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小川村塾ブログ

小・中学生・高校生のための学習塾 [小川村塾]
〒417-0842 静岡県富士市三新田9-20TEL 0545-32-0662   
生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

国語の実力テストではテーマについての150字くらいの作文があります。

私たちは150字などまとまった文章を書くことには慣れていません。

 

文章の書き方についてもしっかりと学んだということがありません。

ただ何となく思ったことを書くというのが現状です。

 

そこで、テストの作文対策として、こんなことに気をつけて文章を書くと良いということをあげてみます。

テストでの作文を書くときの参考にしてみてください。

 

①    結論をはじめに書く。

テストでの作文は上手い文章を書くことより与えられたテーマに対する考えをできるだけ短時間にまとめることが必要となります。

 

そのためには結論をはじめに書いてしまいます。

結論をはじめに書くと主題が分かりやすくなります。

 

書くことも結論に沿って理由等を書いていけばよいので書きやすくなります。

 

何よりも制限時間があと少しとなった場合も結論ははじめに書いてあるので後の方がまとまりがなくても文が成り立ちます。

 

② 主語を正確に表す。

文の主語をはっきりとさせておく 。

(例文) 休みの時、自分の部屋で本を読む。

(改文) 休みの時、私は自分の部屋で本を読む 。

 

③ 主語と述語は近づけて書く。

(例文) 私は朝ごはんを食べてお腹いっぱいになったので笑顔になった。

(改文) 朝ご飯を食べてお腹いっぱいになったので私は笑顔になった。

 

④ 副詞と動詞、形容詞と名詞を近づける。

(例文) 早く学校に着いた。

(改文) 学校に早く着いた。

 

⑤ 長い修飾語句はかかる言葉の遠くに、 短い修飾語句は近くにする。

(例文) 古い平安時代の先生が探していた本。

(改文) 先生が探していた平安時代の古い本。

 

⑥ こそあど言葉はできるだけ少なくする。

(例文) めんどくさい。

これは私たちがよく使う言葉だがそれは言わない方が良い。

それは自分の気持ちがそれにより後退するからだ。

 

(改文) めんどくさい。

私たちがよく使う言葉だが言わない方が良い。

自分の気持ちが後退するからだ。

 

⑦ 一文は長くしないでできるだけ短くする。

 一文が長くなると主語と述語が対応しないねじれ文になったりします。

 前と後ろで言っていることに矛盾が生じたりして内容が理解しにくくなります。

 

以上のことを少しでも意識して文を書くようにすると今までと違った感覚で文を書くようになります。

何となくではなく、文を意識して書くようになります。

 

2024/10/10

 

 

子供はやっぱり勉強が嫌い。

そのことを思って子供には接するのが良い。

 

大人だって勉強は嫌い。

大人は子供の延長線上にある。

だから。

 

楽しく勉強する。

そんなことができるのか。

 

勉強という字を考える。

勉学を強いる。

強いる=強制する。

 

人間は誰でも強制されることを嫌う。

強制されるということは支配され、上から命令されることになる。

自由に生きたいという心の叫びに反する。

だから人間は強制されることを嫌う。

 

だから勉強が嫌い。

というのも納得できる。

元来、勉強は好きで行うことではないということになる。

 

強制を意味する言葉の入った勉強はしなくて良いのか。

 

当然、誰もがしなければならないと思っているだろう。

では、なぜ勉強には強いるが含まれているのだろうか。

 

嫌でもしなければならない。

嫌だからこそしなければならない。

そのことが成長につながる。

そう思うことにする。

そのことが強制から前に一歩進むことができる。

 

勉強の類義語に学習がある。

学習の字には強いるが含まれていない。

だいたいどちらも同じような意味で使われることが多い。

同じような意味で使われているのになぜ勉強には強いるがあるのか。

 

二つの違いを辞書で調べてみる。

辞書によっては同じような意味と書いてある。

 

広辞苑によると

勉強とは

精を出して務めること。

学問や技術を学ぶこと。

さまざまな経験を積んで学ぶこと。

 

学習とは

学び習うこと。

経験によって新しい知識・技能・態度・行動傾向・認知様式などを習得すること、およびそのための行動。

このように書かれている。

 

