マタギ史料の検証
・集落に残された大型の「熊槍」は秋田の物ではない、その要訣は信州秋山郷に隠されていると思った。身の危険を覚悟で未知の国、秋山郷へと一途にむかった
                                                 
信州秋山紀行 秋田マタギの変遷/奥羽山脈、信州秋山郷 八木沢マタギとの接点」
 江戸後期、旅マタギは太平山地、峻険に切り立つ屏風のように長く南北に連なる奥羽山脈で狩りをしながら上信越国境地帯、秋山郷までマタギの姿があった。伝承によれば秋田県北、根子集落から秋山郷までの距離は約120里とも言われ鈴木牧之・秋山郷に登場する二人の兄弟「長松・長吉」は根子の旅マタギ、この二人の兄弟は八木沢に定着をしたマタギと同一人物であろうか。
        
          マンブ積雪5~6㍍の太平山地 

・近世、秋田マタギは越後、三面、信州秋山郷へと、このナガネを歩いていた。 
 ※マンブ(雪庇)、ナガネ(稜線)はマタギ言葉:1987.01.03 撮影:佐藤良美

国境のまち 北信州・栄村 秋山郷
長野県の最北部に位置する栄村、山々に囲まれたこの地域は積雪量が日本一(7m85㎝)を記録したこともある日本有数の豪雪地帯。村の南部に聳える苗場山と鳥甲山に挟まれた細長い山峡「秋山郷」は、江戸時代の文人・鈴木牧之の著した「秋山紀行」で初めて世に紹介された。長野、群馬、新潟の県境に位置する場所だった。三国山、新潟県大赤沢、小赤沢、津南町、甘酒村跡、栄村(旧箕作集落)、長野県と新潟県の県境にまたがる。秋山郷は新潟県・長野県をまたぎ中津川渓谷に点在する12集落の総称、豪雪地帯であったことから、独特の生活習慣が残され、一帯は、鷹狩りの主役・鷹の繁殖地で狩猟禁止・・・実質上の保護区であった。1727年の文書では、秋山郷周辺に10名の巣守がいたことが記されている。この狩猟禁止区域に、秋田の旅マタギが入るようになるのが19世紀頃といわれ、この時期は幕府の弱体化と巣守らの特権が崩れてゆく時代でもあった。

鈴木牧之・秋山紀行
 文政11(1828)年、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことで清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・」。「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記されている。

 処佳興ならすと云ふも更なり 懐敷哉 此川上こそ 星霜十七・八年の昔登山して近国まて一目と眺望せし 其下流 責て清流を一口なりとも呑はやと 水汲もなく平ラ手に味ふに 宛氷の如く五臓にしむ 是より少し右の山の手ニ 甘酒と云ふ二軒の村あり 一宇に立寄り しはし休足を頼み 腰うちかけ見廻すに 爰ニも山挊の留守にて 女性独あり 色光沢とて世間の女子と替らねと 髪に油も附ねハ あか黒くして首筋まて乱れたるをつかね 垢附たる 手足も見ゆる斗りの短かきしとねを着 中入らしきも見へぬほつれたる帯前ニ結び ほろほろしたる筵のうへにて 茶袋なと取出すをさし留め 小赤沢まてハ尚遠し煙草の火を一ツを乞ふに 大木の節穴一はいに土塗り込たるに火を入て出しぬ 抑々清水川原より村々を尋ねしに 是や秋山中まて始めての多葉粉盆と 帰庵迄の一ツ噺也けり 扨此処も纔ニ家二軒 雪中杯ハ嘸や淋しからんと云に 女か答に 雪の内ハ里の人ハ一人もこない 秋田の狩人時々見へ申迄た 昔より此村ハ増しもせす 減りもせない 惣秋山中の根本 大秋山とて川西に八軒あったか 四十六年以前 卯の凶年ニ餓死して 一軒なしに盈したもう 其時も己か村二軒なから 卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ 今てハ楽々と食物ニ乏みないと云ふに甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ

       甘酒の村はわずかに家二軒卯の凶作にこぼさぬと云ふ
   
 民俗学者 宮本常一著「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。秋田県では北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村などで東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであると記されている。

考察:ここに登場する「長松・長吉」兄弟マタギの人物像は三つの場面からなると思われる。  
 ① 清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟マタギがきて猟を伝授。
 ② 牧之が「お国は羽州の秋田の辺りですか」と聞くとマタギは「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。
 ③ 甘酒村、女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」。

