『エロティシズム』という題名で、表紙は恍惚とする女性の彫刻、
どんな本だ!?

「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのために作られた」と讃美されるイタリアバロックの巨匠ベルニーニ(1598〜1680)
彼の作品「聖テレジアの法悦」の部分です
天使が彼女の心臓を金の槍で突き刺し、引き抜いた、『苦痛は耐えがたかったが、それ以上に甘美感のほうが勝っており、止めて欲しいとは思わなかった。』というテレジアの恍惚=法悦を表現している
『エロティシズム』の著者は、
ジョルジュ・バタイユ(仏1897〜1962)
『フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。』引用元ウェキペディア
三島由紀夫はバタイユを「エロティシズムのニーチェ」と呼び、彼の思想に共感していた
バタイユは、『エロティシズム』のサド論の中で、モーリス・ブランショのサド評を引用している、『・・死ぬときにも、 この人間(サド)は自分の死からよりいっそう大きな幸福を引き出す。そして自分が滅んでゆくという意識のなかで、何かを滅ぼすという欲求によってのみ正当化される生が今まさに成就されると感じるのである。・・・』三島の最後を彷彿とさせる
バタイユは本書『エロティシズム』で、人間を人間たらしめる要素として「労働」「死」「性」の三つの問題に対する「禁止」を媒介にした違反・侵犯する行為が最重要であるとした、それは、
『人間は労働することによって、そして自分が死に向かっていることを理解することによって、さらに恥じらいの無い性活動から羞恥心のともなった性活動―エロティシズムはここから生まれた―へ移ってゆくことによって、根本的な動物性から抜け出たのであった。』であり、『エロティシズムの本質は、性の快楽と禁止との錯綜した結合(禁止と侵犯)のなかに与えられている。』
難解なバタイユの思想の副読本にと買い求めた、鹿島茂の『SとM 』
鹿島茂の思考は、バタイユ、構造主義、ポスト構造主義を土台にしており、『SとM』はヨーロッパの歴史・思想をキリスト教の本質と変遷、「自我」のPortion(割り当て)の遷移と捉える考え方を分かりやすく解説し、バタイユ思想の理解に多いに役立った

『娼婦に肛門性交を強いて国を追い出された作家マルキ・ド・ サド、被虐趣味に溢れた小説を書き一躍有名になったザッヘル・マゾッホ。彼らの嗜好を基に命名された 「サディスム」「マゾヒスム」が浸透したのは十九世紀だが、そもそも精神的・肉体的な苦痛を介して人が神に近づくキリスト教に、SM文化の源流はあったのだ。鞭とイエスはどんな関係があるのか?そして、SM が輸入されることもなく日本で独自の発展を遂げたのはなぜか? 縦横無尽に欲望を比較する画期的な文明論。』文庫裏面

鹿島茂(1949〜神奈川県生まれ)
東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。フランス文学研究者・明治大学教授。
鹿島茂はエピローグで、『あらかじめお断りしておきますが、本書はSMの実践的指南書ではありませんし、S M業界(そういうものが存在しているとして)のインサイド・レポートでもありません。 ですから、その種の本を期待されて、本書を手に取られた読者は、そのまま書店の棚に置きなおすことをお勧めします。』と書いてあるとおり、SMにフォーカスした部分より、ヨーロッパ文化史として、中世から絶対王政、フランス革命、資本主義・民主主義、全体主義・共産主義の流れと、各時代の人物のエロティシズムに関するエピソードをまじえ、わかり易く大変面白い本になっています!
例えば、絶対王政からルイ15世の摂政だったオルレア公(1674〜1723)は、「愛する女性を人前でストリップさせること」に熱中したとか、『社会契約論(民約論)』で有名なジャン=ジャック・ルソーは、幼少期の鞭による折檻で、年上の女性に鞭で打たれないと興奮しない性癖になったとか、マルクスに「空想的社会主義者」と非難されながら科学的社会主義の一つの源流と評価される、シャルル・フーリエ(1772〜1837)は、この時代に女性に目を向け「文明の開放度は、女性の解放度に正比例する」と書いているとか…
サド、マゾッホ、ポリーヌ・レアージュからプロスペル・メリメ、ユイスマンス、ジェームス・ジョイス、マルセル・プルーストなどの作品を紹介している
さて、本筋のSMでは、なぜ西洋のSMは鞭で日本のSMは縄なのか?
を考証している
キリスト教徒が自己処罰としてむち打ちを受ける精神的・肉体的苦痛は、キリストの足跡を追い、キリストに近づくことになる

