本日は、全く違うところに行って見たくなったので、福井県にお邪魔してみました!
越前国といえば、曹洞宗の大本山がある、吉祥山永平寺 ですよね。
ちょうど紅葉を観ようと滋賀県マキノのメタセコイア並木を観に行ったのですが、思っていたのと全然違い少々落胆してたところ、「永平寺」と書かれた看板と矢印が目に入りまして、永平寺へと向かってみたのです。
 
※ 雪害で甚大な被害が年明けに出ようとはこの時は露も思いませんでした。

1214年に14歳で比叡山に登った道元ですが、天台宗において生じた疑念を解消させるべく下山し、建仁寺の栄西の元を訪ねますが既に亡くなっておられました。
その弟子の仏樹房明全に師事しますが、遂に師と共に渡宋、宋国禅宗五山の二位である天童山景徳寺31世の如浄に学びます。
只管打坐の禅を体得した道元は、1225年に如浄より印可を与えられ、1228年に帰国し建仁寺に入ります。
その後、伏見深草の安養院にて隠棲した後、1236年に深草に観音導利院興聖宝林禅寺を建立しますが、却って道元の評判が立ち始めたことから比叡山延暦寺より迫害を受け始めます。
鎌倉幕府2代執権北条義時の御家人であり、道元の俗弟子であった地頭波多野義重が、その所領である越前志比庄に招聘しました。
道元は応じて越前へ下向しますが、途中の近江朽木において領主佐佐木信綱に招聘され、1243年朽木の地に朽木興聖寺を開きました。
越前に入ると吉峯寺へと義重は招きますが、山間の奥まった場所にあったことから、1244年に里に近い場所に笠松峰大佛寺を開き2年後に吉祥山永平寺と名を改めました。
その後、後ろ盾である波多野氏の勢力が弱まると同じく寺勢も衰退し、数多の戦乱により焼失を繰り返しますが、皇室の帰依深く綸旨を賜り、また徳川家より1615年に永平寺法度が出され曹洞宗の各寺院は永平寺の家訓を守ることとなり、大本山となりました。
廃仏毀釈を経て、1879年に伽藍が焼失しますが再建や増改築を行い現代に至ります。
 
承陽殿
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釈迦三十二禅刹  禅語「積善餘慶」
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こちらも少し時期が遅かったのか、紅葉期は過ぎていて赤味は薄らいでいましたが、それでも鮮やかな黄色に染まった銀杏をうっとりと眺めることはできましたし、1995年に改築が終了した傘松閣には144名の画家が描いた230枚の豪壮な天井画に見惚れてしまいました。
 
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ランチは、古跡館りうぜん へ直行しました!
やはり永平寺に来たのなら、永平寺蕎麦!しかも手打ちはこちらだけということで、迷わずお伺いしました!
りうぜん蕎麦を頼み、少し太めのコシのあるお蕎麦と追加で注文した胡麻豆腐を満喫しました。
帰り道の途中、比良で天然温泉に立ち寄りました。比良山系を望む自然の中にあり紅葉を眺めながら露天風呂にゆっくり浸かることで、メタセコイヤのガッカリ感は雲散霧消しておりました。

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