塩野七生さんの最新刊ギリシャ人の物語 1 を買いました。 彼女曰く、もうあと2-3作でしょうと。 ローマ人の物語は世に出すのに1年1作で12年間かかりました。
貧しい老人としてはそれをハードカバーを買うのをガマンして文庫本がそろう、それも中古を混ぜてのことですが、一気に買い読みました。
最近はこちらの人生も残りすくなくなったので、どちらが早いか駆け比べの状況です、もう、そんな余裕はありませんのでハードカバーの新作を買っています。
ローマ人の大作を読んでいたころには、まだ、ブログをやっていなかったので、書くことがいっぱいあっただろうと思います。残念です、今となって読み返してブログにあげるには難しいです。
2015-12-27
ご注意
七生さんを七海と記しているところ多数ですが、彼女は若いころにエーゲ海などをヨット周航したこと、爺爺が船乗り稼業でヨット乗りであったところから意図的に変えていると言いたい。 だがこれは転換ミスで大雑把な性格で気が付くのが遅れた言い訳です。
テミストクレス
前524・520-前459・455
テミストクレスによる対ペルシャ戦争の戦略とその実現がなければ、その後の歴史は大きな変更をよぎなくされていたでしょう。
アテネに限らず他のポリスでも市民による重装歩兵による主な軍隊が編成されていました。彼はそれを海軍を主力とした編成に変えることにより、サラミスの海戦に勝利することになる。 大陸軍国のペルシャは制海権を失い、ギリシャへの侵攻ル-トと兵站を無くし攻めてくることを出来なくさせました。
明治の元勲が海軍を充実させ日本海海戦に勝利して、陸軍国のロシアの膨張を抑えたことと酷似しています。1500年の時間の後でしたが。
ペルシャとの方針には、外交で処理すればよいという富裕層の穏健派と下層の市民の支持を受けている急進派が対立していました。テミストクレスは陶片追放を利用して巧みに穏健派を排除してギリシャ一の海軍を造成しました。 いざペルシャとの戦争の際には、追放した反対派をアテネに戻すことを許して、戦闘に加える柔軟さを示しました。
ここが民主制のいやらしさ・嫉妬心ですが、成功に導いた彼を、今度は同じ陶片追放に処してしまいます。亡命生活が続き最後はペルシャの地方を任されることになり、そこで死亡しました。
テミストクレスは他人の思いつかないことばかりをやり、それでいて実績を挙げた人だったのである。
サラミスの海戦 前480年9月
年表
前490 第1次ペルシャ戦役・マラトンの会戦 ミリテイアデスの作戦奏功
前489 ミリテイアデス対立勢力に告発される。負傷で死亡
前487 テミストクレス、陶片追放でヒッパルコス追放
前486 同様にメガクレス追放
前485 穏健派に軍船の新造を阻まれる
前484 クサンテイッポスを陶片追放
前482 アリステイデスを陶片追放。200隻の軍船新造始める
前480 ストラテゴス・アウトクラテ-ルに就任。
第2次ペルシャ戦役始まる。
8月 テルモピュレ-の戦いでスパルタ兵300名玉砕。
テミストクレスがアテネの市民を強制疎開
9月 サラミスの海戦でギリシャ海軍勝利。
前479 プラタイアの会戦で勝利。スパルタのパウサニアスが指揮
サモス島奪還、セスト奪還、海峡の船橋を切断。
前478 テミストクレス、外港ピレウスとアテネを城壁で続ぐ。
前477 パウサニアス、ビザンテイオンを奪取するが戒告。
アテネを中心とするデロス同盟ができる
前471 キモンによりテミストクレスが今度は陶片追放される。
パウサニアスが冤罪で逮捕され死亡。
テミストクレスがアリステイデスに召喚されるも、無視して亡命生活。
前466 ペルシア新王からマグネしアの長官になる。
前459 テミストクレス死亡
2017-5-5
アテネ民主制の歴史
ギリシャ人の物語Ⅱ 塩野七生より
民社性の成熟と崩壊
ローマ人の物語でも全作そろえてから読み始めたのですが、こちらの年を考えるとそんなに待ってはおれずに、今作からは年に1回の出版に合わせて購入しています。Ⅱまで読み終えました。
民主政にはすぐれた指導者があってこそ成り立つもの、それを支える中産階級があってこそのものだと思えます。 民衆の嫉妬心も恐ろしく成功をもたらしたリ-ダ-は今度は疑いだして追い出したり殺してしまいます。
まずは 「アテネ民主制の歴史」です。
ソロンによる民主制への第1歩、ペイシストラストによる経済発展、クレイステネスによる民主制への完全な移行、テミストクレスによるペルシャの撃退、そしてペリクレスによる民主制の完成を経た。
