日本売春考




売春は人類で最も古い商売で、日本でも古代から盛んで、現在のように暗いイメージと程遠く、女が自立して生活するおおらかさがあって天皇や貴族たちも大いに利用し堪能していた。
以下に再掲載となるが、平安末期の漢文体の短文で、大江匡房が,江口や神崎の遊女たちの様を書き記した「遊女記」から売春の歴史を考察する。大江匡房は平安時代の、支配階級である貴族でもあった。
11世紀から12世紀にかけて、後三条、白河、堀河の各天皇さまの侍講を勤め、
「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」「江家次第」の著述があるのはよく知られていても、彼の「くぐつ記」と「遊女記」は何故か一般の歴史家は取り上げようとしない。
以下に原文を記しておきます。□は欠字となっていて、そのまま記してある。
白山城国与渡津。浮巨川西行一日。謂之河陽。往返於山陽南海西海三道之者。莫不遵此路。江河南北邑々処々分流向河内国。
謂之江口。蓋典薬寮味原樹。掃部寮大庭庄也。到摂津国有神崎蟹島等地。比門連戸。人家無絶。倡女羆群。掉扁舟。看扮舶以薦枕席。声過渓雲。韻瓢水風。
経廻之人莫不忘家。州慮浪尤。釣翁商客。舳艪相連。殆如無水。益天下第一之楽地。江口則観音為祖。中君□□□小馬。白女。主殿。蟹島則宮城為宗。如意。香炉。孔雀。三枚。
神崎則河孤姫為長者。孤蘇。宮子。力余。小児之属。皆是倶戸羅之再誕。衣通姫之後身也。上自卿相下及黎庶。莫不接味策施慈愛。又為妻妾。歿身被寵。雖賢人君子。不免此行。南則住吉。
西則広田。以之為祈徴壁之処。殊事百大夫道神之一名也。人別宛□之数及百千。熊蕩人心。亦古風而巳。長保(一条)年中。東三条院参詣住吉社天王寺。此時禅定大相国被寵小観音。長元年中。
上東門院又有御行。此時宇治大相国被賞中君。延久年中。後三条院同幸此寺社。狛犬群等之類。並舟而来。人謂神仙。近代之勝事也。相伝日。雲客風人為賞遊女。自京洛河陽之時。愛江口人。
刺史以下自西国入江之輩。愛神崎。神崎人皆以始見為事之故也。所得之物。謂之団手。及均分之時。慮恥之心者。盆僕之与。大小諍論。不異闘乱。或切鹿絹尺寸。或分米斗升。□□有陳平分肉之法。
其豪家之侍女。宿女下船之者。謂之□。亦遊得少分之贈。為一日之資。愛有俵絹絹之名。舳取登指皆上。九公之物。習俗之法也。雖見江翰林序。今亦記其余而巳。
(現代語訳にすれば、露骨な性描写になるが、時は千年以上前である。日本原住民を奴隷化し、衣食住に不自由しない貴族たちの最大最高の楽しみがSEXだった事を理解されたい)
「遊女記」の原文は御覧の通り、555字の短い文章だが、日本の純粋原住民(サンカ部族)の民俗学の側面からは誠に貴重な存在なのである。
【注】このサンカ部族は独特の文化(原始共産主義ともいえる、統治されず、統治せず、相互扶助の精神)を持ち、文字は持たず、アイヌのユーカラのように、口伝えで文化を伝承してきた。
中国や朝鮮の外来勢力と交わらず、純粋日本民族の血統を継承してきた。太古から、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸時代、明治、大正、昭和と生き抜いてきた。
昭和になって作家の五木寛之も彼らを「山の民」としてその小説「風の王国」に書いている。彼らの特色として、少子化が激しい令和の御代でも、多産系で、子供を五人、七人と産み育てている。
テレビで活躍している有名な、弁護士なども七人の子持ちで、彼もサンカの系統と想われる。