 文政11年、鈴木牧師 秋山郷での秋田マタギの出会いのなかで、「お国は羽州の秋田の辺りか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里」と答えた。城下(久保田城下・秋田藩)から三里だとすれば現在の上小阿仁村八木沢集落になると思われる。八木沢集落から秋田郡大阿仁根子(現阿仁町)までの距離は直線で約二里、マタギの足で約3時間。集落は江戸後期、根子のマタギが移り住んだ。八木沢の「赤沢」は根子マタギの狩猟地、集落は左右が小高い山に囲まれた小盆地、地形が独立しているため生活に適し秋田マタギが旅する中継地点でもあった。
 
五城目町史の記録とマタギとの接点を考察
 集落は江戸後期、八木沢から五十目村、城下のルートが結ばれ、太平山地の西側に位置する五十目村はマタギルートでもあり山麓にマタギ宿があった。秋田藩への最短距離でマタギルートだけではなく集落に生活する人々が主要な道路に出るまでの生活道路でそのため集落どうしの交流があって江戸後期から昭和初期にかけて八木沢集落のマタギとの婚姻も成立していた。

 関連資料として五城目町史に1336~1762年間の世相が詳細に記されている。
以下一部記録を抜粋し掲載
1. 一三三六(建武三)年頃、県北を浅利氏・安東氏、県南を小野寺氏・戸沢氏・六郷氏・本党氏、由利地方を由利十二頭と呼ばれる豪族等が押            えていた。五城目付近は安東氏の所領に入り、山内(五十目)城・馬場目城・浦城があった。
2. 一六二九(寛永六)年六月二二日、藩主義宣が五十目市(現五城目市)を視察した。一七五八(宝暦八)年 二月、五十目村の指紙開許可される〔(石井家文章)〕。
3. 一七六二(宝暦一二)年この年、藩、山林保護条目を制定し、木山奉行を置き山林区を制定する。番山繰を実施する。

 五十目村は昭和六年に軌道が敷設され手押しのトロッコから出発、十八年にガソリンカーが登場、そして戦後はディーゼル機関車が導入され、最盛期の昭和二十七年には全県で百二十七台の機車が走り回った「五城目町馬場目地区を走る県内最後の森林鉄道=杉沢森林鉄道」は木材輸送のみならず、山奥の辺地だけにかつては、沿線住民の唯一の交通機関として、通勤・通学・町への買物、そして嫁入りなどの記録が残された。また、集落のマタギが記した古文書に「山田三之助ヨリ小樽及ビサバ樽共六ケ」「佐藤七左衛門ヨリサバ樽一ケ」と記され、生活の基盤とする主要な交通機関でもあったとされる。明治43年の記述「鉱山と温泉」マタギとの密接な関係 : 八木沢マタギ」はこのルートでもあった。
  
〔調査:秋山郷と八木沢マタギの関連性について〕
 秋山郷:八木沢マタギとの関連調査
八木沢集落に存在する長吉マタギが所持した「マタギ熊槍」は秋田で造られ、秋田で用いられた狩猟具ではなく、信州秋山郷との関連があると推測する「肝」で身の危険を承知の上で秋山郷に向かうことを決意した。          

2012年6月23日(土)小雨 出発
午後3時、秋田から秋山郷まで片道約580㌔、未知の旅で気持ちが昂るが往路の不安を隠せず、秋山郷を歩き情景と熊穴をこの目で確認をしないと本筋が見えてこない、覚悟して一路信州秋山郷をめざした。
2012年6月24日(日)晴   深夜、新潟県小千谷着マタギに詳しい古老等から情報を収集   
 深夜、迷いに迷ってようやく、道の駅「ちぢみの里おぢや」道路情報ターミナル(R17号線)に着いた。この遠路、断念をして秋田に戻ろうと思ったほど遠すぎた。施設は奇麗で監視カメラ、暖房がついて室内が暖かいので休憩をすることにした。室内の掲示板によると目的地の秋山郷はこの方向のようなので安心した。ここまでくれば安心と気持ちが昂った。
04:00 老人の物音で目をさます。75歳前後の老人が折りたたみ式の長い棒で昆虫を取りにきて窓をたたく音がする。どこからきたのか分からないが「今日は昆虫がいねえがよ、寒いからだろう。」と独り言をいっていた。私は老人に栄村を尋ねたら「栄村はまだ先でここは小千谷だ」「あなたの仕事はなんだろう、えらい地図を一杯持っていて」と言って「栄村、秋山郷は、この先の信号を越して橋を渡っていけばええがな~」と教えてくれた。私は、もしこの老人にあわなければどうなっていったことやら、救いの神のように思えた。車が混みだす前に急いで出発の準備をはじめる。
05:00 出発、117号線から旧道入り、草取りをしていた中年女性に秋山郷への行先を聞いたら「この先を進めばいい、津南町に入ったらまた聞いたほうがいい」とご親切に教えてくれたのに感謝をした。

