ちょーどーでもいい日本史のはなしそのよんじゅうに | 元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

元鉢巻きのサバティエンヌが今後もしかしたら本格的にボディビルダーを目指すかも知れないブログ

訳あって現在は非活動的な日々を送っているかつて鉢巻きのサバティエンヌだった者がいずれ元気になって何事かをなさんとの思いを胸に抱きつつなんとなくその時々の出来事などを記すブログ

軽大王(孝徳天皇)の9年目に、
葛城王(中大兄皇子)が、
大王のいる難波(大阪)の宮を出ていって、
飛鳥(奈良)に引っ越してしまい、
宝王(前大王、皇極天皇)や間人王(軽大王の妻)など、
重要な王族も一緒に飛鳥に行ってしまい、
豪族・官人たちもついて行ってしまった時、
『日本書紀』には、
「軽大王は恨んで大王を辞めてしまおうと思った」、
と書いてありますが、
私はこの記述は嘘くさいと思います。
本気で大王を辞めようと思うなら、
宝大王がやったのと同じように即日辞められるのに、
このあと1年くらい大王を続けていますから、
辞める気はさらさらなかったのでしょう。
私の説では、軽大王は、大王即位に至るまで、
大王の位に対する野心が非常に強かったと思われますし、
大王になったあとも、本人的にはものすごく熱心に、
大王の仕事に取り組んでいた様子が、
『日本書紀』からも読み取れますし、
自分から大王を辞めるような人物ではないはずです。
豪族・官人がみんなついて行った、とはありますが、
さすがに本当に全員が行ってしまったわけではないと思います。
「政府」の機能がそこそこ維持できる程度には、
官人たちは残っていたでしょう。
そして、中臣鎌足も軽大王のもとに残った側でした。
葛城王たちが出ていった翌年の正月(1月)、中臣鎌足に、
生きている人間に授けられる中では最高の位の「紫冠」が授けられ、
加増(お給料を増やすみたいなこと)がされています。
位を授ける権能を持つのはいくらなんでも現役の大王だけです。
多くの王族・豪族・官人に見捨てられた軽大王としては、
「鎌足~、私にはもうお前しかいないんだよ~」、
といった感じだったのでしょうか。
一方で、鎌足の心の内はどうでしょう。
長くなりましたので続きは次の記事で。
ではまた。