年表
紀元前
594年 貴族政から民主政へ、債務による奴隷化の禁止、資力による市民の権利と 義務制度はじまる。ソロンの改革
546年 ペイシストラトスによるク-デタ-起こる。彼による統治と改革が始まる。
508年 クレイステネスが一般市民の国政参加を認める。
480年 テミストクレスサラミスの開戦でペルシャに勝利
477年 デロス同盟が結成
446年 ペリクレスがデロス同盟をアテネ覇権に改革
420年 アルキビアデスが司令官に当選、4国同盟提唱
413年 シラクサでデロス同盟軍大敗北
411年 民主政を廃止、寡頭政制に移行、 410年民主政に復帰
405年 ヘレスポンテス海峡スパルタ軍がアテネ海軍を壊滅させる
404年 デロス同盟崩壊、アテネガスパルタに全面降伏
2017-7-28
アテネ指導者の栄光と落日
塩野七生さんが「ギリシャ人の物語 Ⅱ」で「政体がどうかわろうと、王政、貴族政、民主政,共産政と変わろうと、今日に至るまで人類は、指導者を必要としない政体を発明していない」と述べています。その指導者を生み育てるのは難しいものと言えます。
ロ-マ時代なら時代を変えるような戦闘に勝利した将軍は皇帝になるのですが、アテネでは凱旋帰国したとたんに、アテネの政体を壊すのではという懸念が生じて、濡れ衣でも、いいがかりでも告発されることが多くなります。僭主になるのを防いだつもりがアテネの存在をこわすことになり自業自得の結果となる印象です。 ギリシャ人の固有の特性が民主政体を生み、またそれにより滅亡したのではないでしょうか?
紀元前 | 栄光・業績 | 地位 | 落日・追放 | |
---|---|---|---|---|
6C頃-527 | ペイシストラトス |
サラミスの英雄 ク-デタ-成功 |
北ギリシャ撤退 | |
6C後半 -5C前半 | クレイステネス | 一般市民の国政参加承認 10の行政区に分ける 市民集会が最高議決機関 |
アルコン | 亡命 |
550-455 | ミリテイアデス | マラトンの戦い勝利 | 将軍・ ストラテゴス |
民衆への欺瞞で告発 高額の罰金刑 |
?524-455 | テミストクレス |
海軍の増設 サラミスの海戦勝利 ピレウス港への外壁接続 |
アルコン | 陶片追放される ペルシャへの亡命 |
450-404 | アルキビアデス | ペロポネソス半島へ進軍 4国同盟提唱 スパルタ海軍に勝利 |
司令官 陸海総司令官 |
神像破壊嫌疑告発される スパルタ亡命 暗殺 |
2017-8-30
ペリクレス
塩野七生さんによるペリクレス時代・アテネの黄金期 紀元前461年から429年
紀元前495-429年
アテネの黄金期はペリクレスの時代です。繁栄は、努力と苦労を伴うものである。その期の性質は創業者のものとは違う。ペリクレスの30年間もその連続になるのである。
2代目にあたるペリクレスの課題は
1. アテネの民主政を機能させること。
2. ペルシャ戦役で勝利により獲得したエ-ゲ海の制海権を維持すること。
3. ペルシャ戦役の勝利で得た果実であるデロス同盟を堅持すること。
歴史家ツキデイデスがこの時代を「形は民主政体だが、実際はペリクレスが支配していた」 ペリクレスは33歳で、年に1度のストラテゴスの選挙に30年間に渡って当選した。アテネでは、市民集会が最高意思決定機関である。 彼が自分の意思を通すためには、名門の地位も資産家も役に立たずに、言葉を駆使しての説得力で30年も勝負しなければならなかった。 言葉を使った彼の説得力は、視点を変えれば事態もこのように見えてくると示したことにあった。我々の役割は国民の要望をくみ上げてそれを実現することにあるとは言わずに、これらの理由でこの政策が最も適切であると自分の考えをはっきり示す、この政策の可否は君たちにあるのだと明言した。そして最後には、市民は常に将来の希望を抱いて彼の演説を聞き終わる。 彼の演説集があれば読みたいものです。 政治家の言葉が空洞化している日本には耳の痛いところです。