津南町に入る
・情報収集と聞き取り調査
 50~60代の男性は「秋山郷は秋田のマタギがきて普及したと伝承されている」と言ったのに驚いた。さらに聞き取り調査をしながら進むと前方に荒々しい山並みが現れ、とても美しい棚田が見えてくる、近場にいた集落の男性は元々秋山郷には秋田のマタギがきて普及したところで今でも何人かのマタギがいると話す。
06:55 秋山郷
 古老男性は昔、水平2連銃を所持、10日ばかり集落を離れて旅マタギをしたことがある。この集落には熊やサル、イノシシもハクビシン,シカなど何でもいる。昔、ここには秋田のマタギが狩りに来て指導したところで最初にここに住み着いた人は山田文五郎だ、この集落には槍も村田銃も持っていたが今どうなったのかわからない。秋田のマタギは罠に落ちた獣を槍で仕留める方法を指導したと思う。阿仁マタギが来たおかげで良い暮らしになったと言っていた。色々な情報を聞いてから最後に熊の落とし穴があるかを聞くと古老は「熊の落とし穴は今でもある。秋田のマタギは槍で獲物をとる方法を教えたのではないか。」そこで私の槍の写真を見てもらうと古老は槍の大きさに「大きいな~」と驚いていた。
10:20 秋山郷総合センター「とねんぼ」民俗資料室を見学
槍は3本展示されていた。たしかに秋山郷で使われた槍と共通しているが私が所持する槍の穂先は資料室の槍よりも2倍の大きさ、柄の長さも30㌢ほど長い特殊な大型槍である。
12:30 津南町歴史民俗資料館に移動、施設内見学、阿仁マタギが使用した槍が収蔵されていたが八木沢の熊槍と同種のものは無かった。そのまま熊穴を見に出発する。
15:00 熊の落とし穴を確認、神社を見に行くときに出会わせた方に熊の落とし穴を聞いて探したらすぐに見つけた。この場所が一番の目的であった。

 聞き取り調査で津南町歴史民俗資料館の職員や津南町、秋山郷の住民達は秋田マタギと秋山マタギとは深い親戚関係の間柄で未だに深い絆で結ばれているとは予想だにしてなかった。長い人類の歴史の中でも今においても消え失せることなく語り継がれていたのに驚いてしまった。

秋山郷 熊の落とし穴に立つ
 八木沢集落の狩猟用具の中でマタギ熊槍(通称:三角槍 有形民俗文化財)は秋田で製造されたものでもなく秋田で用いられたものでも無い、いったいどこで造られ何処で用いられたのだろうか、そのヒントは信州秋山郷にあると導かれるように信州秋山郷の熊穴の前に立った。落とし穴は、深さが3.5m~4.5mとかなり深い。穴は深く暗いが神秘的で末広がる大きな穴だと実感した。はたして八木沢集落に移住した根子の旅マタギ長吉・長松兄弟がこの穴の前に姿があったのだろうか。1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあったとされる。
   

            
    秋山郷 熊の落とし穴は今でも一つだけ残されている  2012.06.24 15:00  
 
 
 【槍の機能検証】
           
               
      江戸期の槍の変遷を考察(材質天然秋田スギ・製作 佐藤良美)


 手前から①②(平槍)は秋田の槍で③④⑤(三角槍)は三面や信州秋山郷の槍と類似する。八木沢集落は平槍と三角槍の二種を所持、この資料からしてもマタギ文化の変遷が示される。

