前作、日本の川の曲【その2】地名の無い歌 で、仲宗根美樹さんの「川は流れる」を載せたが、作詞者を見ると、横井弘さんとある。
実はその時までお名前も知らなかった。
それが、あるはあるは。こんな曲やあんな曲まで横井さんの作詞だったんだ。
この曲もそうだ。お姉さんの伊藤エミ(71歳)は今年の6月15日に亡くなったが、ザ・ピーナッツ(写真)の初期の頃の作品。
ザ・ピーナッツ/心の窓にともし灯を(1959年)
1959年12月に「NHK歳末助け合い運動」の一環として作成され、同月の「歌の広場」でザ・ピーナッツにより歌唱された。
この時同番組内で、盲学校の生徒と合同に歌唱されていたのが話題となり、以後この楽曲の人気が急激に上昇した。
翌年には、NHKテレビ歌謡の「今月の歌」にも指定されていた。 当時は洋楽カヴァーを主としていたザ・ピーナッツのオリジナルソングの初期の作品で、歌詞は人間を励ますと言う内容になっている。
一時期には中学校音楽科の教科書に掲載されていた事もあり、現代でも知名度が高い楽曲である。(Wikipedia参照)
「あざみの歌」は、横井弘が1946年に上京し、アルバイトをしていたキングレコードにて、偶然社員が横井の作詞した詩篇を、同社の作曲家だった八洲秀章に渡したことから始まった。
横井弘(85歳)(写真)は東京都出身。1945年の東京大空襲で自宅が全焼し罹災する。同年6月召集され入営。茨城県で初年兵として沿岸防備隊の任務に就く。
終戦と共に軍隊から復員したものの、敗戦のどさくさで帰る家を失くし、知人のいた長野県下諏訪町に家族で転居。
有名な「あざみの歌」はその頃、彼が霧が峰・八島湿原(左写真)を散策していて作詞したもので、八島湿原には横井弘氏自筆のあざみの歌の記念碑がある。(右写真)
横井弘がまだ19歳のときだった。
伊藤久男/あざみの歌(1951年)
「あざみの歌」は、横井弘が1946年に上京し、アルバイトをしていたキングレコードにて、偶然社員が横井の作詞した詩篇を、同社の作曲家だった八洲秀章に渡したことから始まった。
しかし、八洲がこれを目にしていた際、横井はアルバイトを辞めてしまっていたため連絡が取れず、完成に3年の月日がかかってしまった。
1949年、日本放送協会のラジオ歌謡で放送された「あざみの歌」で作詞家デビュー。同曲は1951年、伊藤久男の歌唱でレコード発売され、大ヒットとなる。(Wikipedia参照)
横井弘の特長は、三橋美智也や倍賞千恵子の歌の作詞が多いことだ。
中野忠晴(1970年、60歳で没)(写真)とは、三橋美智也の「おさらば東京」、「達者でナ」、「赤い夕陽の故郷」でコンビを組んだ。
なお、中野忠晴は「ダイナ」(ディック・ミネ)、「喫茶店の片隅で」(松島詩子)、「おーい中村君」(若原一郎)などの作品がある。
また、小川寛興(87歳)(写真)とは、倍賞千恵子の「さよならはダンスの後に」、「おはなはん」、中村晃子の「虹色の湖」、「砂の十字架」でコンビを組んだ。
小川寛興は、テレビのテーマソングの作曲者として有名で、「月光仮面」、「七色仮面」、「鉄腕アトム」、「快傑ハリマオ」(三橋美智也)、「隠密剣士」、「細うで繁盛記」などのテーマソングを作曲した。
三橋美智也
三橋美智也/哀愁列車(1956年) 赤い夕陽の故郷(1957年)
倍賞千恵子
倍賞千恵子は下記の曲の他に、倍賞千恵子、倍賞千恵子の「花」の歌で、「さよならはダンスの後で」、伊藤久男のカヴァー、「あざみの歌」、ザ・ピーナッツのカヴァー、 「心の窓にともし灯を」を紹介している。
倍賞千恵子/下町の太陽(1962年) おはなはん(1966年)
その他の歌手
大津美子/銀座の蝶(1958年)
三船浩/夜霧の滑走路(1958年)
春日八郎/山の吊橋(1959年)
ちあきなおみ/ネオン川(1966年)
中村晃子/虹色の湖(1967年)
千昌夫/夕焼け雲(1976年)
ね、凄いでしょう!