喝(かつ) (臨済録)
喝とは禅門でよく用いられている「カーツ」という一種の叫び声であります。
禅門でこれが用いられ初めたのは唐代以後のことで、馬祖(ばそ)が百丈(ひゃくじょう)に対して放ったのがその最初であろうといわれています。
そのとき百丈は三日の間耳が聞こえなかったということです。
しかし最も盛んに用いたのは、なんといっても臨済であります。
『臨済録』をひもどくと、いたるところに「師、便(すなわ)ち喝す」とあり、今日では臨済の専売のようにさえ思われています。
ところで、ただ聞けば「カーツ」という同じ響きの一喝ではありますが、相手しだい、その時その場によって、いろいろと異なった意味内容をもっているわけです。
それを臨済は自ら四種に概括して述べておられます。
「師、僧に問う。有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は踞地(こじ)金毛の獅子の如く、有る時の一喝は探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は一喝の用(ゆう)を作(な)さず。汝什麼生(そもさん)か会(え)す。僧擬議(ぎぎ)す。師便(すなわ)ち喝す」(臨済録)
これは「臨済の四喝」といわれているものですが、これによって喝の意味内容をうかがってみることにしましょう。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させていただきました。
今回の内容とは関係ないことですが、私は今まで「臨済」を「臨在」だと思っていました。
ですから、これまでブログに「臨在」と何度も書いてきたような気がします。
すべて私のミスです。
それならチェックして書き直したらどうかと思われるでしょう。
私もそう思いましたが、このところあまり体力精神力もないので、そこまでは出来ません。
今までに私のミスに気づいて、おかしいなあと思った方もおられると思います。
申し訳ありませんでした。