 八木沢集落の山田福蔵マタギが書き残した記述「山田家先祖代々記」に次のように書かれている。
 第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松・・・」とある。「佐藤七左衛門ノ子長松」は我が先祖、長吉は佐藤七左衛門の長男で戸籍にもある。七左衛門の子で長吉と長松は兄弟、根子のマタギで善兵衛組頭の孫である。七左衛門は根子の中心的な組頭・善兵衛の長男、古文書、戸籍、伝承から善兵衛の子である七左衛門に二人の男の子(長吉・長松)がいて長吉が長男である。八木沢集落での戸籍、墓地で三代目を継承していたが戸籍上では初代・二代とも「七左衛門」の屋号をひきついでいた。(長子相続)
※長子相続制度~相続者の親との続柄からみた相続形態の一つで,通例男子のうちの長子,すなわち長男が親の財産を相続する形態をいう。 長子相続は,未開社会のなかでは父系的傾向のつよい社会,歴史的にはヨーロッパの封建社会に顕著にみられた。

 八木沢集落には「三角槍」と「平槍」の二種類が残されている。平槍は根子マタギが所持した秋田の槍で三角槍は三面や信州秋山郷の槍と酷似することから集落のマタギ文化の変遷を示すものである。八木沢集落に移住した「長吉と長松」が秋山郷にいたかどうかは江戸期に遡及しなければ確証は得られないが生前、父良蔵マタギが阿仁の菩提寺の住職から「子供(長吉・長松兄弟)が先祖(七左衛門)を連れてきたのだろう」と言っていたという。狩猟用具、古文書、伝承等からしても先祖、七左衛門と長吉、長松が一緒に八木沢に移住時にはすでに「熊槍」も一緒に持ち込まれたと考察すると点々と様相を呈している未知のマタギ文化が一本の線につながる。
 信州秋山郷の熊狩りで八木沢マタギの姿があったのか、江戸後期、清津峡二居、甘酒村、現在の切明(湯本)での秋田マタギ、登場人物の長松・長吉兄弟と八木沢の長吉・長松兄弟は同一人物なのか、共通点は同じ根子マタギ、八木沢の兄弟マタギは善兵衛組頭の孫にあたる根子の旅マタギ、古文書や集落に残されたマタギ狩猟用具等の史料を検証・考察をすると多くの共通点が散見される。二人の兄弟マタギは八木沢の兄弟マタギと同一人物と推測されるがこの周辺の熊穴に姿を見せたのかどうか確証は得られない、ただ「熊槍」は村上市の鍛冶屋で造られ、三面、秋山郷との深い関連性があったとする痕跡は明白であろう。

 八木沢マタギの発祥
 集落は1813年、秋田県阿仁・根子集落のマタギによって開村、根子を背に村田徳助、佐藤七左衛門(善兵衛から分家)、山田三之丞の三軒が最初に移住する旅マタギの集落で生業とする伝統マタギは1960年ころまで見られた。長年の調査で八木沢集落の多くのマタギは根子の善兵衛派であった。いまだ集落の墓地にはその当時の変遷を物語る源氏車の紋章が刻まれた墓石が静かに眠る。源氏の紋章は源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の末裔との言伝えがある。

      

           写真左: 八木沢墓地 源氏車の紋章が刻まれる墓石(1955年10月建立)   
     写真右:八木澤旅又鬼と其之子等(昭和初期 八木澤番楽にて)


 1950年代頃まで熊狩りになると明治生まれのマタギの姿もあった。200年もの長い歴史の変遷をたどる八木沢マタギ集落、そこに中軸として纏めていたのは長吉・長松兄弟で江戸期、根子の旅マタギは出羽丘陵や奥羽山脈での狩りをする中継拠点地として八木沢集落が誕生、根子から稜線を渉り赤倉山、太平山地稜線へと向かうと右手に八の字のようになだらかに末広がる沢(八木沢)が目にとまる。八木沢マタギの発祥の原点はここにあって、八木沢は旅マタギによって開村された集落である。昔のマタギの中には火縄銃、大正、昭和にかけては村田銃を所持、鉄砲弾は1960年ころまで自分で造っていた。村田銃は村田式歩兵銃を民生用に改造した単発銃で子供等が寝静まった頃を見計らい神棚のある引き戸から道具を取り出し囲炉裏端で鉛を溶かして弾型に流す。次に黒色火薬を薬莢に充填し弾型から取り出した球形の鉛丸や熊用一発弾を装填して実包を造っていたが一連のしぐさは厳格で近寄りがたい存在、1960年頃から明治、大正マタギが鉄砲を警察に返納し引退する者が多くマタギ集落は衰退、2009年春、集落最後の古老マタギが鉄砲を返納し200年近いマタギ文化が途絶えた。今において先人が用いた狩猟用具五点が村の有形無形文化財として残され後世に語り継がれようとしている。
 
