いつしかさけり -4ページ目

【妖怪】つつがむし

研究費が落ちずに煩悶としているため気分転換にでも要らん事を調べていたらこんな日記を書く羽目になってしもうた。






勿論、反省はせぬ。





要らぬ知識が増えただけである。






今日はテレビでなにやら家庭医学のバラエティ番組があってしきりにダニだカビだのと叫んでいる。





ダニの死骸をアレルゲンとしてアナフィラキシーを起こすのだそうだ。






それを聞いたらこう思うた。





ダニとは何ゆえ「ダニ」というか。





解らず調べても解らなかった。





解ったことは「ダニ」はかつて「たに」という清音だったことくらいである。





また、京都の方言としてダニのことを「たにこ」と呼ぶのだそうだが、これは「たに」という言葉に小さなものを意味する「こ」という接尾語がついたものであろうと容易に想像がつく。






そもそも、ダニとは、節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目に属する動物の総称である。





世界中には約2万種がいるとされ、社会の厄介者としての比喩にも使われる。






その中に「ツツガムシ」と呼ばれるダニが存在する。






漢字で書けば「恙虫」である。






ツツガムシはダニ目ツツガムシ科の総称であり、日本には100種類ほどが生息しているのだそうだ。





このダニは「ツツガムシ病リケッチア」を0.1%~3%保菌している。





保菌しているツツガムシに吸血されると「ツツガムシ病」に罹患する。






この「恙虫」は歴史としては相当の歴史を持っている。





正確に言えば、現在「ツツガムシ」とされている虫の名前の由来は古来から文献に登場してきた「恙虫」である。






そもそも「恙」は「災難・病気・憂い事」といった意味を持っている。





今で言う「恙無くお過ごしでしょうか」という手紙の文頭句が使われてる「恙」という言葉は古いのものでも中国戦国時代までさかのぼることができる。





紀元前3世紀ほどに書かれた楚国の歌「楚辞」や前漢に書かれた司馬遷の史記に「恙無し」という表現は登場する。





前漢の劉向(りゅうきょう)が編纂した『戦国策』には以下のようにある





「歳亦た恙無きや、民亦た恙無きや、王亦た恙無きや、と」




意味は現在と同じような意味である。





この時には、まだ、「虫」という性質を持っては居なかった。






そして、紀元後2世紀あたりに中国で勢力を誇った後漢の時代になると「恙」は虫の様相を呈するようになる。





後漢の時期に編纂された『風俗通義』には




「恙は人を嚼(か)む虫なり。善く人の心を嚼み、人、毎(つね)に之に患苦す」




という文があるのだそうだ。





そして、日本に場所を移し、時は室町。





『元和下学集』という書物の中に以下のような文がある。




「ツツガナシ(無恙):恙は人を螫(さす)虫也なり。上古の時人は未だ家屋を造る事を知らず、皆土窟に処す。このとき、彼の虫人を螫(さし)て害を為す。故に人々相慰めて問うて言う。恙無しやと」




室町時代は14世紀から16世紀であるから、この記述は本当かどうかわからない。




紀元前3年には、戦で帰れぬ祖国を案じて「恙無しや」と問うているわけで、その中には虫という意味も土窟にすむ上古の時人など想定されてすらいなかったのかも知れぬ。





19世紀江戸時代に入ると図画付きで「恙虫」という妖怪が現れる。




竹原春泉『絵本百物語』
「恙虫:むかしつつが虫といふむし有て人をさし殺しかるとぞ。されば今の世にもさはりなき事をつつがなしといへり。下学などにも見ゆ」




この「下学」とは先の『元和下学集』のことであろう。




ここでも「恙無し」の語源が触れられているが、これは完全に「下学」の受け売りであることがわかるだろう。




『和漢三才図会』
「獣恙:獅子に似ていて虎、豹及び人を食う。前漢の『神異経』によれば、これに噛まれると病気になり、帝の住まいに侵入してきたので黄帝に成敗されたとのこと。ただしこれは唐時代の伝説であろう」




