【禅】喝 (1) | 対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

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私は対人恐怖で、緊張すると手が震える小心者の治療師ですが、
それでも30年余、延べ10万人も施術してくることが出来ました。

その経験から、対人恐怖でお悩みの治療師のみなさんに、
メンタルや施術方法についてお話したいと思います。


喝(かつ) (臨済録)



喝とは禅門でよく用いられている「カーツ」という一種の叫び声であります。


禅門でこれが用いられ初めたのは唐代以後のことで、馬祖(ばそ)が百丈(ひゃくじょう)に対して放ったのがその最初であろうといわれています。


そのとき百丈は三日の間耳が聞こえなかったということです。


しかし最も盛んに用いたのは、なんといっても臨済であります。


『臨済録』をひもどくと、いたるところに「師、便(すなわ)ち喝す」とあり、今日では臨済の専売のようにさえ思われています。


ところで、ただ聞けば「カーツ」という同じ響きの一喝ではありますが、相手しだい、その時その場によって、いろいろと異なった意味内容をもっているわけです。


それを臨済は自ら四種に概括して述べておられます。


「師、僧に問う。有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は踞地(こじ)金毛の獅子の如く、有る時の一喝は探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は一喝の用(ゆう)を作(な)さず。汝什麼生(そもさん)か会(え)す。僧擬議(ぎぎ)す。師便(すなわ)ち喝す」(臨済録)


これは「臨済の四喝」といわれているものですが、これによって喝の意味内容をうかがってみることにしましょう。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させていただきました。 





















今回の内容とは関係ないことですが、私は今まで「臨済」を「臨在」だと思っていました。

ですから、これまでブログに「臨在」と何度も書いてきたような気がします。

すべて私のミスです。

それならチェックして書き直したらどうかと思われるでしょう。

私もそう思いましたが、このところあまり体力精神力もないので、そこまでは出来ません。

今までに私のミスに気づいて、おかしいなあと思った方もおられると思います。

申し訳ありませんでした。