 【狩猟猟具、古文書、機織り機など物語る根源の証し】  
古文書、狩猟用具、機織り機、民具などは八木沢の旅マタギが諸国(越後・信州)との交流の中で伝播されたと推測、幾重にも断層の如く積み重なる重層文化の証しである史料が残されている。

1.古文書
 集落のマタギが所持した古文書12冊(*は不明)
◆御手本 1冊◆庭訓往来 一冊◆掌中安政附合集 青雲堂* 安政戌年◆節繁**捕* 明治二十五天立****◆孟子(天明改正 孟子  道春点 二」) 1冊◆論語 1冊◆直江氏持用(直江村蔵) 直江山城守末孫 直江鎌治郎 一冊◆「新版 假名安驥集」5巻
・新版 假名安驥集は1604年、国内初めて出版された馬医学書で全巻12巻、江戸初期から後期にかけて刊行された指南書である。
      
                                       
     写真左集落のマタギが所持した古文書            
     写真右:馬医学書「假名安驥集」七左衛門はマタギであり獣医でもあった



2.マタギの衣類等を織った機織り道具
 機織り道具は集落の「蔵」に残されていた。生前、叔母の村田チサ(大正10年生)は「長吉の妻が編んでいた、昔は各々の家で機を織っていたものだ」と語っていた。

  鈴木牧之「北越雪譜」
 雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す 雪ありて縮あり 
    されば越後縮は雪と人と気力相半ばして名産の名あり
                     魚沼郡の雪は縮の親といふべし
 
 牧之が記した雪国の生活感は、まさに江戸期の八木沢集落が再現され同一村落を思い描き、まるで鏡のように映る。はるか遠い大昔の八木沢集落は茅葺屋根の豪雪地帯、マタギと機織り、杣人、雪に閉ざされた集落の中心を清らかに流れる小阿仁川、冬場の棚田に雪晒し、機織りの臨場感溢れる情景は八木沢集落と良く似て心に伝わる何かがある。
 

      
    江戸後期、マタギの衣類を織った機織り道具と糸の原料、カラムシ        
    
  機織り道具は昔、マタギの袴を織り
     地機(じばた)の杼(ひ)いとくりわく(糸繰枠)など
                  集落に残された蔵に収蔵されていた
                   

 集落の古老マタギは古くから機屋さんがあって相当遅くまで編んでいたとされ畑から採集した糸の原料、カラムシを釜で蒸かした後、皮をむいてオシキダでギューッとこくると白い繊維が出る。それを洗い棹にかけて乾燥させ女性が夜に糸を紡ぎ、へそ巻きにヒョウタン型に巻いて吊るし材料にして布を織るが主にマタギの衣装などでマタギ袴は風を通すが冬狩りでは雪がまったくつかず自給自足でどこの家にもあって袴は1935年ころまではいていたとされる。カラムシは今でも長吉マタギの屋敷跡に残されている。
 

3.マタギ狩猟用具
八木沢のマタギ熊槍(村有形民俗文化財指定)
 穂先:37・8㌢・柄:2㍍  近世後期。断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称し熊猟で用いられた。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似し秋田県で造られたものではない、大型の熊槍で根子の旅マタギ、佐藤長吉マタギ(根子 善兵衛組頭の孫)が所持したものとされる。

                            

              八木沢民俗文化財指定「マタギ熊槍」 
           
※敷皮はアオ、生き物の調査で五十目村(元五城目)の奥地を調査した際に沢添えでアオの亡骸があった、野生動物に捕食され無残な姿、冬毛のアオの毛皮を明治、大正、昭和初期のマタギは狩りで身に着けていた。※ アオ(カモシカ)はマタギ言葉