彼らは、浮気などせず、生涯妻を慈しみ、家族を大切にし働き者である。騎馬民族系や海洋渡来系に溶け込んで暮らしていた者もいた半面、山海、河川での生活者も多く、
自然と共生してきたため動物好きの者も多い。
彼らは、どんな時代にも時の体制、権力に属せず、江戸期にはどの大名や代官にも属せず、従って納税もしていない。
従って、権力側からは目を付けられ、昭和になってさえ、激しい「サンカ狩り」が行われ、捕まれば殺されもした。だから今でも、反権力精神が強く、忍耐強く剛直な人間が多い。
戦国時代というのは、それまで弾圧され、逼塞していたサンカ部族の台頭時期に当たる。
力の衰えた、大陸系の公卿や、守護地頭の荘園(米の採れる領地)を次々と奪い、武士や大名になった者も多い。だから公卿たちは忌々しがって彼らの日記に「下剋上」の言葉を残している。
越後の上杉、伊豆の北条、秀吉然り、そして最後に日本を平定した徳川家康もサンカの(葵族)出身なのである。
以下に判りやすく漢文を現代語に訳してみる。
山城の国、つまり今の京都府から出て、当時の与度津。現在は大阪府に入る淀の津から、淀川下りをして西へまる一日ゆくと河陽につく。旅をする者は山陽道、南海道、西海道の三方面にと別れる分岐点ゆえ、此処までこない事には何処へ行くにしても、次々の支流に掉さし進まねば河内の国へも入ってはゆけない。
この土地は皇室御用達、典薬寮の薬草栽培地でもあり掃部寮の大庭の圧もある重要な街道のかなめの地である。さて、その河内の国とは、高野新笠の御子が人皇50代に即位され、それから平城、嵯峨、淳和、仁明天皇さまの代までの祖国というか本貫地として、この遊女記が書かれる二世紀前までは尊貴な地とされていた。
吉川弘文館刊の「桓武天皇」の人物叢書には、河内に祀られてきた平野四神が桓武さまによって、正一位皇大神に昇格とでている。「その河内より摂津の国に入れば、神崎とか蟹島などの岬や小島が(住吉浦に続き入江にあるが)まだ人家など何処にも見るべきものはないのに、小舟にのって娼女が群をなし客引きの声がやかましく、
さながら谷間を覆う雲のごとく、風雨が水面を叩くがごとくに騒がしく聞こゆ」
(ここの地名を「江口」と、原文では「謂之江口」となっている。だから「舟びくに」とか、「船まんじゅう」と呼ばれるボートセックスギャルのタウンなのを、川の出口のように従来は当て字からとっての誤りで、
「江口の遊女」としてしまっている。だが、これは間違いである)
「辺り一面に水さえ隙間からみえぬ程の、女どもの小舟の大群に、釣り人も商いに通りがかった者も、その虜となってしまい、己が家のあることも忘れ、うつつをぬかす天下一の楽地なり」
(さながら東京の新宿歌謌伎町なみの扱いで、天慶の乱から一世紀の記述なのに、このことには触れていない)
「江口則観音為祖。中君□□□小馬。白女。主殿」と原文でなっているのは(ヨーロッパ各国が植民地獲得のため、先ずキリスト教の伝道師を先に送りこみ、住民を手なづけて、神の御名によって統一併合したり支配下においたごとく、
中華の隋から唐にいたるまでは墨染めの衣をきた「坊主」に地獄極楽の絵をもたせて、布教というより宣撫に日本列島へ派遣されていたのが実態。そして原住日本人より優れた鉄武器の権力によって定着した。
だから「観音」といった仏教用語が堂々と使われているのである。欠字の部分は伝わっていないが、「小馬」とか「白女」の文字に留意しなくてはならぬ。
馬は文字通り、中国系が住み着く以前に日本列島に入っていた騎馬民族のことで、彼らの民族色は「白」だったから、騎馬民族系の女を指すのである。
