古文書による 二十年間の裏付け調査
白山鉱山と湯乃沢温泉、八木沢マタギとの密接な関係
古文書 山田家先祖代々記
「第十三 明治43年冬 南秋田郡上新城村 鎌田兼蔵方二宿泊ス又鬼ヲナス 猿弐拾三疋 青獅子一頭 マミ五疋 狸五疋 テン二疋 猟ス 此の歳テン皮一枚七円 狸皮一枚五円」
2011年 4月下旬、明治43年冬 南秋田郡上新城村の記述調査で現秋田市上新城集落を何日も尋ね歩き、あきらめようとしたその日にマタギ宿をみつけた。多数の古老等からの聞き取りをもとに一帯を調査、そこにはマタギと温泉との深い関わりがあった。

長坂千軒集落・歓楽施設として芸者小屋一棟
湯乃沢温泉、硫黄分を含んだ沢水を沸かし明治期から大正年代の頃まで茅葺屋根の建物が二棟あった。鉱山は白山集落から新城川・白山川沿い北東4㌔地点に白山と新城鉱山、白山沢銀山には長坂千軒集落があって近隣に歓楽施設、芸者小屋一棟が建ち銀山町として賑わいを見せ、そこにマタギの姿が見え隠れしていた。
昔、サルは向いの沢や、この周辺にもいたそうだ。また、小又集落の古老は白山にサルがいたことは聞いている、マタギは射止めた獲物を湯ノ沢温泉で売ったりしたのではないのだろうか、昔は銀山町として賑やかであったようだという。また、白山集落の最長老(大正12年生)は昔、おら方に「だし風」が吹く頃、奥にある、白山沢にサルが出ると聞いている。この奥に「湯乃沢温泉」があった。そこにマタギが泊まった話は聞いている。田んぼの近くで見たマタギは2~3人で阿仁の方から来たと言って温泉に入っていった。ほかにもマタギが田んぼの近くでサル二匹を生きたまま縄で縛り背負っていたのを見たことがある。長老は白山集落には「白山様」を祀っているため、昭和2~30年頃まで肉は一切食べられなかった。いくらマタギが獲っても買う人がいなければ成立しない、マタギが獲った獲物を温泉に持ち寄ったことは十分考えられると語っていた。
調査の結果、鎌田兼蔵宅は秋田市上新城小又にあった。この間、何度もあきらめようと思ったその日に見つかった。偶然、畑をたがやしていた方が遠縁にあたり「鎌田兼蔵の家はここだ、昔の大地主で平屋建て、蔵もあったすごい家だったと私を誇らしげに裏庭に案内をしてくれたがそこは見事な庭園で大きな池が二つあって渡り橋もあった。池には山椒魚の産卵が見られ昔の名残が感じられた。

2011.04.11 14:23 山椒魚の産卵
サルは昔、向いの沢や、この周辺にもいたそうだ。白山には鉱山があって、それで栄えた。「長坂千軒屋敷」という大きい集落があって温泉もあった。八木沢のマタギは狩りで射止めた獲物を温泉に持ち寄ったのではないか。また、小又集落の入口付近で尋ねた男性は鎌田兼蔵さの家は知らないが白山にサルがいたことは聞いている。マタギが射止めた獲物は湯ノ沢温泉で売ったり買ったりしたのではないのだろうか、昔は銀山町としてにぎやかであったようだという。
明治43年の記述、白山の狩りはこの山域一帯で行われたと推測される

早春の白山 2013年5月6日 11:00 撮影
集落の最長老は昔、おら方に「だし風」が吹く頃、奥にある、白山沢にサルが出ると聞いている。この奥に「湯乃沢温泉」があった。そこにマタギが泊まった話は聞いている。田んぼの近くで見たマタギは2~3人で阿仁の方から来たといって温泉に入っていった。ほかにもマタギがサルを生きたまま縄でしばり二匹獲って「しょって」(背負う)きたのを見た記憶がある。昔は三里も奥に集落もあったし鉱山もあった。温泉の先、100も200㍍も奥さ行けば(奥に行くと)「かやぶき屋根」の泊まるところもあったが段々と人がこなくなって温泉は昭和の初めになくなったという。

2011.04.22調査にて(左:湯之沢温泉跡 右:マタギ宿跡地)
・湯乃沢温泉
硫黄分を含んだ沢水を沸かしていた「湯乃沢温泉」には明治から大正の頃まで茅葺屋根の建物が二棟あった。白山集落から新城川・白山川沿い北東4㌔地点に「白山鉱山」と「新城鉱山」があった。「白山沢銀山」には「長坂千軒集落」があって、近隣に歓楽施設、芸者小屋一棟が建ち銀山町として賑わいを見せていた。