勉強、学習も学問や技術を学ぶことは共通している。

 

勉強は自分の意志で学ぶことに対して学習は経験により学ぶことが含まれる。

勉強は無理しても努力して励むこと

本当はやりたくないことを頑張る

学習は経験により学ぶことが含まれる。

 

勉強はさせられるというような受動的な意味合いがある。

学習は自分からするという能動的な意味合いになる。

 

そこで勉強は嫌いということになる。

 

意識を変える。

勉強させられるのではなく、、自らが学んで習う。

というように意識を変えていく。

 

勉強から学習へ

意識を変えていく。

勉強は嫌だけれど学習はする。

そんな気持ちを持つようにする。

 

たとえば、歴史で江戸時代について勉強する。

同じことをするのでも言葉を変えて江戸時代について学習する。

どちらも同じことをしている。

 

細かいことを言うと勉強する= 学習する。

ではないけれど。

 

でも、していることはどちらも江戸時代について調べる。

考証する。

そんなことだ。

していることはほとんど同じ。

 

それならば勉強するのではなく学習する。

そうすれば言葉的には強制ではなくなる。

強制でなくなれば嫌いという言葉もなくなるかもしれない。

 

幼い頃はいろいろなことを体験し、楽しく学んでいた。

つまり、学習していた。

それがいつからか楽しく学ぶことを忘れ、勉強させられるに変わっている。

その結果がやっぱり勉強は嫌い。

それでは成長しない。

 

大人は勉強を学習に変えることができる。

そして勉強の大切さも分かっている。

 

それは今まで体験したことにより体得した。

つまり、学習したことにより体得した。

 

2024/10/02

 

 

何か一つのことが気になり意識するとそれに関する情報が自分のところに集まってくると言われる。

いつの間にか情報が集まる。

と言う。

 

今ならネットで気になるニュースを見ればAIがそれに関する情報を選択して表示する。

ネットならそれが普通になっている。

 

ネットに関係ないところでも情報が集まってくる。

と言う。

 

しかし、それは集まってくると言うのではなく、その情報が目に入るようになった。

というのが正しい表現ではないのだろうか。

 

今まで気にしていなかったので目に入ってきても意識されなかったものが突如気にするようになったので目に入って意識されるようになったということ。

 

たとえば、今までは気にしていなかった花についてあんなところに花が咲いていたのかということになる。

集まってくるのではなくその情報が目に入るようになった。

意識するようになった。

そういうこと。

 

歩いていて、今までは素通りしていたところのあるところがピンポイントで脳に刺激される。

活字を読んでも、ある活字が目に入り意識されるようになる。

それが集まってくると思われる要因になる。

 

それを学習において活用してみるとどうなるか。

 

たとえば、数学の計算においてマイナスの符号関係で間違えるので注意しよう。

と思う。

計算をして間違い直しをしてみるとやはりマイナスで間違えている。

その時、やはりマイナスで間違えた。

と思う。

 

そして、どうしてマイナスで間違えたのかを考える。

計算途中を見て、マイナスで間違えた原因が判明する。

間違えたところを意識して正しい答えを出す。

 

これを繰り返すと自分がマイナス関係で間違える原因が決まってくる。

すると、計算する時に問題を見てマイナスで間違えやすい計算問題が分かるようになってくる。 この計算が間違えやすい。

ということが分かる。

 

そうなれば、その計算はマイナスを意識して計算しようという気持ちになる。

その結果、マイナス関係の計算間違いが少なくなる。

 

意識により 間違いを少なくすることができる。

 

 

 

2024/09/26

 

 

9月からはどの学年も学習内容が考える力をつける内容となります。

それにより考える力が必要となる問題が多くなってきます。

それらの問題を解くためには各学年に合わせた基礎的な考える力が必要となります。

 

では基礎的な考える力はどのようにしてつけるのか。

 

まずは頭の中にあることを絵や図、簡単な文にすることを心がけます。

内容を簡単な図や絵、文章にすることにより内容がより深く把握できるようになります。

余分なものをなくして一番重要なことがシンプルに分かりやすくなるからです。

 