彼は、公職につく市民には日当を払うという法案を提出して、日々働くことで家族を養っていける層にも、抽選で公務員になることになっても、それにより公務員になることを辞退しなくてよくなった。ペリクレスは権力欲しさに票を国のカネを使って買った、と反対されたが。彼の政治哲学はアテネ市民は誰でも、政治・行政・軍事にかかわらず、国の公務を経験すべきであることであり。 また、アテネは海軍によってなり、その戦力は3段層ガレ-船による。その1隻200人の乗り手のうち漕ぎ手は170人を要した。他国はそれに奴隷を当てたが、アテネは市民がになった。それゆえに漕ぎ手は「練達技能集団」になり、海軍の強さの根源であった。その漕ぎ手に対する生活保障の制度化も、公務員にたいするものと同じようにペリクレスが行った。アテネの労働者階級の生活保障をすることで安心させた。これが民主アテネの地盤つくりであった。
ペリクレスの死の報は、アテネ市民にはさほどの感慨もなく受け取られた。国葬にもならなかった。彼は、何事につけても国民に寄り添うとか要望に耳を傾けることもせず、叱りつけてリ-ドするのみであった。彼は運命は神々が定めるものでなく、人間が切り開くものと言い続けてきた人である。こうも貴族的でこうも非民主的な男によってアテネの民主政は、それ以前にも以後にも実現しなかったほどに機能できた、彼の死がアテネにもギリシャ全体にも終わりの始まりになるのであった。
2017-9-1
ペリクレスの戦没者追悼演説
ペロポネソス戦争第1年目の追悼演説はペリクレスが行った。下記に記したものは、塩野七生の「ギリシャ人の物語Ⅱ」からです。2500年後のヨ-ロッパの高校の教科書に載っているそうです。
パルテノン神殿 ペリクレス立案
「我々のアテネの政体は、我々自身が作り出したものであって、他国を模倣したものではない。名付けるとすれば、民主政(デモクラツイア)と言えるだろう。国の方向を決めるのは、少数の者ではなく多数であるからだ。
この政体下では、すべての市民は平等の権利を持つ。公的な仕事への参加で得られる名誉も、生まれや育ちに応じて与えられるものではなく、その人の努力と業績に応じて与えられる。貧しく生まれた者も、国に利する業績をあげた者は、出自による不利によって名誉からはずされることはない。
我々は、公的な生活にかぎらず私的な日常生活でも、完璧な自由を享受して生きている。アテネ市民が享受している、言論を始めてとして各方面にわたって保証されている自由は、政府の政策に対する反対意見はもとよりのこと、政策担当者個人に対する嫉妬や中傷や羨望が渦巻くことさえも自由というほどの、完成度に達している。 とは言っても市民たちの日々の生活が、これら渦巻く嵐に右往左往して落ち着かない、というわけではない。
アテネでは日々の労苦を忘れさてくれる教養と娯楽を愉しむ機会は多く、1年の決まった日に催される祝祭や競技会や演劇祭は、戦時であろうとも、変わりなく実施されている。 そしてこのことに加えて次に述べることも、我々の競争相手の生き方の違いを示す例でもあるのだ。
かの国は外国人を排除することによって国内の安定を計るが、アテネでは反対に、外からくる人々に対して門戸を解放している。他国人にも機会を与えることで、われらが国のより以上の繁栄につながると確信しているからだ。
子弟の教育に関しても、我々の競争相手は、ごく若い時期から子弟にきびしい教育をほどこすことによって勇敢な気質の持ち主の育成を目指しているが、 アテネでは、かの国ほどは厳格な教育を子弟に与えていない。それでいながら、危機に際しては、彼らより劣る勇気を示したことは1度としてなかった。
我々は、試練に対処するにも、彼らのように非人道的で苛酷な訓練の末に予定された結果として対するのではない。我々の一人一人が持つ能力に基づいての、判断と実行力で対処する。我々が示す勇気は、法によって定められたり、慣習に縛られるがゆえに発揮されるものではない。一人一人が日々の生活をおくることによって築き上げてきた、各自の行動原則によって発揮されるのだ。 現在諸君が目にするアテネの栄光と繁栄は、これら多くの無名な人々による成果であり、これこそがこのアテネにふさわしい、永遠の命を与えることになるのである。
われわれは美を愛する。だが節度をもって。
われわれは知を愛する。しかし、溺れることなしに。
われわれは、富の追及にも無関心ではない。だがそれも、自らの可能性を広げるためであって、他人に見せびらかすためではない。