彼らは後になると源氏となり、その女たちの子孫が現代でも水商売のキャバレーやクラブでは「当店では源氏女しか置きませぬ」との看板もある。
そして店の女は本名は名乗らず「美香」や「こぶし」などの「源氏名」の名称を今に残こす元祖なのである。ここをしっかり把握しなくては意味をなさぬのである)
「蟹島則宮城為宗。如意。香炉。孔雀。三枚。神崎則河孤姫為長者。孤蘇。宮子。力余」
(これらは遊女の名だが、桂の里が皇室や貴族の御用カイト(開戸と書くが、戸を開く、即ち女の秘所の意味)とされ、騎馬民族の娘に初潮があると、白鉢巻をしめさせ伴ってゆき、この娘もこれより御用にたてますと挨拶に伺候し、
30歳の御裾ご遠慮の年齢までは、御所の方たちの意のままにセックスを奉仕した。停年となって奴隷の男の中より相手を選び、世帯をもてる特別の御仁慈を賜ったと『桂記』にあるし、今は「生駒」の地名だが、
かって『夷駒』とあて字だった昔は、やはり同じような藤原公卿の御用達のカイト地域だったのである。それゆえ昭和の20世紀になっても花街となり、『生駒は悲しき女まち』といっか流行歌さえ、歌われる)
つまり11世紀には、蟹島が、当時の王朝人のセックスランドだったことを判らねばならぬ。さて香炉、孔雀、三枚を、島の地名と解釈している考証もあるが違う。どうも書きにくいのだが、
現代の俗語で、女性器の機能を、キンチャク、ミミズ千匹、三段底といった、セックス形容の中国的表現なのである。
と言うことは、多くの妓たちの中でも、持って生まれた名器の者らだけは、恭じけなくも御用を拝していたというのである。しかし女体の深奥部は、年増になったからといって、生れつきゆえ変化することはない。
だから30歳の停年になって蟹島の御用カイトから解放されても、一人の男にだけ堪能させるのは勿体ないと、神崎へ移って博愛を衆に及ぼし、名器の持主は今でいえばスター扱いで、「河孤姫」と呼ばれ、「孤蘇」とか「宮子」として売れっ妓は賞讃された。
孤蘇とは蘇民系の裏書きでもある。今も平泉の松下神社や祇園の八坂神社で騎馬民族系の末孫に配る六角円柱には『蘇(祖)民将来人也』の文字が、昭和になった今日でも、護符には明白に昔のままの左書きだが現存する。
「力余。小児之属。皆足倶戸羅之再誕。衣通姫之後身也」の解明には「デカスケにタコキンチャクなし」と書かれている『春本壇の浦合戦』の一章を考えるとよく解る。
作者と伝承されている頼山陽が漢学者だったことを思えば、これはまさしく唐の艶書の字句で、「小妻南京」(コツマナンキン)と故川上宗薫は一連のポルノ作品に書いているが、
女体は、小児のごとき小柄な方が、力あまってその入口を固く締めつけられるという意味と、ポルノ的解釈をすると理解できる。
当時の王朝人は唯そればかりが趣味なので、こうした解釈になるのである。
「倶戸羅」とは、今は歓喜仏の像になっているが、陳と中国がよばれた六世紀に、チベットから貢進された小児のような女奴隷で、その女性自身は、蛸壺の香炉か、ミミズ千匹のごとく孔雀の羽でシゴクような感銘を与え、
挿入すると次々と曲がり三段底になっていたとの伝説上の万能型女体の意味。
平安絵草紙の「衣通姫」は肌が美しく、衣を透いても、透るような美女というが、舟の妓達は、鑑賞的植物型ではなく、実用満足型で肌も串し分のないモチ肌の美女たちであったとする説明なのである。
よって上は公卿や相国とよばれる豪い身分の御方から、密かに庶子の民とされている徒輩の者までが、スペシャルを堪能しにくるので、彼らに慈愛を万遍なく小舟の中で、名器を味わせたり、