「分かる」という状態については三つの段階があると言われています。

最初は頭の中だけで分かった状態。

次にイメージとして分かった状態。

最後が絵や図として分かった状態です。

 

最後の分かった状態は全体像がしっかりと把握できているだけではなく、細かなところまでもしっかりと説明できる状態です。

分かったことを絵や図にかくことができるのならば十分に理解している証拠となります。

逆にいうと絵や図にかけない状態というのは、まだ理解度が浅いということになります。

 

最後の分かった状態にするために勉強する時はノートに絵や図、簡単な文章を書く癖をつけるようにします。

書いたものが目に入り脳に届くことが覚えることにつながります。

 

小学生の時など問題自体が簡単なので、すべて頭の中で解いて答えだけを書いていくということが通常化してしまいがちです。

そのようになると、その時は良いのですが、難しい問題を解く時や中学生になってから分からなくなってしまいます。

 

書くことを習慣化するために算数では式を順序よく書いていくことを意識します。

図形や文章問題もとりあえず図をかいてから考えるようにします。

それらが自然と行われるようになれば考える力もついてきます。

 

国語においての基礎的な考える力はどのようにしてつければよいのか。

 

最終的には読解力をつけるということになります。

その前段階で考える力はどのようにしてつければよいのか。

 

実はあまり言われていないことですが、日ごろからタテ書きの文章を速く読む訓練をすることが簡単な考える力をつけることにつながります。

 

国語のテストはタテ書きで長い物語文を読むことが必要になります。

読むスピードが遅ければ、それだけ問題を考える時間がなくなってしまいます。

 

今はタテ書きに接する機会はあまりありません。

算数(数学)、理科、社会などすべて他の科目は教科書から参考書、問題集にいたるまですべてヨコ書きです。

ノート、メール、雑誌等、目に入る物はほとんどがヨコ書きとなっています。

 

目をタテに走らせることに慣れていないためにタテ書きの文章を読まなければならなくなると速く読めず、内容理解もしにくくなります。

タテ書き文章に慣れるというと、対策は日ごろから意識してタテ書きの文章を読むことしかありません。

積極的に本などタテ書きのものを読んでタテ書きに慣れるようにします。

 

目がタテ書きに慣れてくると目線がスムーズに動くようになります。

これだけでも、読むスピードがアップします。

これは国語の力をつける最低条件となります。

 

考える力というのは、無から形のあるものを造る力でもあります。

できないと言って、考えることを放棄してしまうことからは何も生まれません。

 

とにかく考えてみる。

そのことが考える力をつける最強の方法です。

 

 

 

2024/09/20

 

 

人それぞれにいろいろな壁がある。

分かりやすいところではスポーツ選手には記録の壁がある。

勝敗の壁がある。

そして、学生にも得点の壁がある。

 

100点の壁、200点の壁、300点の壁、…など。

壁というのだから、なかなか超えることができない。

なかなか超えることができないので壁になる。

 

一度壁を超えて中に入ったと思っても、次にすぐまた中から壁の外に落ちてしまう。

一度壁を乗り越えたらばそのまま中にいるためには今まで以上の力が必要となる。

今まで以上の努力をしなければならない。

 

がんばってもなかなか壁を超えることができない場合、

壁が今までより高くなってしまうことがある。

 

これは壁自体が高くなったのではなくて自分のいる位置が低くなってしまった結果、壁が高くなったと感じるためである。

 

そのように壁が高くなるのは自分の思考による。

ネガティブなマイナスの言葉、思考による。

 

どうせどんなことをやっても乗り越えられない。

がんばっても乗り越えられない。

だから、何をやっても無駄だ。

やらなくても同じだ。

どうせできない。

やってもしょうがない。

 

そんな言葉が壁を高くする。

壁は高くなったのではない。

自分が低くなったのだ。

そのことは知っておく必要がある。

 

2024/09/11

 

 

テストが終わってのこと。

「答案はまだ返却されていないけれど今回の数学はできたと思う。」

と生徒が言ってきた時は

まだ要注意だよ。

と心の中で言っている。

 