アテネでは貧しさ自体は恥と見なされない。だが、貧しさから抜け出そうと努力しないことは恥とみなされる。 私的な利益でも尊重するこの生き方は、それが公的な利益への関心を高めることにつながると確信しているからである。私益追及を目的に行われた事業で発揮された能力は、公的な事業でも立派に応用は可能であるのだから。 このアテネでは、市民には誰にでも公的な仕事に就く機会が与えられている。ゆえに、政治に無関心な市民は静かさを愛する者とは見なされず、都市国家を背負う市民の義務を果たさない者と見なされるのだ。 これが、諸君が日々目にしている、ギリシャ人すべての学校と言ってもよいアテネという国である。 戦没者たちは、このアテネの栄光と繁栄を守るために、その身を捧げたのであった。
この人々の尊い犠牲に国家が報いることは、その犠牲を心に留め続けることと、彼らが残した遺児たちの青年に達するまでの教育を、経済面で保証することぐらいしかない。 だが、アテネ市民全員に約束出来ることは、まだ一つある。 それは、戦時とて海陸双方の戦力を増強せざるをえないとはいえ、その一方では市民の日常生活が以前と変わりなく続けられるよう、全力をつくす、ということだ。なぜなら、この双方とも成し遂げてこそ、アテネは、アテネの名に恥じないポリス・都市国家であることを明らかにすることになるからである。
さあ遺族たちはまだしばらくの間、肉親を失った哀しみにひたるがよい、だが、その後は家路につかれよ。 他の人と同じように」
以上 ギリシャ人の物語Ⅱ 塩野七生さんによる
2017-9-3
アルキビアデス 紀元前450-404年
アテナイの没落 塩野七生さんによる
スパルタにあるモザイク画
ウイキでは衆愚政治を代表するデマゴ-グと記されている。アテナイの滅亡は彼の責のようにも書かれています。また、彼は、たぐいまれなイケメンであったようで、亡命中にスパルタ王妃と・今はやり言葉で・一線を越えたと伝わる。
指導者は他者より秀でていると自負するからこそ、他者たちをリ-ドしていく気概を持てるのである。だが、 無知を知ることは、重要きわまりない心の持ちようであるのは確かだ。ソクラテスは他者より自分のほうが優れていると思ってはならないと教えた。しかし、そう思ってこそできることもあるのだ。「羊」であると思う人ばかりでは、誰が羊の群れを導いていくのでしょう。
アテネの没落は紀元前429年にペリクレスの死去により始まる。民主政に必須な適切な指導者を欠いたのが原因です。衆愚政も民主政もその主体は衆にある。最高決定機関は「民・demo」にあるという点はそのどちらにもある。銀貨の表裏のようなものです。指導者を間違えると、民衆を心の奥底に持っている漠と感じる将来への不安を、煽るのが巧みな扇動者が治める衆愚政治になる。
彼の登場した時代は,「ニキアスの平和を代表する良識派・穏健派」と「規制の概念から自由であり良識あると自認する人々の偽善を嫌悪するソクラテスの弟子で演説の上手な彼」と2分された政治状況であった。民衆は両派の間を揺れ動いた。彼にとっての不幸は始めたことを続けさせ、終わらせてくれなかったことにある。彼の悲劇に終わった人生はペリクレスのような力量がなかったゆえでしょう。 ドラマのような華麗で変遷にとんだ人生であったのは事実です。 アテネは彼を使えればもッと繁栄は続いた。
アルキビアデスの年表
紀元前 420年 ストラテゴス・司令官職に当選。アテネ、アルゴリス、エリス、アルカデイアとの4国同盟を提唱
419年 再選され、ペロポネソス半島西部に進軍
418年 4国同盟とスパルタ衝突、マンテイネアでスパルタに敗戦
417年 陶片追放制度廃止、アルキビアデスはオリンピックで戦車競走で1-3位独占。
416年 シチリア遠征を提唱し可決。
415年 ヘルメス神像破壊事件が起き嫌疑かかる。捜査中での身で出陣、カタ-ニャで主犯とみなされて逃亡。
413年 デロス同盟軍大敗で壊滅
412年 亡命してたスパルタでペルシャの外交使節として行き、そこでペルシャの軍事顧問になる。デロス同盟離反の動き
なかで、サモス島に上陸してそこの海軍を支配下におく。
411年 アテネ民主制を破棄して寡頭政にな移行。 アテネ側に復帰なる。
410年 アテネ海軍を率いてスパルタ海軍に勝利。 民主政に復帰。
407年 アテネに帰還して、陸海軍総司令官になる。
406年 海軍を率いてエ-ゲ海東方に出発、スパルタ海軍と引き分ける。扇動者により解任される。マルマラ島へ亡命
405年 アイゴスポタモイに現れ戦術を進言するも拒否された。アテネ海軍はh壊滅的敗北を帰す。
404年 暗殺された。アテネがスパルタに全面降伏
2017-9-5
ソクラテス と アルキビアデス
