







画像1 極楽寺下からの眺望。
画像2 朱智神社を左に見て。
画像3 畑の左上方に城跡。
画像4 東端の曲輪土塁
画像5 主曲輪一段東下曲輪から竪堀が落ちる。
画像6 北尾根筋の堀切。
画像7 主曲輪南西の堀(曲輪?)から。個人的には、この場所が一番城跡を感じさせられた。
天王畑城(晋賢寺城) 京田辺市晋賢寺天王 高ヶ峰 標高305.5m
式内社・朱智神社の北にあり、河内国と山城国の境にある要衝の地。在地土豪・晋賢寺氏の城として、南北朝期には存在したとも伝わる。
応仁文明の乱で、文明十五年(1483)、西軍・畠山義就の大将・斉藤彦次郎が、大和国・古市衆と共に陣を置く。文明十七年(1485)にも義就方として、河内国人衆が入る。その後も、その立地から、三好三人衆と松永久秀との戦いにも使用されたとされる。
2007/6/19
枚方市の津田城(国見山城)を後に、R307から枚方山城線に入り、京田辺市の天王地区を目指す。ここ天王には延喜式内「朱智神社」がある。天王の地名は、大宝天王、朱智天王を祀ったことからとされる。後に、弘法大師が、大宝天王・朱智天王を改めて牛頭天王(ごずてんのう)とし、牛頭天王社と称した。牛頭天王は疱瘡などの疫病に霊力のある神様だ。
明治に入り、牛頭天王社から古名の朱智神社と呼称を替えて現在に至る。
天王バス停から、車一台がやっとの舗装道を登り、極楽寺の駐車場に停めさせてもらい、道標に従い朱智神社に向う。神社石段を左手に見て切り通し状の山道を越えると右手に見える山に城跡があるはずだ。
畑の横の道を進むが行く手を下草が覆っている。暑いし、どうも気乗りがしない。山ダニも嫌だ。所在地を確認しただけでも良しとしょう、冬場にまた来ようと引き返す。
途中、何人かの方に城山への道はありますかと聞くが、皆さん、首を横に振られる。最後に尋ねた方が、そんなに高い山では無いし、藪漕ぎといっても知れているから、畑の所から登って見ればどうですかと言われる。
朱智神社への道標がある、極楽寺下からの眺望は良く、北流する木津川や遠く大和国も一望できる。「若草山の山焼きも良く見えますよ」と聞く。
なるほど、河内国から南山城国や大和国に進出するのにふさわしい地だと実感する。幾多の武者達がこの景色を臨んだことだろう。
お話を聞くと、極楽寺の檀家とのことで、朱智神社は京都の八坂神社と古縁がある」とも聞く。そうか、それで朱智神社碑に八坂神社の宮司さんの名が刻んであったのだ。
山ダニにも会ったことが無いとのことなので、気をとりなおして再度山に向う。
作業小屋の横を通って傾斜面を登ると、すぐに堀状の平坦地に着いた。
やはり、来て良かったなと思う。三角点のある主曲輪から、東方下の段に降りた頃、激しい雨が降ってきた。ずぶ濡れになって車に戻る。
帰宅して、デジカメ画像を見ると、殆んどがピンボケ。曇天で暗かったのだが、フラッシュを焚かずに撮影したので、手ぶれしたのだろう。
2007/6/26
前週に続き天王畑城(晋賢寺城)を訪れる。朱智神社を過ぎた所で、笹竹を刈っている方がおられたので、「こんにちは」と声を掛ける。さあ、行こうかと思っていると、先の方が降りて来られたので、「今から城山に登ろうと思います」と言うと、
「道も無いのに登ったらいかん」
「先週も登りましたから大丈夫です」
「そうじゃない、人の土地に勝手に入ったらいかんと言うこと」
どうも、山主さんらしい。しばらく雑談して、「悪さはしませんから、登って良いでしょうか?」。
機嫌を直された山主さんが、「ここから登ったらエエ」と、作業小屋まで案内して下さる。別れ際、「ハミ(蝮)に気いつけなや」、「さっきもおったで」
う、嬉しくないのです。
先週登った、小屋裏手の傾斜面を登るのも芸が無いなぁと思い、良く見ると谷側斜面に踏み分け道が付いている。これこれと先に進む。
左手に竪堀状の窪みを見て、見覚えのある主曲輪東の曲輪段に着いた。土塁らしい高まりも残っているのだが、あまり明瞭ではない。今日は北の尾根筋にある堀切を見てみよう。下草と木々に覆われていて、さほど大きくも無い。
堀切部から尾根筋を登り、主曲輪下の腰曲輪に着く。そのまま主曲輪段に登って西方に進み、思い出して三角点を探してみる。西方にある空堀状の曲輪に降りる。
先週は、小屋裏手の傾斜面を登って、眼下に、この曲輪を見て大きな堀切だなぁと思ったのだが、綺麗な平坦面を持ち、広さもあるのでここは堀切では無くて曲輪だろうと思う。
意外と小さな山城で、こんなものかなと思う。もちろん、朱智神社や極楽寺辺りにも布陣したのだろう。極楽寺と朱智神社への分岐の谷間に井戸があり、今も、近所の方々が利用されているとのことだった。この井戸が城の水の手かも知れないなと思いながら帰途に着く。