・江戸期以前からの狩猟用具「マタギ小槍」は決定的な根源の証しである

     
      マタギ小槍(全長122、穂先13、柄116㌢,材質はサビタ)
                        所有者:佐藤良美
 

  根子マタギ善兵衛組頭の子、佐藤七左衛門マタギが所持したとされ、近世初期から中期のものと思われる最も古い槍で穂先の形状からしても江戸期、秋田で製造されたものではない。柄にはカキ渋が塗られ柄の腐食と強度を保つ昔のマタギの知恵であった。槍の穂先が極端に擦り減っていることからして、相当「熊狩り」で用いられたと推測、マタギ熊槍と同様に近世中期、村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で造られたと思われ三面や信州秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似、八木沢集落に移住以前から越後のマタギ等との交流があったと推測し槍は江戸期中期以前と検証される。


4. 江戸後期、根子から移住した八木沢の長吉・長松兄弟の屋敷跡 

       
      弟の長松マタギ屋敷跡     兄長吉屋敷跡 樹齢約200年の
                     ソメイヨシノが咲き誇る

 長松の槍には熊のカジリ痕がある、朽ち果てた家屋を掘り起こせば槍が出てくるかもしれないと冗談で言った古老マタギがいた。今においては何も無くなくなり消えてしまった。
 七左衛門の子、長吉は根子善兵衛の孫で三代目を継承する旅マタギ、六代目の良蔵マタギを最後にマタギは途絶えた。残された狩猟用具だけが子孫の手によって後世に残されようとしている。                                       

5.ご祖先を偲ぶ 佐藤長吉の蔵と墓地
 マタギとは畏敬そのもの秘めた遺物から点が線で結ばれる。

        
    マタギ熊槍や機織り機、民具などが収蔵されていた蔵    
    消滅をした佐藤長吉マタギの墓
 
 蔵は江戸後期以降に長吉マタギが建造したとされている。蔵の中には火縄銃の背負袋や槍、機織り機などが収蔵されていた。長吉マタギの墓はすでに消滅して幻となってしまった。「マタギ熊槍」は油紙で包んで収蔵され、「機織り機」は天井の棚にありのままの状態で残されていた。これらの史料は集落の歴史のみならず本質のマタギ文化の変遷を示す史料となり今に残され続けている。

・火縄銃の背負袋(村有形民俗文化財指定) 唯一無二の旅マタギ史料
 近世末期とされ、牛革で作られた火縄銃の背負袋は集落の蔵に二組収蔵され一組は破れている。根子の旅マタギ、長吉が所持したとされ、火縄銃は戦後手放している。史料からしても八木沢集落は早くから火縄銃が伝播され旅マタギが主流であったと推測される。

           
 集落の蔵に二組あったが一組は片割れ、火縄銃を背負う旅マタギが偲ばれる
                     (木箱と木彫り製作: 佐藤良美)
 

・マタギマキリ 刃長4寸8分(約14.8㌢)柄(イタヤ材)長さ11㌢
  マキリはアイヌ語と共通。近世中期、熊やアオ(カモシカ)などの大型動物を解体するための道具として用いられた。 刃は鋼で日本刀を改造したものとされる。新潟県岩船郡朝日村、三面マタギが所持したものと酷似する。

           
        マタギマキリ(有形民俗文化財指定)鞘は山兎の毛皮

 マタギマキリ見つけた時には鞘が無く赤錆びが付着しボロボロの状態であった。それを研磨してから山兎の皮で鞘を作り、最後は日本刀剣協会に鑑定依頼をしたものである。※毛皮の鞘~この山兎の毛皮は晩秋から初冬にかけての毛皮で冬になると全身の毛が白くなる。