テスト対策として講習をしていて、生徒一人一人のできないところ、できるところなどは把握している。

この生徒はいつもここで間違いを犯しやすい。

まだ、ここが理解できていない。

など分かっている。

 

本番のテストでも同じような間違いを起こしやすい。

そのためにそんな間違いを起こさないように講習を行う。

しかし、時間には限りがある。

そのため、理解の未消化でテストに臨まなければならない。

ということが多くある。

 

そうなると、テスト前に確実にはなっていない。

テストは大丈夫か。

そんな思いがあるので生徒がテスト後に

「今回はできたと思う。」

と言ってきても答案がまだ返却されていない場合は素直に喜べない。

 

本人の思いと現実にギャップがあることが多々ある。

という経験を多くしている。

 

答えを四角のマスの中に書く場合に出てきた答えが合っているのにマスには写し間違えて違う答えを書いてしまう。

そんな単純なミスをする。

 

そんなことはいくらなんでもないだろうと思うかもしれない。

けれども現実にあるミスである。

そんな単純なミスで点を失ってしまう。

もちろんテスト直後には本人はできたつもりでいる。

 

簡単な計算でも単純なミスで点を失ってしまう。

特にひき算での簡単な計算ミスが多く見られる。

他に多いのはマイナスの符号関係のミス。

 

これらの単純なミスによる失点はテスト直後には本人は気づいていない。

そこでテスト後にできたと思っている。

 

しかし、答案が返却されると自分が思っていたのとは違ってできていない。

なんて結果になっている。

ということになる。

 

だから、生徒が

「今回はよくできたと思う。」

と言ってきても答案が返却されるまでは言葉通りとは思えない。

 

このことは生徒もできたと思っていた分できていなかったことにショックを受けてしまう。

それがマイナスの思考につながり、

できたと思ったのにできなかった。

やっぱり自分は点が取れない。

そんなに勉強しても点数は変わらない。

できない。

という考えになっていく。

 

こんな時にはプラスの思考に結びつけたい。

できたと思ったけれどできていなかった。

できていたと思ったところはどうしてできていなかったのだろうか。

分かっていたと思ったのにどうしてできていなかったのだろうか。

 

答案のできたと思っていたのにできなかったところを見てみる。

どうして間違っているのかを確認してみる。

 

すると簡単なミスで間違っていたことを知る。

なんてつまらないミスをしたのだろう。

こんなミスをしなければ自分はできていた。

次回はこんなミスはしないようにしよう。

と自分に言い聞かせる。

 

そう思うことができれば次回のテストに期待が持てる。

 

できたと思った。

という気持ちを大切にする。

それが次回のテストができるようになることにつながる。

 

2024/09/05

 

 

室内の観葉植物の水やりについて以前はあまり考えずに水やりをしていた。

受け皿に水が溜まっていてもあまり気にしないでいた。

それでも植物は育っていた。

今から思うと枯れてしまったものもあったけれど。

 

観葉植物の中に胡蝶蘭が仲間入りして水やりの意識が一変した。

胡蝶蘭の水やりは初心者には難しい。

そんなに難しいことではないと書かれているけれど、やはり難しい。

 

胡蝶蘭はまだ植え込み材料が乾いていない時に水やりをしてしまうと、すぐに根腐れを起こして枯れてしまう。

根腐れが怖いからと逆に水やりを控えると今度は水が足りなくて枯れてしまう。

 

胡蝶蘭自体は強い植物だと思う。

というのも花芽のついた茎を誘引しようとしたときに誤って折ってしまっても折れた茎の横からまた新たな茎が伸びて花を咲かせた。

 

胡蝶蘭の水やりに注意をするようになると他の観葉植物の水やりにも注意するようになる。

すると今まで気にしていなかったのに元気がなくうなだれている植物を見ると水が足りないのかもしれない。

と思って水やりをする。

 

それが本当は根腐れをしていて元気がなかった植物に水をさらに加えてしまって結局は植物を 枯らしてしまう。

そんなことも起きるようになった。

 

