あれから5年。
ついにこの日を迎えました。
あまりに感動して、独立パーティーから4日経過した今も余韻が残っています。
今回は振り返りもあるので前編と後編の2回に分けます。
思えば前職は9年勤めてそれなりのポジションを任され給料含めた待遇も悪くないものでした。
以前のブログにもたくさん書きましたがとにかくハードな職場、そこで掴んだ地位には深い思い入れがあった。
しかし、いろいろ事情が重なり「全てやり直したい」と転職を決意しました。
転職といっても普通の転職ではなく何か突拍子もないことがしたかった。
初めはいきなり起業したいと思いました。
掃除や遺品整理のような自分の得意そうなものはどうかと調べました。
しかしそれは、さすがに無理でスタートにも立たないことに気付きました。
当時は全くお金がなく住むところも友人に居候させてもらうような状況。
突拍子もないこと、と言っても子どもの養育費は最優先事項です。
そこで某保険会社の「独立を前提に社員を募集中」という求人が目に留まりました。
当時はかなり焦っていました。
早く生活を元に戻したい、しかしこの求人は「5年掛けて社長を育てる」というプログラムでした。
焦っていましたが一旦「5年掛けて生活を建て直そう」と方針を決めました。
しかし周囲は大反対。
「やめておけ、無責任、コネもないのに無理」、いろいろ言われました。
それらの言葉はとても大きな力になりました。
もちろん、反対も賛成もせずに見守ってくれた数人の友人への感謝も大きいです。
その後入社したらしたで、これがまた大変。
営業に自信が無くはなかったが通用しない。
自分のプッシュ型、パワー系が通用しない。
プライベートでも問題を抱えていたので仕事に集中できないこともありました。
そこで横浜からアドバイスをくれた某社長、先輩、優績の営業マンに聞きまくりました。
話が少し逸れますが先日ある友人から転職したいと相談されました。
「でもいまさら年下の先輩に教わるのもいや」と。
その彼は現在41歳。私も当時41歳で飛び込んだ。
しかし年の上下を一切気にしない私の性分も幸いでした。年長者への敬意は大切ですが社会に出たら年齢は関係ありません。
皆、対等です。社会は、ビジネスの現場は戦場です。
話を戻します。
この会社は入社したあとに2ヶ月みっちり研修、資格を取ります。
その後に営業を開始して5ヶ月で基準が来ます。
なんとこの基準までに営業数字が届かないとそこでクビです。
この基準はなんとかギリギリクリア。
ここのエピソードは先日のスピーチで詳しく話しました。
とまあ、入社してから苦労の連続。
2年目はコロナで営業自粛、それでも雇用基準はやってくる。
40人強いた同月入社の同期は3年目には10人を切っていました。
基準前には夢にまで商談が出てくる。
大抵のことがあっても夜にはしっかり眠る自分が、寝られなかった。
励みになったのは周囲に成功している人がいたこと。
めちゃくちゃ稼いでいる人が横にいる。自分に出来ないはずもない、と。
あとは月並みですが運がよかった。
周囲に助けられて3年目以降はコツを掴みそのままゴール。
もちろん3年目以降も様々なトラブルに巻き込まれながら、ではありましたが。
友人の存在も大きかった。
転職と同時にほとんどの友人との連絡を断ちました。
付き合う時間もお金もないからです。
そんな中でも誘ってくれた友人はありがたかった。
独身、ボロアパート(2年目にようやく部屋を借りれた)、金なし。
孤独は寿命を縮めるほど健康に悪いという。
たまには友人にだって会いたくなる。
昨年、母が亡くなったときも力になった。
母に関しては今も立ち直れていませんが。
今も私の独立に際して環境を手伝ってくれている友人がいる。
先日は前職の仲間が集まって祝ってくれた。
最終出社日は同じ部署の同僚みんな集まって送別してくれた。
なんだかんだ【同じ釜の飯を食った戦友】としか分かり合えない感情は多分にある。
飲みに連れて行ってくれた先輩方には今も感謝しています。
お客様にも恵まれた。
開業の日に花までいただいた。
今もお金に余裕はないですが子供の誕生日にプレゼントぐらいは買えている。
寝るところもある。
エアコンと冷蔵庫と風呂があれば特に不自由はない。
なんて幸せな人生なんだ。
人生における幸福や悲しみは結局は落差によるものかもしれない。
普通に生活が出来ていることに喜びを覚える。
とはいえこれがゴールでもないし、独立してしまってこれからが本当にしんどい日々が始まる。
ここで達成感に浸り、油断して消えて行った同業者は数知れない。
まだまだ崖っぷち、お金もない。
しかし一旦、独立できてよかった。
後編の【独立パーティー】に続く。
につづく