軽大王(孝徳天皇)の9年目に、
葛城王(中大兄皇子)が、
大王のいる難波(大阪)の宮を出ていって、
飛鳥(奈良)に引っ越してしまい、
宝王(前大王、皇極天皇)や間人王(軽大王の妻)など、
重要な王族も一緒に飛鳥に行ってしまい、
豪族・官人たちもついて行ってしまった時、
『日本書紀』には、
「軽大王は恨んで大王を辞めてしまおうと思った」、
と書いてありますが、
私はこの記述は嘘くさいと思います。
本気で大王を辞めようと思うなら、
宝大王がやったのと同じように即日辞められるのに、
このあと1年くらい大王を続けていますから、
辞める気はさらさらなかったのでしょう。
私の説では、軽大王は、大王即位に至るまで、
大王の位に対する野心が非常に強かったと思われますし、
大王になったあとも、本人的にはものすごく熱心に、
大王の仕事に取り組んでいた様子が、
『日本書紀』からも読み取れますし、
自分から大王を辞めるような人物ではないはずです。
豪族・官人がみんなついて行った、とはありますが、
さすがに本当に全員が行ってしまったわけではないと思います。
「政府」の機能がそこそこ維持できる程度には、
官人たちは残っていたでしょう。
そして、中臣鎌足も軽大王のもとに残った側でした。
葛城王たちが出ていった翌年の正月(1月)、中臣鎌足に、
生きている人間に授けられる中では最高の位の「紫冠」が授けられ、
加増(お給料を増やすみたいなこと)がされています。
位を授ける権能を持つのはいくらなんでも現役の大王だけです。
多くの王族・豪族・官人に見捨てられた軽大王としては、
「鎌足~、私にはもうお前しかいないんだよ~」、
といった感じだったのでしょうか。
一方で、鎌足の心の内はどうでしょう。
長くなりましたので続きは次の記事で。
ではまた。