江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には上記の如く書いてある。




これによると前漢の時代に「恙」には「虫」ではなく「獣」という属性が付与されていることになる。




前漢とはすなわち『史記』が編纂された時期であり、ここには「恙無し」という表現が存在する。




ならば、「恙」というものは「獣」と「虫」という2つの属性を持っていることになる。




一方は勇ましくも人間を葬り去り、一方では陰険にも影から人を噛むのである。





私が「獣」から「虫」という2つの属性を平行させ、同一時間軸の変遷として捕らえなかったのには十分な意図がある。




日光東照宮の唐門四方軒唐破風屋根には龍と「恙」が鎮座しているのである。




日光東照宮は勿論、徳川家康を祀る宮ではあるからして、江戸時代なのである。





『和漢三才図会』はしっかりと「虎、豹、人」を食うと書き記し、「恙」が百獣の王である虎よりも強いものだと明記している。




これは日光東照宮の意匠に反するものではなく、逆に肯定的な説明を付与するものである。






しかし、「虫」であろうと「獣」であろうと、人を死に陥れる事実はなんら変らない。





そして、「ツツガムシ病」と称されるダニを媒介とする感染症も最悪の場合は人を死に至らしめるのである。





『絵本百物語』に付いていた絵は長い触角、ぎょろりとた目、ムカデのようなアゴに、ハサミムシのような尾を持っている。





この妖怪「恙虫」は東北の日本海側で多く聞かれる伝承であった。





というのもツツガムシ病を媒介するアカツツガムシは当時その地域に生息し、風土病としてツツガムシ病が存在していたのである。






現在ではアカツツガムシは消滅したと考えられているが、その代わりに全国的に分布するタテツツガムシやフトゲツツガムシが新型ツツガムシ病を媒介している。





ツツガムシの症状は発熱、刺し口、発疹が見られ、また、患者の多くが倦怠感、頭痛を訴え、患者の半数には刺し口近傍の所属リンパ節、あるいは全身のリンパ節の腫脹がみられる。





発症2日目ころから体幹部を中心とした全身に、2-5mmの大きさの紅斑・丘疹状の発疹が出現し、5日目ころに消退する。




この発疹の症状や発熱、外見でわかるダニの刺し傷などから、ツツガムシ病は他の病とは分離認識されていたと考えるのが妥当であろう。





そこで、原因がわからないために人々は「恙虫」という妖怪を作り、その妖怪に原因を求めた。




実際はその妖怪こそが「科学的」にも正しい「ツツガムシ」という原因なのであったのだが。






ツツガムシはダニの一種であり、感染症を引き起こすことは衆知の事実であるが、春先の東日本大震災の被災地ではツツガムシ病への注意が勧告された。





決して過去の話ではないのである。





妖怪「恙虫」は水死体の霊だの、強盗の霊だのという付加的要素が付くが、いずれにせよ人に害為す祟り神として扱われ、祀られた。





その神名は「赤虫大明神」「島虫神」「島神」「虫神」「虫堂」(新潟県)「毛木虱大明神」(山形県)「毛木虱大権現」(秋田県)など多岐に及ぶ。







「恙虫」という名前は「病虫」という意味である。




ツツガムシ病をそのまま表現していたとは考えがたい。



先述の『風俗通義』には「善く人の心を嚼み、人、毎(つね)に之に患苦す」とある。




これは人の心を蝕んで病にすると書いてあるのだ。




このときの「恙虫」は病気一般を引き起こす怪虫なのである。 




しかし、風土病と東北の「恙虫」の伝承が重なることから、この時期には「恙虫」という「ツツガムシ病の原因虫」が生じている。




広く病の原因とされた「恙虫」という名前を引用して、その場に合わせて「風土病(ツツガムシ病)の原因である恙虫」として妖怪化し、あまつさえ「虫神」として神と崇めたのだろう。