マルキ・ド・サド
ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え 挿絵 19世紀
無神論者のサドは神に代わって鞭を振るう

ルイス・ブニュエル 昼顔 1967
夫の命令で、馭者に鞭打ちさせるため、吊るされ、裸にされたセブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)
馭者に愛撫され、聖テレジアのように法悦の表情を浮かべる
欧米のSMの要素は「革」と「鞭」、Mを拘束するのは鎖の付いた「革」製の拘束具で、Sは「革」製の「鞭」で打ちすえる(SとMは、しばしば逆転するが)
「革」と「鞭」は、馬車をひく馬が表象するMと鞭を振るう馭者が表象するSであり、西洋馬具の鞍、ハミ、手綱、鐙、鞭、乗馬ブーツ、手袋、鞭などは、みな「革」製でSM用具に引き継がれている
フランス文学者である鹿島茂は日本文化にはあまり精通していないのか、最終章『日本人にとって、SMとは何か?』はちょっと物足りなかった
いわゆる欧米的・肉体的SMは江戸時代までは存在していない
しかし、精神的SM(支配・被支配関係)は『源氏物語』を宮廷のM女性が作り出した理想のS光源氏と考えられ、精神的SMは中世には認識されていた(共同幻想になっていた)、これには同感です
シャルル・フーリエは、1830年代(江戸時代後期)に「日本は大変野蛮な国であるが、女性の解放は進んでいる。だから、あの国は文明度が高い」と書いている、私が想像するに、フーリエは日本の春画から学んだのではないだろうか
キリスト教では快楽のための性活動は「禁止」され、女性の快楽は無視される、そこに「侵犯」=禁を犯すことでエロティシズムが発生し、肉体的SMがあらわれる
欧米(キリスト教)のような性活動の「禁止」がない日本に、肉体的SMは存在しないし、女性自ら(あるいは女性同士)が楽しむ「魂胆遣曲道具」など当時の欧米社会には存在しない
では、日本のSMは縄による緊縛とはいつから発生したのか?
西洋思想・文化を積極的に輸入した明治、大正期にクラフト・エビングの翻訳本『変態性欲心理』により、サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、同性愛などが変態性欲として紹介された
伊藤晴雨(1882〜1961)は「責め絵」という女性の緊縛画の創始者です
幕末から活躍した
伊藤晴雨に先行する「芝居絵」の絵金や「無惨絵」の月岡芳年は、幕末の血なまぐさい残酷趣味であり、伊藤晴雨の「責め絵」とは根本的に異なる
伊藤晴雨の責め絵は、女性を緊縛することにエロティシズムを覚えるのであり残酷趣味ではないだろう
それは、西洋文化のサディズム、マゾヒズムの日本的導入だったのではないか、鞭打ちで、苦痛を与える、苦痛を受けるというキリスト教由来の快楽は日本の伝統には無い、とが人のように縄で縛ることで自由を奪い辱める、縛られて自由を奪われ辱められる、という江戸時代の捕縄術に近いような気がする