塩野七生さんのギリシャ人の物語Ⅱより
紀元前469頃―399年
ソクラテスは重装歩兵としてアテネ市民の責務である兵役にも充分以上に果たした人である。ソクラテスに体現される「哲学」は、良く生きるには必要な何かを提示し、それを人々に気がつかせることで、役割を終わる。 西洋哲学はギリシャ哲学に始まり、ソクラテスから真に始まる。彼は何も書き残さなかったので、42歳差のあるプラトンの叙述による。
「ソクラテスの弁明」を読んで半世紀すぎた人生を送ってきた小生は、今だに「無知の知」には至らず「無知の恥」を感じるのみである。
アスパシア
ペリクレスの愛妻アスパシアのもとに若いソクラテスは入り浸っていた。アルキビアデスは父親代わりのペリクレス宅に繁々と出入りしていた。アスパシアは親切に向かい入れて親代わりになっていたといわれている。ソクラテスはそこで彼を知り、アルキビアデスを将来のアテネの指導者として最初に見抜いた。 少年愛が盛んなこの時代ソクラテスも美青年に執心した逸話もある。アルキビアデスは彼を誘惑して一夜を共にしたが父親のようであったと彼の望むようにはならなかったという。
アルキビアデスがアテネ市民の不安を払拭させるために、自費で参加したオリンピック競技に優勝した後のころ、アガトン宅で行われたプラトン作の「饗宴」がおこなわれた。ソクラテス54歳アルキビアデス34歳のとき。その作品のなかでのアルキビアデスのソクラテス賛歌が以下のようである。
アルキビアデスによるソクラテス賛歌
「親愛なる友人たちよ、ソクラテスという人は、手にした笛の音だけで人間を迷わせる、森の神シレヌスに似ているのだ。いや、ひしゃげた鼻と飛び出した目玉といつも半開きの大きな口から、サルテイス神の一人に似ている、と言ったほうがよいかもしれない。マルシアだって、アポロンに挑戦したくらいに笛の名手であったのだから。
しかし、彼ら二人は楽器を使って人々を魅了するのだが、ソクラテスが使うのは言葉だけ。笛の妙なる音色に助けられなくても言葉だけで、同じ効果を得てしまう。なぜなら、ソクラテスの話を最後まで聴いた人は、茫然自失して金縛りにでもなった想いになってしまうからだ。
ペリクレスの演説を聴いていると、その巧妙さには感心させられる。だが、心を乱されることまではない。それがソクラテスの話を聞いた後では、涙があふれてきて止まらなくなる。そして、自分は何をやっているのかと、常に自分に問いかけねば済まない想いになってしまうのだ。
僕がアテネの国政に没頭するのも、このシレヌスの声を聴くまいと耳をふさぐことで彼から逃げるためで、彼のそばに居続けたままで一生を終えたくないからだ。
僕は今まで、他の誰に対しても、自分を恥ずかしいと思ったことはなかった。だが、この人の前では、恥ずかしいと思ってしまう。 なぜなら、この人が僕に教え説くことの重要さはわかっているのだが、民衆がわたしに求めるのはそれとは別物であり、そのことの大切さもわかっているので無視できないからなのだ。
おお、この人が地上から姿を消してくれたらと、何度願ったことだろう、だがそうなれば、最も苦しむのは僕自身なのだが。 君たちだって、ソクラテスとは親しい仲なのだからわかっているはずだ。
彼が、美しい若者とみれば愛し、その付きまとって離れなくなるのも知っている。その彼自身となると醜男だがね。それでいてソクラテス自身は、地位も金にも無関心ときている。
だが君たちは、そのッソクラテスの中身を見ようとしたことはあるのか。 僕は一度だけ見たことがある。そこは、神々の棲む世界にも似て黄金色に光り輝き、その世界には、彼と彼の教えに従う者しか入れないのだ」
ソクラテスはアルキビアデスのこともあり若者を堕落させたとか難癖をつけられ、毒を飲んで死ぬことになった。 アテネの凋落とともに。
2017-9-7
追記
図書館の貸出しカ-ドを作成して、プラトンの「饗宴」森進一訳を借りてきて読みました。それを選んだ理由は、20代の時に岩波文庫本を読んだ覚えがあるので、もう少し現代語訳のものが良かろうかとの判断でした。岩波のものは戦前の原板で旧かな使いのものがものにより販売されています。
ギリシャ神話に詳しくないので、その神のことを述べられるとエピソ-ドや由来も思い浮かびません。集中が続かず、年のせいにしておきますが、何とか読み終えました。 アルキビアデスのソクラテス賛歌のところは、上記のように塩野さんのものがありましたので、 分かったようなものです。
2017-9-9