そして、その名前は更に「科学」の名の下に引用され「ツツガムシ」という生物が誕生した。






奇妙な差異を産みながらも、「つつがむし」という名前は連綿と受け継がれてきたわけである。






以上、「つつがむし」についての考察







さて、ダニの名前の由来が知りたかったのだが、「ひだる神」という餓鬼の仲間を見つけた。



「怠い(だるい)」という言葉からきた妖怪であろう。



「だるい」の語源は英語の「dull」ではないと文献が証明している。



辻道など行き倒れの多い場所に現れ、旅人に急な空腹感や倦怠感を与えて行き倒れさせる。




舟幽霊など仲間を増やすタイプの妖怪である。




この「ひだる神」の別名に「だり」「だる」「だに」という呼称があった。




異称である「だに」は「ダニ」とは関係ないのだろうが、「倦怠感」という部分では一致している。




多分、ダニは古称「たに」であるから、「田に」でも「谷」でもいろいろな語源があるのだろうと思う。



【考察】妖怪~本末転倒~

妖怪は説明体系として存在するものであると思う。






常々言っているが、それが私の中での妖怪の定義である。






そして、その体系は科学へと通ずる。





科学も勿論説明体系である。





特に、自然哲学を発端とする西洋科学である。






「既知のもの」で「未知のもの」を説明するのだ。







しかし、現代では科学は本末転倒している気がする。





開発された当初は「解らないから解ろう」とする気概があったはずである。






しかし、今では実利を追いかけて本当に解らないものは排除する傾向にある。






たとえば妖怪や幽霊などの類は検証されないわけだ。





そして排除されたものは「非科学的」という表現であらわすことになる。





科学は共通の法則からこの世の物事を解説しようとするものである。





あまねく一切の事象が解説されるならば「科学」は「非科学」も解説しなければならない。






ここで科学は自己矛盾を孕むのだ。






科学と同様の形態を持つ妖怪も然りである。





妖怪の矛盾はその成り立ちにある。





それが「妖怪の本末転倒」なのだ。






妖怪と科学は背反するものではなく、同時に存在するものである。





むしろ、そうしなければ立ち行かなくなるのだ。





「科学」は「非科学」があるから定義されるのである。





妖怪は本来不可思議なものを解説するための機構であった筈である。




解り得ぬ「恐怖」に形を与えるという自己防衛的解説手段である。




しかし、時代の流れと同時にその流れは変わっていく。




「恐怖」が一人歩きしていくのだ。





妖怪とは恐怖を増長する可能性を孕んでいるが、「解らないままのもモノを放置する恐怖」を和らげる働きをしている。




けれども、この「恐怖」の概念だけが妖怪を生み出していく。





それが「口裂け女」や「人面犬」といった近代的な都市伝説である。





もちろん江戸の昔やそれ以前にも「恐怖」が先行する妖怪は居たであろう。





それこそが妖怪の本末転倒なのであって、科学と同じような変化である。





科学が台頭している現在では、「恐怖」のみが具現化してくる。




特に日本では顕著である気がする。





西洋では科学が勿論存在しているが、キリスト教などの宗教が定着している。




宗教は科学とは不可分の領域であり、不可侵の領域である。





事実、西洋人の多くは進化論を信じていない。




神が創り給うたものであるという考えが根付いているからだ。





しかし、日本ではそのような考えは無い。




したがって、科学は絶対的存在として台頭することができたのである。





「非科学」の余地が薄いということでもある。




そのため、妖怪は「恐怖」という概念を増長させた。




説明機構は科学が担えば良いからである。




こうして、現代の妖怪は本末転倒を果たした。




それは科学とても同じなのである。





【祭】県祭り(あがたまつり)

6月5日に宇治の祭りである県祭りに行った。






かなりの数の露店が出るこの祭りは「露店祭り」の異称もある。





県祭りは「縣神社(あがたじんじゃ)」と「宇治神社」の祭りである。






縣神社の祭神は「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」





宇治神社の祭神は「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」






知ってる人は知っているだろうが、木花咲耶姫は富士山の浅間神社の祭神でもある。






木花咲耶姫は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻である。





この2人の間には火照命(ほでりのみこと)・火闌降命(ほすそりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと)の3人の子が居る。






