旧岩崎邸庭園とジョサイア・コンドルと河鍋暁斎 | やまちゃん1のブログ

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湯島から正門入口を入り、

往時の馬車道を上がっていくと、

木の間隠れに山小屋風撞球室と

洋館のドームが見える




旧岩崎邸庭園を訪ねた





イギリスルネサンス様式の正面


裏は1・2階に列柱が特徴的なベランダが芝庭に解放される




撞球室は、スイス山小屋風
洋館から地下通路でつながっている




明治29年(1896)ジョサイア・コンドルの設計で竣工



洋館内部へ







重厚な英ジャコビアン様式の意匠 
ジャコビアン様式は17世紀初頭、イングランド王ジェームス1世に由来する



(ネット画像借用)

1階婦人客室天井はシルクの日本刺繍の布張り





一階のベランダから芝庭が広がる
トスカナ式列柱


和館へ



洋館に繋がった和館は、洋館の重厚さに負けじと、剛直な書院造り

洋館のジャコビアン様式にまけじと堅牢な木材が使用されている








床の間には橋本雅邦下絵の障壁画が見られる



飛び石、沓脱ぎ石も不必要に巨大で洋館を意識しているのだろう




旧岩崎邸庭園を造ったのは、三菱3代目社長 岩崎久彌、初代岩崎彌太郎の長男である



岩崎久彌(1865〜1955)

久しぶりに訪ねた旧岩崎邸庭園は、列強と伍さんとする明治日本の気概と、成り上がった三菱岩崎家のハッタリを感じる豪快な建物と庭園だ(今や面影はないが…2倍以上の敷地と20棟もの和館があった)。

その後に向かった旧朝香宮邸の優美な建物と庭園との比較は面白いと思う。




洋館を設計した、英国人ジョサイア・コンドル(1852〜1920)は、25歳の明治10年(1877)にお抱え外国人として来日。工部大学校造家学科(現東京大工学部建築学科)の初代教師に就任。門下に東京駅の辰野金吾、赤坂離宮の片山東熊など近代日本を代表する建築家がいる。


コンドルは、河鍋暁斎に師事し日本画を学び、日本人を妻とした。




河鍋暁斎(1831〜1889)


現在の茨城県生まれですが、翌年には一家で江戸に移る。6歳(1837年)から歌川国芳に入門。


天保11年(1840)9歳で狩野派に入門し、表絵師のもとで修行、19歳で独立を許される。

安政4年(1857)26歳の時、江戸琳派の鈴木其一の次女お清と結婚。




河鍋暁斎 花鳥図 1881年



河鍋暁斎 大和美人図 1884―85



河鍋暁斎 龍頭観音図 1888

死の一年前に製作、縦が3.5メートルの大作



ジョサイア・コンドルは明治14年(1881)河鍋暁斎に師事し日本画を学ぶ



河鍋暁斎 暁斎絵日記に描かれた

コンドル




コンドルも暁斎を写生している


暁斎とコンドルは、深い師弟愛で結ばれていたようで、胃癌で病に伏した暁斎はコンドルの手を握って、明治22年(1889)57歳で逝去した。

暁斎は、岡倉天心、フェノロサから東京美術学校の教授職を依頼されていたが果たせなかった。



『西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに 満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。』岡倉天心 茶の本



河鍋暁斎が亡くなってから5年後、「満州の戦場」、日清戦争(1894)

が勃発する。

河鍋暁斎までが平和な文芸の時代

だったようだ。




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