更生可能性は著しく低い | 福岡の弁護士 矢口耕太郎のブログ

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こんばんは!弁護士の矢口です!



昨日、仙台地裁で裁判員裁判で初めてとなる少年の死刑判決がでました。


みなさんにはどう感じられたでしょうか。



前々回のブログ(http://www.samurai13.jp/wp/yaguchi/?p=240 「死刑か、無期懲役か」)で死刑の基準となる永山判決を紹介しましたが、「犯人の年齢」というのは一つの考慮すべき事情になっています。


今回の裁判で、「少年」という事情は死刑ではなく無期懲役に近づく要素の一つでした。



少年で一番考えないといけないのは、「この人は、まだやり直せるかどうか、救いようの余地があるのではないか」という点です。難しい言葉でいえば、「更生可能性」といいます。



毎年たくさんの少年事件を担当しますが、警察署や鑑別所で会う少年・少女はみんなどこかあどけなくて素直な子が多く、「今回は間違ったことをしたけれども、絶対にやり直せるはずだ!」という気概をもって事件を担当しています。だんだん変わっていく少年をみて、やりがいを感じられることも多いです。



ほとんどの少年事件を担当している弁護士も、「更生可能性がある」ということを感じながら事件を担当していると思います。




ただ、今回の判決では、母親に対する暴行で保護観察中であったことや、元交際相手に対して日常的に暴力をふるっていたことなどを考慮して「更生可能性は著しく低い」と判断しました。



少年といっても、成年に近い年齢だったということもあったのかもしれません。



今日は少し、「刑罰は何のためにあるのか」ということを考えてみたいと思います。



まず、刑罰には、「悪いことをしたんだから、その分あなたも苦痛を受けなさい」という要素があります。「目には目を、歯には歯を」という言葉を聞いたことがある方も多いと思いますが、「応報」のための刑罰という意義ですね。


日本では、自分でかたき討ちをすることはできません。ですので、国家が代わりになってかたき討ちをしてくれているんですね。



もう一つ、「刑罰によって、もう二度と犯罪を起こさないように教育する」という意義もあります。簡単にいえば、「刑罰を受けることで反省して、社会にとって悪いことは二度としないでくださいね。」という要素です。



当然ですが、死刑に教育の要素はありません。



なんとなく、裁判員裁判では刑罰の「応報」の側面が重視されるような気がします。私が刑法を勉強しているときに感じたのですが、応報の意味は簡単に理解して共感できるんですが、刑罰の教育効果というのは初めのうちはピンとこないんですよね。




これからは、特に残酷な事件については、これまでの裁判よりも厳罰傾向になるのかもしれません。