妻や妾に請われる者もでる程で、男たちに極楽を教えまくったゆえ、これには賢人君子といえども、この途ばかりは格別で、南は住吉から西は広田までの小舟の女たちは稼ぎに稼ぎまくった。
よって女たちは百大夫こと道神とよぶのを祀って繁昌を願かけして賑わったものの、御所御用の古風の習俗は続けたゆえ、長保年間、つまり藤原道長の娘が中宮として御所入りし、西暦千年には、
畏れ多くも東三条の宮さまが、住吉社や天王寺詣りを口実にして此処で遊興なさる。
藤原道長の禅定大相国も、小観音とよぶコツマナンキンの名器の美女を、その権力にものを言わせ身受けした。ついで30年後の長元年中には、恐れ多くも時の東門院親王さまが、名器の女かいに赴かれて、
この際も、宇治の大相国さまが味見した中の極上の中君という名妓を献納している。
それから40年後の延久年間には、時の至尊人皇第七十一代後三条さまが、やはり寺詣りと仰せられて、ここへきて現世の極楽を味われ遊ばしたが、この時もう後の源氏系の白木(新羅)系の社には、
共に討伐をうけた高麗が「狛犬」の置き物として入口に二頭ずつあったという。
「並舟而来。人謂神仙。近代之勝事也。相伝曰く、雲客風人の公卿は、遊女をみな賞味す」ということは、つまり女たちの選りすぐりの名器を、雲上人だけが独占してしまって、その随身の者らも、
余りの神崎人の妓たちと遊び惚け、鼻毛をぬかれてしまい、まるで酔生無死の男冥利であったらしい。
もちろん名器をもった女は限られていてそんなに数は居ない。だから女の奪い合いから大小の口論が絶えなかった。また、つかみ合いのこぜり合いも激しく、
闘乱も多く、女をとられましと抜刀しての実力行使も多いかった。むろん当時は、貨幣通用の時代ではないので「鹿布絹の反物や、米ならば貴重品で二升が相場」といわれるが、名器は、陳平の肉を分つ方法というので、
お客が多くてさばき切れなくなると、せりで供人の絹地とか「九公の物」とよばれる公家が、唐本国より取りよせた物まで惜し気なく、江の口へ運ばれ小舟で運び去る。
神埼のごとく西へ下る官人だけの通りすがりの旅客とは違う。
これを「女遊び」の記述だけとみてはならない、夥しく何処から水面を覆うごとくにまで、何故に性業者に多くの舟が利用されたかなのである。
これは、いわずと知れた瀬戸内の三島水軍や来島や能島水軍の舟なのである。
ということは、中国で唐を倒した契丹系(日本史では宋)がオカミに対抗したというので「勝てば官軍、負ければ賊」の古来よりの諺のごとく、圧迫されても「瀬戸内性業」とかってサンカ娘をよりすぐって、
蟹島や神崎にくりだしていたのは何故かということになる。思推するならば、白サンカ(原住民系騎馬民族)と海洋民族系の赤サンカが、オオモトさま(サンカの棟梁)の指示で、女の武器にて公家の内情をさぐりだしたり、
地方へ出される官吏から情報を聞き出すため、よりすぐりの女たちが挺身隊に、集められてきた例証といえよう。
(江戸期になってさえ、徳川幕府のサンカ弾圧政策を探るため、私設の売春宿として、サンカ信仰の一つである根津権現の中に「根津遊郭」を作り、幕府に上納金を納めていた。
ここは「根津の昼遊び」として有名で、サンカの子女の中でも美人を選りすぐり、昼間だけの営業で、武士たちにも、吉原を凌ぐ大変な人気で繁盛した)
という事は裏返せば山陽道も南海道も匿れサンカが、みちあふれていたのを、女たちが同族を守るため、海賊衆(水軍)の小舟を集められるだけ送らせ、サンカ側の軍資金を集め、京御所側の情報をとって、
サンカ勢力を安全に温存するため、討伐軍が入りこまぬように庇っていたものと思われる。