今までのようにそんなに気にしていなかったならば枯れるようなことはなかった。

元気がないから。

かわいそうだ。

だから、水が足りないのだろうと思って水をあげる。

それが逆効果で最終的に枯らしてしまう。

そんなことになるとは思ってもいない。

 

かわいそうだと思ってしたことが命取りになる。

これは水やりに限ったことではない。

 

よかれと思ってしたことがますますひどい状態にしてしまう。

はたから見るとなんてことをするんだ。

ということをしてしまう。

もちろんよかれと思ってしたことだ。

 

相手のためにと思ってしたことが逆に相手をおとしめる。

そんなことがある。

 

たとえば、台所で洗い物の手伝いをしようとする。

その時、誤ってお皿を割ってしまう。

大切にしていたお皿を割ってしまう。

 

この場合、手伝いもしないでただ座っていればお皿も割れることはなかった。

手伝おうと思って行動した結果がお皿を割ることにつながった。

ただ座っていたならばお皿は割れない。

 

どちらが非難されるのか。

行動と結果。

これが 真逆の位置にある。

 

できれば行動に目を向けてほしいところだが、結果に目が向けられることが多いのが現状だ。

 

 

 

2024/08/28

 

 

静岡県では9月初旬に中学3年生は学力調査テスト(静岡県統一テスト)があります。

数学において必ず出題される連立方程式の利用(文章問題)の対策をしていて気づくことがあります。

 

簡単な個数問題を文字式で表すことができない。

その結果、方程式を立てることができない。

そのため、連立方程式の利用はできない。

という結果になってしまっている。

ということです。

 

簡単な個数問題を文字式で表すことができない。

とはどういうことなのか。

極端なことを言うと、80円のみかんをa個買った時の代金の80a円が表せないということです。

 

文字式は小学6年生の「文字と式」という単元で学習します。

これは中学1年生で学習する文字式の基礎として学習します。

この時にもう数量が文字を使って表すことができないということが出てきます。

数量を文字で表すことはそんなに難しいことではないと思うかもしれません。

 

しかし、前述の文字式を問題として

80円のみかんをa個買いました。

代金はいくらですか。

という問題にして尋ねてみます。

 

80a円とすぐに答えられると思うかもしれません。

しかし、文字式を使うことが苦手の場合にはすぐに80a円と答えることができません。

この時、「1個の値段×個数=代金」という概念がないということが文字式で表せない要因の一つになります。

 

そこで、文字を使わないで、a個の代わりに実際の数で尋ねてみます。

みかんが2個では代金はいくら。

と尋ねます。

すると160円と答えます。

そこで160円はどのような式を使って求めたのか。

式を尋ねます。

すると、その式 80円×2個 が分からない。

となります。

 

160円という答えは出るけれども、どのような式で出したのかが分からないのです。

「1個の値段×個数=代金」が理解できていない。

ということになります。

 

今回の例は極端な例ですが、答えは分かるが式は分からない。

ということの要因は小学生の低学年から始まります。

 

答えを求めることを重視しすぎるあまり本当は重要な式を考えることを軽視した結果です。

式を考えることよりも答えが合っていることを重視し、感覚で答えを出すようになっています。

すると勉強すればするほど答えは早く出ますが、式の意味は分からないままということになります。

 

そんなことを小学生の低学年から繰り返していくと式の意味など関係なく答えが出るようになってしまいます。

 

それが逆に文字式の意味が分からない。

文字式が表せない。

方程式が立てられない。

ということに実はつながる要因の一つになっています。

 

小学生の低学年から答えを出すのに時間がかかっても答えを導くための式をしっかり考えて答えを出す習慣をつける。

 

このことが、小学生の低学年から考えておかなければならない重要なことになります。

 

 

 

2024/08/19

 

 

勉強したのにテストで良い点が取れなかった。

勉強してもテスト結果がよくないから勉強しても無駄だ。

と言う人がいます。

 

しかし、自分では勉強しているつもりでも客観的に見ればそれほど勉強はしていない場合が多くあります。

自分は勉強しているつもりでも、客観的には勉強していない。

そうであれば、勉強方法をもう一度見直してみる必要があります。

 

勉強方法については個人差がありますので、このようにすれば良いという決定打はありません。

色々な方法を試して自分に合った勉強方法を見つけていくしかありません。

 