そして、火遠理命の孫が「神武天皇」とされている。





天皇の系譜がここから始まるのである。





木花咲耶姫は宇治の地域の守護神でもある。





宇治といえば平等院鳳凰堂であるが、この縣神社は平等院より歴史が古く、平等院建立の際に鎮守社としての地位を承った。





その歴史は和歌の中にも読み取れる。





「都人きてもをらなむ蛙なくあがたのゐどの山吹の花」(後撰集)





上の歌のように歌枕として縣神社の井戸が読み込まれている。








一方、宇治神社の莵道稚郎子は応神天皇の子である。





莵道稚郎子は応神天皇と三輪の国の地域の豪族との間の子。





当時、河内の国の応神天皇は三輪の国と争っていた。





敵対する間に生まれた莵道稚郎子は2つの国の間を取り成す形で皇太子へと抜擢された。





しかし、彼には兄の大山守皇子(おおやまもりのみこ)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)がいた。





大山守皇子は莵道稚郎子を暗殺しようとするも大鷦鷯尊に阻止されてしまう。





その後、莵道稚郎子は宇治に住まいを構え、宇治天皇と呼ばれるようになる。




大鷦鷯尊との皇位の譲り合いの果てに自決したといわれる。





宇治天皇の死後、彼の住まいに彼を祀ったのが宇治神社の始まりである。






県祭りはこの縣神社と宇治神社御旅所の間で執り行われる神事である。






「梵天(ぼんてん)」と呼ばれる御幣神輿を運ぶ「梵天渡御」が有名である。





この梵天はブラフマーが仏教に取り入れられた仏とは違い、「ほて」という言葉から来ている言葉である。





御旅所を出発した神輿は縣神社で「神移し」を行った後、御旅所へと帰る。





そして、最後に縣神社に帰ってきて終わるのである。






神殿に供物を捧げる「朝御饌(あさみけ)」「夕御饌(ゆうみけ)」の儀式に続いて、祭りの山場「梵天渡御」が始まる。




梵天渡御は真っ暗闇の中で行われるため、「暗闇の奇祭」とも呼ばれる。






この祭りの発端は不明確な点が多い。




一説によれば、宇治は京都の入り口にあたるために、疫病や悪いものが入ってこないように、と始まったものであると言われている。





しかし、この祭りが盛大に執り行われるようになったのは近世である。





暗闇の中では男女の関係が無礼講になっていたという歴史もあり、それに道鏡の話もあいまって、道饗祭(みちあえさい)との関連性も考えられている。





御幣神事は平安時代からあったと伝えられ、五穀豊穣、疫病退散を願うものであるという説もある。





祝詞の奏上が道饗祭と同じものであるらしく、道祖神と絡めて考える人たちも居る。





この神社には面白いことがある。





現在で神事と祭事という考えから祭り自体が分裂しているのである。





その分裂には歴史的背景が伴っている。




縣神社は宇治の守護神を守っていることもあり、地元に密着した神社である。




一方、神輿を担ぐ男衆は兵庫や大阪の者達である。





地元に居る人の中には「県祭りは宇治の祭りではない」という人も居るようである。





宇治神社に近い男衆は兵庫や大阪の人間であり、宇治の人から見ればよそ者であるのだから当然の反応である。





しかし、なぜ宇治の人間ではないのか。




それは先に記した応神天皇の河内の国と三輪の国の対立があるそうだ。




両国はいがみ合っていたが、結局は河内が宇治を支配することになる。





兵庫県や近畿一円の講で構成されている奉賛会はこの名残であるという。





平等院の権力が衰微し、神社の信仰を兵庫や大阪へと推し進めていったことによるものでもあるらしい。





こうして、県祭りの中には昔から対立が存在していたのだ。







そして、2003年の県祭りの時。





梵天を担ぐ男衆が神輿を縣神社に還す最後の工程を行わなかった。






これに対して神社側は激怒。





「神の拉致だ」ということを叫ぶ縣神社と「安全性を期すため」と主張する宇治神社側で亀裂は大きくなった。





次の年より神社も御幣神輿を作成し、独自で梵天渡御を行うようになっている。





今では2基の梵天が街を練り歩くという不思議な様相を呈している。







これこそ「奇祭」である。