考証
・甘酒村、秋田マタギのシーンに隠されたものとは…。
 近世、根子から移住した八木沢のマタギは五十目村(現五城目町)との交渉があって、城下へのルートは同村を経由したと推測、根子の長松・長吉兄弟は江戸後期、八木沢に長吉(兄)と長松(弟)の兄弟が移り住んだ。秋山紀行に登場する長松・長吉兄弟と八木沢の長吉・長松兄弟は同じ根子のマタギであった。
 豪雪、津南町、秋山郷は1945~1955年頃の八木沢の暮らしぶりと類似している。津南町の資料館などを見てあまりに共通する点があるのに驚いた。八木沢集落の文化は三面、津南町、秋山郷から伝播されたと思われるほど昔の文化が共通している点が多く、秋山紀行のくだりに牧之が1人のマタギに「お国は秋田のあたりか」と聞くとマタギは「城下から三里へだてた山里」と返答、秘鑰はここにあった。城下から三里だとすれば八木沢集落に間違いない、その道は集落南西から浮内沢沿いを登るルート、道が荒れ難所の箇所が幾つもあるが城下まで最短距離。道は1960年代まで微かに残されていたが、今においては幻の山道になりもはや幻の記憶に留めるだけになってしまった。二人の兄弟マタギが八木沢集落の兄弟マタギだと想察するならば清津峡二居で猟を伝授したマタギと秋山郷、温泉長屋の二人は同じマタギ、甘酒村の老婆に通ったマタギは兄長吉、牧之が温泉宿で対面したマタギは弟の長吉、兄弟マタギは根子マタギの善兵組頭の孫、古文書に長松が子等に語学を教示、また マタギ背負袋やマタギ熊槍は長吉が旅マタギで用いたとされ、史料検証等から近世、八木沢集落と越後が同じ地形上の狩猟範囲に分布し隣地に秋山郷があって、その時代において伝承が円滑に行われ諸国から伝播された基層文化を形成、集落誕生以前から信州秋山郷との狩猟文化との交流があったと推測、マタギ文化のルーツを一つ一つ考察していくと信州秋山郷の熊穴が徐々に広がり八木沢の狩猟地赤倉が浮かび上がり、そこに見えるのは勇壮な昔のマタギの姿であった。近世の秋田マタギ、終結は阿仁根子と八木沢、越後・三面、信州・秋山郷とが一本の線で結ばれる。秋田マタギ「長松・長吉」兄弟と八木沢の「長吉・長松」兄弟は断定できないものの多くの共通点が散見され同一人物と推知された。

邂逅
 1961年春、ドンヨリトした日で集落は霧に包まれていた。女性が大声で「熊を捕った」と叫ぶ声がして外に出ると歓声が沸きマタギ4~5人が犬の毛皮に銃身の長い村田銃を背負い誇らしげな表情で立っていた。さっそくマタギは熊を解体し始め手際良く慣れた手つきで大きな巨体をたちまち均等に分け分配で射止めた親方は一番小さな肉を取っていたのを見て呆気にとられた。肉は子供が集落の皆に配り歩くしきたりであるが思えば茅葺の大きな家、重く分厚い板戸、中に入り暗い土間で肉を渡した記憶がある。熊は山神さんからの授かり物、どんな奥地でも射止めた熊を集落まで運び肉を子供が振舞うのが昔からの風習で祖先から受け継がれた文化、大きな支柱で強い絆で結ばれていた。一連の風俗習慣は自然への感謝と熊への成仏、マタギ文化の継承、そして狩りで仲間を失った同胞への思いが根底にあったと思う。
 2009年春、集落最後のマタギが鉄砲を返納し200年近いマタギ文化の幕が降ろされた。人の記憶というものは長い年月を経るとともに薄れ未だ多くの謎を残したまま埋没してしまったマタギ集落、65年ころまで根子集落との道が残存していたが、いまは跡形も無く変貌、かつてのマタギ屋敷跡が点在し集落の変遷を物語る。
 12年6月 、信州・秋山郷の熊の落とし穴前に立った。目的は文政11年、牧之・秋山紀行に登場する二人の兄弟「長松・長吉」と八木沢集落の長吉・長松兄弟が同一人物なのか、マタギ熊槍(村文化財)のルーツなど色々検証する目的があった。熊槍は秋田の鍛冶屋や狩猟用具に詳しい古老マタギ等に鑑定結果、秋田では存在しない槍が何処で造られ、何処で使用されたのかであるが、その手掛かりは信州秋山郷に隠されていると思った。秋山郷を訪ねマタギ関係者等からの聞き取りをして目的地の熊の落とし穴に立った。穴の深さ約3.5~4.5mと推測、この穴に落ちた熊をどのように仕留めたのか、暗い穴を覗くと不思議と昔の狩りの様子が再現され秋山郷と八木沢が、かけ離れた地とは思えず自身が八木沢にいると思うほど身近に感じた。

 幼少期から生き物の調査をし、最後は集落に残されたマタギ猟具だった。マタギの家系に生まれた宿命であろうか、天空から「もういい、俺の事はこれ以上探すな、ここまでお前を導いたのだからもうこれでいいだろう!」と遠くから先祖、長吉マタギの声が聞こえそうだ。

文  献:宮本常一「山に生きる人びと」・鈴木牧之「秋山紀行」「北越雪譜」
史料と文:佐藤良美(集落最後のマタギ佐藤良蔵の三男) 

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