水平社発祥の地へ、行ってきました。
 
奈良からおよそ1時間・・・のはずが大雨で電車が遅れに遅れ、2時間かけて、掖上駅へ。
無人駅です。
10分あまり歩くと、大きな看板がみえてきます。その後ろに見える瓦屋根が西光寺です。

水平社宣言を起草した西光万吉さんの生家です。この一帯は、人権のふるさと公園になっていて、万吉さんとともに、「柏原の三青年」と呼ばれ、水平社創立の中心メンバーとなった阪本清一郎さんと駒井喜作さんの家もありました。

川を挟んで向かい合うように、水平社博物館が建っています。

はるばる来たのだもの、全ての展示をくまなく、もれなく、しっかりと見ました。特別展示室も、ビデオコーナーも時間をかけてみました。

在りし日の万吉さん、清一郎さんの映像が観られます。はっきりいって、男前です。雄弁です。さぞかし、カリスマ性があっただろうと思います。お会いしたかったなあ!

 

よし、熱い思いは、確かに受け取った。私もバトンを受け継いだ。そんな気持ちで博物館をあとにした。

 

住宅街の一角、植え込みに隠れるように、水平社宣言記念碑がありました。

水平社宣言を改めて読んでみよう。辞書を引かなければ意味が分からない言葉もありますが、魂の声だ。しみじみと感じよう。

 

全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。

 長い間いじめられて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によつてなされた吾らの爲めの運動が、何等なんらの有難い効果をもたらさなかつた事實は、夫等それらのすべてが吾々によって、又他の人々によつてつねに人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間をいたわるかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際このさい吾等われらの中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者かっこうしゃであり、實行者であつた。陋劣ろうれつなる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臓を裂く代價だいかとして、あたたかい人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血をけて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印らくいんを投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠けいかんを祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦きょうだなる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、んなに冷たいか、人間をいたはる事がんであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃がんぐらいさんするものである。
 水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間じんかんに光あれ。

大正十一年三月— 1922年3月3日、京都市・岡崎公会堂にて宣言

 

どうですか。この言葉。すごい迫力で胸に刺さります。

 

川が流れています。住井すゑ原作の映画「橋のない川」はここだろうか。

 

充実した時間でした。ハンセン病と被差別部落と女性、LGBTの問題と根っこは同じ。私自身の問題でもあると改めて思ったのでした。

そして、新幹線の中でふと博物館のパンフレットをみて、気づきました。

 

「ファンタビューシアター」というのがあったのです。

「1922年3月3日の京都市公会堂にタイムスリップ。堂内が熱気に満ち、全観衆が感動に震えた水平社の創立大会に参加してみましょう。」

とあるではないですか。

がびーーーーん。

あまりに壁側の資料展示を熱心に見入ったばかりに、背中側にファンタジーシアターの入り口があるなんてこと、全く気付かなかったのです。

ああああああああーーーーーーーーー。

やってもたーーーーーーーーーーーー。

これが、この博物館のメインではないか。何故、水平社宣言のことがないんだろうなあ、と少し気になっていたけれど、ここに集約されていたとは。写真をみると舞台のようになっているではないか。がびーーーーーーん。_| ̄|○

創立大会に参加してみたかった。ああーーーーーー。

 

まあしょうがない。

前日、取材した隣保館の全国組織、全隣協の会長は言っていた。

「博物館は行くたびに、感じ方が違ってくるんです。何度も行かれるといい」と。

 

はい。そうします。もう少し部落差別を勉強してから、出直します。