新城鑛山第一中切抗(あきた鉱山盛衰記:秋田魁新報社資料)
出羽山地の山魂、「土地見平」付近には大昔マタギが歩いた山道がかすかに残っている。その道が姿を見せるのはクマ狩りが始まる春一瞬でマタギはその道を歩くことにより代々先祖から受け継がれてきた「マタギの魂」が伝わると思っている。いわゆる「マタギ魂」の継承であり、マタギ魂の掛け橋だと思っている。

春一瞬 かすかに昔のマタギが歩いた道が姿を見せる太平山地
2011.01.13 撮影:佐藤良美
【検証:古文書、伝承、聞き取り、考察】
・八木沢マタギの本質
新城鉱山が栄え、それに伴い「湯乃沢温泉」も栄えた。鉱夫が欲する物は貴重な肉ではなかったのだろうか、長坂千軒に住む鉱山関係者の腹を満たすには程遠い肉と考えられるが単に金銭だけではなく、マタギとしての使命を受け大自然を享受、肉をむさぼる鉱山関係者の姿がマタギの喜びで新城鉱山は、やがて下火になり「湯乃里温泉」も自然に消えた。これを境に八木沢マタギの使命は終わったと考察、八木沢の故老は「どんなに奥地でも射止めたクマを集落まで運び皆で喜び分かち合った、獲物は皆の物、クマは自然から享受する最高の獲物、皆が喜ぶ姿が一番嬉しい」と語っていた。
明治43年の記述、八木沢マタギの本質は大自然を崇拝する狩猟の民はみな同じ仲間ととらえ大自然と一体、射止めた多くの獲物を温泉に持ち寄り交易の場として鉱山で働く労働者や湯治をする人々への山から授かった獲物の肉を供給する橋渡しの役目を八木沢マタギは担っていたのであろう。
八木沢集落は根子マタギによって開村した集落、江戸後期、旅マタギ「長吉・長松」兄弟を中心とするマタギ文化が栄えた。明治43年の記述、白山の狩りは江戸期のマタギから明治マタギに変遷、冬狩りが定期的におこなわれたと推測され、ここに地層の如く時代要因がクローズアップされる。新城鉱山が栄え、それに伴い「湯乃沢温泉」も栄え鉱山で働く労働者や湯治をする人々にとっては貴重な肉であったに違いない。
調査で大きな疑問は奥深い山里・八木沢には1945年頃までサルがいてマタギはサル狩りを「シシ狩り・シシ狩り」と呼称、根子マタギと八木沢マタギの共同の狩猟地、豊穣の大地・赤沢は旅マタギが歩く山道、昔のマタギが語っていた「豊かな生態系に恵まれ豊饒の大地でクマやサル・カモシカ、バンドリ、ヤマドリ等々多くの生き物が生息していた」と、それなのに何故白山で狩りをしたのだろうかと大きな疑問が頭に浮かんでいた。尋ね歩くなかで鎌田兼蔵宅から第一別家の御老体を尋ねた。御老体は「俺の家は第一別家だ、マタギの話しは先祖から聞いている。白山にサルがいたことも聞いている、サル狩りには河辺郡・三内マタギ(現秋田市)も狩りをしていたし八木沢と三内マタギとの武勇伝も先祖から聞いていると語ってくれた。加えて御老体は鎌田兼蔵宅を俗に言う「マタギ宿」だと言っていた。
大自然に生きるマタギと鉱山、温泉との密接な関係は遠の昔に風化してしまったが明治に書き残した記述の本質を語るとすれば、それは大自然を崇拝する狩猟の民はみな同じ仲間ととらえ、大自然と一体であったと結論付けられる。奥深いマタギの調査は暗闇の中を手探り状態だが微かな明かりを目指し進む、まるで昔のマタギの狩りが思い出される。調査で感じるのはマタギも不可思議で奥が深すぎる。ただ、真実を知りたい一心で二十年間の調査を要したが、それは計り知れない長い歳月が過ぎてしまったような気がする。
【八木沢マタギ】
文化十年(1813)、旧荒瀬村根子(現北秋田市)から居着いたマタギが起源とされ、村田徳助、山田三之丞、佐藤七左衛門が開祖。七左衛門は筆者の先祖に当たる。集落は射止めた熊肉は山の神からの授かり物とし集落の皆に公平に配るのが昔からの風習で自然を敬い山の神に感謝するマタギ文化が根付いていた。2009年春、集落最後のマタギ・佐藤良蔵が鉄砲を返納し200年近いマタギ文化が消滅、開祖七左衛門の子孫(筆者)が所持する狩猟用具五点は上小阿仁村の有形民俗文化財に指定されている。
文献
・秋田魁新報社「あきた鉱山盛衰記」、 秋田県鉱山会館「秋田県鉱山誌」 ・史料と文:佐藤良美
【関連記事】
神秘のカゴ山 熾烈を極めた 巨熊とマタギ
秋山郷 八木澤マタギとの関連を求め 熊穴に立っ
八木沢マタギ 有形民俗文化財
鷹とマタギは何か共通をしている
ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー