いろは歌留多から見える日本史の真実 男は四人の敵あり サンカ いろは コトツ唄 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

サンカ いろは コトツ唄

 

いろは歌留多から見える日本史の真実


 「男は四人の敵あり」

この唄は、若狭地方に住むサンカたちから出たものである。

仏教派が、無理やり転向させた赤系の海洋渡来民族と、白系の騎馬民族、黄系の雑色と言われた土着系の民族を、それらを指揮する、
墨染衣を着た、黒坊主の四種類の者たちは、若狭サンカたちの娘を輪姦し、殺す輩ゆえ、見つけ次第殺してしまえという、サンカには珍しい過激なコトツである。が、あくまで転向しない赤系、白系、雑色系の者たちはこの限りではない。

 が、江戸では「しちや」とよぶ質屋を、西では今日でも「ひちや」と堂々と看板を出して商売をしているくらいゆえ、これが今となると「男は外へ出ると七人の敵がある」とも、される。
というのは京の御所側の延暦寺は、奈良の興福寺は平重盛に荒されたが、比叡山上の天険へ巧く逃げこんで被害がなかった法相経宗派の残党の坊主らは勢力を増し、
別派をたてて、「六道講式」というのまで今でさえ伝えている。恵信僧都作といわれるが、後朱雀帝の頃に、「地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道」の六道の間で生死をくり返し苛められるのを、
伝来の阿弥陀仏の仏恩に縋れば救済されて、エタ非人とて極楽往生できるという讃歌を、声明(しょうみょう)とよぶ古代インドからの仏教典礼音楽と、地獄極楽の渡来絵図みせて斉唱をさせた。

 なんせ延暦寺は平氏憎さに木曾義仲が攻めてくれば陣所に貸し、戦国時代には上杉謙信らサンカシノガラ(隠れサンカ)領主の奉納銀を狙って「七福神法」を弘め、
だから謙信も七福神の内の「毘」を毘沙門さまの旗と馬印にし多額の銀を奉納した。それゆえ仏教側の巧妙な[七信仰操り]を敵視せよとの戒め唄なのである。
ちなみに「七人の敵」という意味は、七福神の敵ということで、即ち仏教のことである。

 

「割れ鍋に、とぢ蓋」

これは、一般にも広まって、現在もよく使われている。
その意味として、破損した鍋にもそれ相応の蓋があること。どんな人にも、それにふさわしい伴侶があることのたとえ。また、両者が似通った者どうしであることのたとえ。
[補説]「綴じ蓋」を「閉じ蓋」と書くのは誤り。「綴じる」は縫い合わせるの意で、「綴じ蓋」は修繕した蓋のこと。 となっているが全く意味が違うのである。

江戸では、鋳物の鍋が、今の埼玉県から入ってきて広まった。しかし、これは高価だったため、一般では土鍋である。だが、火力が強いと土鍋はヒビ割れができやすく、
上や斜めから物が落ち当っても毀れやすい。だから、それを防ぐために、土鍋には大きな蓋をするしかない。土鍋に細いヒビ割れが入って鍋の汁が滲みでて、火の上で毀れてしまう用心である。
 今では前記のように安易に、割れ鍋しかもたぬような貧乏人には、女であるだけが取り柄のそれ相応なゲスなひどい面相の女でも恰好で釣合がとれる。だから身分相応がなによりも良い、というよう
な釣合いを諭ずように使われている。
しかし昔の「夷也」が恰好よく「稲荷」とされる江戸では、まったくこの意味合いは、今の解釈とは違うのである。これはサンカを侮蔑するための歌なのである。


 さて髪剃法師という職業は、仏僧にはなれぬ原住民系の私僧のことである。仏教徒が死ねば、寺の墓場に土葬として埋葬される。
しかし、日本原住民は拝火教徒が多いから、死ねば火葬して、骨は壺に入れて神棚に収める風習だった。
だからこの髭剃り法師は、死人の着物を、礼として火葬の野辺の送りの後に貰うのが当時の習慣だった。
そして、この時、土でこねたカマドで、鍋釜の火入れをさせ、土器や鍋をば拵えたものである。

江戸期に入っての鋳物の鍋も、やはり砂中に型をこしらえて砂鉄を熔解したのを流しこんで作る。火花の散る危ない火仕事ゆえ先住の原住民たちの八の限定職種とされていた。
村や町の鍛冶屋と呼ばれたが、いつも火を扱う危険な作業ゆえ限定居住地の端くれに居らされていた奴隷使役であった(大正時代貸本屋のベストセラーの「明治大正犯罪実話」の反サンカ物で、
彼らを退治させる為の本には「鋳掛松」の人名さえ、はっきりと出てくる程である)。
ヒビ入りの煮たきする土鍋や鋳物鍋の上から、ぼろでもよいから割れた閉じ蓋でものせれば、どっちもどっちもの似合いで巧く火にかけられると解釈される。

 しかし実際の意味はヽそんな常識的なものではない。はっきり言えば江戸以東北においては居付きのサンカが多く住んでいて、彼らの夫婦生活というのは、一般の交合とは違って、
元気のなくなったヒビが入ったような心許ないヨボヨボの割れ鍋みたいな夫からでも、今の内に子種をとっておこうと女房が上から被さってゆく。
今でいう「女上位」の性交形態である。
これだと、男は下でじっとしていても、勃起さえ持続していれば、女がかぶさってトジ蓋となる。
口で咥えて元気をすこしでも出させるなり、握って己れに当てがって、トジこんで、ぬけ落ちぬよう、確り締めっけ、子種をとりこもうとぴったりくっついて、巾着のように締め付けるのである。

しかし、「やつらの女はスキモノだ、もう使いものにならぬ夫の一物を脚絆みたいにぴったり捲きつかせ子作りするため必死猛志やっている」とセブを覗き見した者から、好色夫婦と誤られ、
それが一般に広まった。だが、まさか子供作りの為の目的だけのものとは説明できなかった。
故にごくあたり前の釣り合いの教訓のごとくにしただけの話である。

色気違いでもないのに、民族の純血種を一人でも多くとの行為を性愛とか肉欲というより、神聖な行為と、シノガラはしたいようである。
昭和になって、サンカ研究家の三角寛が関東各地のセブリを回って、彼らの生活状態を調査した。年齢、食べ物、子育てなど、生活全般にわたり詳細なものだが、
中の項目に、それぞれの夫婦の年齢と、性交渉の回数があり、二十代は日に三回、四十代五十代でもほぼ毎日とある。
七十代でも週に三回とあるのに、三角寛は驚いたと書いてあるが、確かに性交はお互いがその気にならなければ、こうはゆかぬから、男女とも精力は強い。

「サンカを殺さば殺せ。吾ら種族の血脈を絶やさぬように、補充の子供はムレコの夫婦が、セブで汗水流して昼夜つくり続けろ。純粋子種を産めよ増やせよ」のオオモトさまの訓辞がムレコたちにも掟になっていて、
SEN、(千、仙、浅、先、銭、洗、箭、尖、餞、賎、泉、)のつく地名は、名古屋市内だけではなく各都市にも多く、今はチグサ(千種)と呼ばれている。