伊藤晴雨画

美濃村晃(須磨利之の変名)画
須磨利之(1920〜1992)は、SM雑誌「奇譚クラブ」「裏窓」の出版人、編集者で沼正三の『家畜人ヤプー』、団鬼六の『花と蛇』はこの雑誌に発表された
日本の「縄」は、縄文土器以来日本人の生活にはなくてはならない「結ぶ」という日本文化の具体的用具であり、しめ縄のように「神聖さ」の表象です
また、「結ぶ」「紐」は、日本人の衣装(着物)は、褌から帯、袴に至るまですべて紐で結ぶ様式です
『SとM』では、『 (欧米の)Mの衣装が、どれをとっても馬の拘束具に似ている一方、Sの基本アイテムが鞭だけというのは、いかにも象徴的なのです。欧米のSMでは、Mになるとは馬になることを意味しているのです。では、日本SMの縄のファンタスムはいったいどこから出てきたのでしょうか? 家畜文化でない日本には馬と人間のような歴然とした支配と服従の関係を見出すことができません。ところがあるとき、意外なところにヒントを見出しました。コラムニストの中野翠氏が着付けをされたときの体験から、 から、「女性のM感覚というのは、キモノを着たとき伊達巻きやら帯やらでギュウギュウに縛られることの快感に通じているのでは」と指摘していたのです。そうか、日本のSMというのは、キモノと帯に原点があったのか…』と書いています
さて、日本のSMが緊縛というきわめてパーソナルな行為であるのに対して、欧米のSMはサドのアンチ・キリストにみられるよう思想・文化的要素があり、政治的構造を表象します
社会的Mの心情は、失われた絶対者へのノスタルジーが生み出したものです
絶対者は、中世では神・その子キリストであり、近世ではルイ14世のような絶対君主であり、現代なら、ファシズム、共産主義ではヒットラー、スターリン、毛沢東などです
個人的家庭レベルでは、強い父親になります
絶対者が姿を消すと、不安定で満たされない感情が生じ、その時代の安定感、充足感、プライドに対するノスタルジーが生まれます
第一・第二次世界大戦を勝ち抜いたアメリカは世界一豊かな国で、世界のリーダーとなります
アメリカの標準的家庭は、誰もが庭付きの家、自家用車を持ち、日曜日には家族で教会に行く『奥様は魔女』の専業主婦がいて、外で働く主人と子供がいる幸福で安定した家庭でした
ところが自由貿易、グローバリゼーションなかで、かつての主力産業であった製造業は衰退し、IT産業に地位を奪われると格差が拡大し、地域、職業で、そこでしか生活出来ない人と、国内外を問わずどこでも生活できる人に分断しました
世界一の国がもたらす安定した生活とプライドのある人生が崩壊したのです
彼らは、あの頃の生活、プライドを取り戻すための絶対者を求めました
『MAKE AMERICA GREAT AGAIN』を唱える、ドナルド・トランプはまさに、社会的Mが作り出したSです
大統領に再選されたドナルド・トランプはMである支持集団と『主従契約』を結んだSの主人です
自分たちの居場所を奪う移民の排除、キリスト教に反する同性愛、トランスジェンダーの排除、など古き良きアメリカ、強いアメリカにノスタルジーをもつMの要求にこたえようと、実行していく強いSを演じています
アメリカという国は、一見理性的合理的で民主主義、法治国家の教師であるかのような顔をしながら、前回の大統領選で敗北したトランプ支持者は、選挙に不正があった陰謀だと負けを認めないトランプ氏の扇動で連邦議会を襲撃・占拠するというクーデターを起こし
多数の逮捕者とトランプ氏自身も起訴されたが、再選を果たすと、逮捕者全員の特赦による解放とトランプ氏自身の不起訴を決定する
民主主義・法治国家とは言い難い、SMプレイ的・ポピュリズム国家の様相を露呈している

トランプ支持者による連邦議会襲撃事件

「主従契約」を守り、M支援者集団にアピールするSトランプ大統領
トランプ氏は知られるように、敏腕弁護士ロイ・コーン氏の薫陶により不動産王として成功した
ロイ・コーン氏は真正の同性愛者であり、トランプ氏が本当に同性愛者やトランスジェンダーを忌避しているならロイ・コーン氏を崇め指針に従うことは無かっただろう
やはり、トランプ氏はMが望むSを演じているのだろう
フロイトが精神分析を社会の分析に適用したように、
バタイユはエロティシズムを社会の分析に適用している