンポは弛緩し過ぎることなく、まさに「ちょうどいい」テンポでした。そして、明るい健康美を感じたのですが、それはなぜだろうかと聴いていると、テンポ以外には、ラジオ版(聞き逃しサービス)の音を聴いていると、弦が抑制され管楽器が主役になり、弦が控え目に優しく添えているような演奏で、かと言って管楽器が騒ぎ過ぎることもなく、そのため心地の良い風のような、平和で牧歌的な印象で、だから明るい健康美を感じたのだと思いました。ラジオ版とテレビ版では音を拾っている場所が違うように思います。この第3楽章は良い意味でおそらく普通の演奏とは少し違う個性的なものだと思います。これは良い演奏でした。よくある演奏は表現過多で、ともすれば(表現過多を)うるさく濁って感じる場合もあるのだと思います。
 第4楽章、オーケストラの後ろにアクリル板の仕切りがあって、その後ろにソリストと合唱が控える配置になっていて、バリトンソロが始まると、最初少しだけ「遠い」感じもしましたが進むにつれさほど気にならなくなりました(放送用の音をどこで拾っているかにもよりますが)。(12/27の朝のニュース映像の中のリハーサルの場面でちょうどそのことをやっていました。尾高さんがソリストの演奏を止めて、客席を向いてソロの聞こえ方をどなたかに聞いていました。)。ソリストのすぐ前にはアクリル板があり、低声にはアクリル板の影響は大きいのか、当人の声量なのか。ソリストの中ではやはりテレビでよく拝見するソプラノの森麻季さんの声がひときわよく聞こえ、とても美しく、4重唱の中のソプラノのソロの旋律はこうだったのねという発見があるくらいでした。森麻季さんの声は近くで聴いたら、おそらくとても凄い声量なのでしょう(声量と言うと語弊があるかもしれませんが、よく響き、よく通る声)。終盤の4重唱は何回でも聴きたくなります。合唱は東京オペラシンガーズで、もう完全にN響第9の定位置を占めるに至りました。もう昔のように国立音楽大学の何百人もの学生が歌うことはないのでしょう。プロでも生きていくのが大変な世界ですし、今回のようにアクリル板をものともしない圧倒的声量と力強い歌声(しかも人数を絞って52人と言うことでした)は学生が何百人が束になっても適わないでしょう(人数が増えればぼやけますし)。「Seid umschlungen~(抱擁を受けよ)」のSeidのところの男声パートの力強さは凄かったです。昔はプロの合唱団と言えば東京混声合唱団で、合唱作品の委嘱や演奏を本領とし日本の合唱音楽を牽引してきましたが、第9のようにオーケストラと共演する演奏でのプロの合唱団としては、東京オペラシンガーズは今や確固たる位置にあります。私が初めて知ったのは恥ずかしながら東日本震災のすぐあと、ズービンメータ指揮による日本での第9演奏をテレビで視聴した時でした。小澤征爾さんが呼びかけて1992年に結成されたそうです(随分前でした)。アマチュア合唱団員として東京オペラシンガーズと共演したことがあるという、私の学生合唱団時代の先輩の話では、やはり一人一人が圧倒的な声量で「お見事!」と言うしかなかったと言っていました。

 ところで、テレビの映像(指揮者が正面から映った場面)で、尾高さんがはっきりと歌詞を歌う口をして指揮をしていた部分は(見逃し配信サービスで何回か視聴できたため確認したところ)、参考までに
「vor Gott(神の前に)」
「Über Sternen muß er wohnen.(星々の上に、神は住んでいるにちがいない)」
「Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen.(兄弟よ、星空の上には愛する父(神)が住んでいるにちがいない)」
「Wo dein sanfter Flügel weilt.(汝の柔らかな翼が留まるところ)」(終盤のほうです)
「Tochter aus Elysium(天上の楽園の乙女よ)」(終盤のMaestoso)
 でした。これは偶然でしょうか、神や天上の人々を歌う部分が並びました。ベートーベンがこうした部分に思わず口ずさみたくなる麗しいメロディーを当てているのかもしれませんが。いずれにせよ指揮者も(声は出さないにしても)一緒に歌うのはよいことだと感じます。

 第4楽章の合唱の最後は、Maestoso(荘厳に)、4分の3拍子になり、譜面上は4分音符=60、、一番最後の歌詞の部分「funken」がPrestissimo、4分の4拍子に掛かっていてフィナーレの高速テンポになだれ込みます。
 Maestosoの部分は「8分音符=60」のような解釈が長らく定着していて(フェリックス・ガルトナーがそのように提唱したと書かれた記事がありました)、しかし、書かれているとおりの「4分音符=60」(速い演奏)のほうの解釈で演奏する場合も増えており、どちらが正しいか決着がついていないようです。
 尾高さんは「8分音符=60」よりもさらに遅い解釈で演奏されたように思います。尾高さんらしい「ため」というか、中庸の効いた演奏の中にあって、唯一突出して特徴的な部分でした。思い切った遅いテンポにしているのは、私の感想としては良かったと思いました。よりMaestosoな感じにしているということだと思います。全体に中庸が効いているからこそ、この部分を思い切って遅くしてもそれほど嫌味にならないのかもしれません。私は、このメリハリは好きです(というか、聴き馴染みのある解釈がより強調されている)。
 楽譜の「版」については、ブライトコプフ版も21世紀に入り改訂されていると言うし、私はパッと聴いただけでは、べーレンライター版なのかブライトコプフ版なのか、どれという判断ができる知識がないためコメントできません。昔聴いたブライトコプフ版でないことだけは確かです。
 12/26放送されたラジオ版では余った3分ほどで、CDによる音源で放送されたのが、ベートーベン作曲「(ピアノのための)6つのバカテル」作品126第3曲で、ピアノフォルテによるアンドラーフ・シフの演奏でしたが、作品126ということは、第9の次に完成した曲で、とても平和で穏やかで、第9の次に聴いて、とてもしっくりくる極上の音楽でした。ピアノフォルテによる素朴な感じの音色も良かったです。


ベートーヴェン「第9」演奏会
2021年12月22日(水)7:00pm
Bunkamuraオーチャードホール
2021年12月25日(土)4:00pm、
2021年12月26日(日)2:00pm
東京芸術劇場
指揮:尾高忠明
ソプラノ:森 麻季
メゾ・ソプラノ:加納悦子
テノール:櫻田 亮
バリトン:大西宇宙(22日)、三原 剛(25日、26日)
合唱:東京オペラシンガーズ
主催:NHK/NHK交響楽団
協賛:みずほ証券株式会社/はごろもフーズ株式会社/花王株式会社/ 株式会社明電舎/JPモルガン・アセット・マネジメント株式会社