しかし、勉強ができる人には共通した勉強のコツがあります。

そのことは知っておく必要があります。

 

それは、勉強して間違えたところをしっかりと理解するようにしていることです。

問題を解いて間違った箇所や理解できなかった箇所は徹底的に理解しようとしています。

できない人は残念ながらそのようなことがなされていません。

 

勉強してもできないと思っている人は間違った個所を理解しようとする意識を持たなければなりません。

 

そんなことを言っても分からないことは理解できない。

そんな気持ちも分かります。

ですから、まずは理解しようとする意識を持つことから始めます。

 

問題を解いて、丸付けをして、間違ったところにはバツをつけて、それでおしまい。

間違った所の正しい答えを書きなおして、それでおしまい。

 

これではできるようにはなりません。

問題を解いただけでしっかりと勉強した。

と思ってしまうと勉強しているのにテスト結果がよくない。

ということになります。

 

まず、自分の力で問題を解いてみます。

その後、答え合わせをして間違えたところの問題をよく読みなおして理解するようにします。

 

しかし、問題を解いて間違えたところや分からないところが多い場合は答え合わせをじっくりとして理解することなどできません。

そのような場合、ただバツをつけるだけになってしまいがちです。

 

そうならないようにしなければなりません。

そのために解く問題数を少なく区切って、その都度答え合わせをするようにします。

つまり、5問くらい問題を解いたら答え合わせをするという方法を取ります。

 

答え合わせをする数を少なくすれば、間違った個所が多くても答え合わせがしっかりできます。

間違いが多い場合は欲張らないで、少しの問題数についてだけでも、しっかりと答え合わせをするようにします。

そのようにして、少しでもしっかりと答え合わせをすることを習慣化させるようにします。

 

問題を解くだけでは勉強したことにならないことを自覚させます。

問題を解いて間違った個所を理解することが勉強したことになる。

このことが分かってくれば、答え合わせの仕方も変わってきます。

最終的に、そのことがテストの結果に結びついてきます。

 

「素直で頑固」

一見ふたつは合わないようなことと思われるかもしれません。

しかし、これは勉強ができるようになる必要な要素です。

 

「ここはこのように解くともっと簡単にできるよ。」

「こうしたらいいよ。」

というような意見を素直に聞いて実行する。

 

「これができるまで、分かるまで、ずっと考える。」

自分が納得するまで続ける頑固さ。

 

これらは勉強ができるようになるには必要です。

 

人の意見を聞かず、勝手な行動をとる。

すぐにあきらめてしまう。

というようでは残念ながら勉強はできるようにはなりません。

 

「賢者は愚者からも学び、愚者は賢者からも学ばず。」

 

という中国の古い言葉があります。

素直に色々な意見を聞くということは次なる成長につながります。

 

 

 

2024/07/30

 

 

映画を観るまで グリーンブックというガイドブックがあったことも知らなかった。

しかも、それが黒人旅行者を受け入れるホテルやレストランなどの一覧が掲載された本のことなど当然知らなかった。

 

そして映画を観て自分がいかに幸せなのかを知った。

 

映画は1960年。

天才黒人ピアニスト、ドクター・シャーリーがイタリア系男、トニーを運転手兼マネージャーとして 雇い、当時あえて黒人差別の強い南部でのピアノコンサートツアーを行うという実話に基づいた映画。

 

テーマの1つは現在も根強く残っている人種差別。

1960年当時のアメリカ。

リンカーンが奴隷解放宣言をして約100年経ったアメリカの南部では依然として黒人差別が行われていた。

 

その南部へピアニストとして演奏旅行をするのだからドクター・シャーリーはピアノ演奏では拍手をもらうが、演奏以外では黒人扱いなのでひどい仕打ちを受ける。

 

彼はカーネギホールの上階の高級マンションに住んでいる高名なピアニスト。

それなのに、何故あえて黒人差別の強い南部でコンサートを行う計画を立てたのか。

 

それが2つ目のテーマではないかと思う。

答えは語られないが。

 

人種差別を扱った映画「シンドラーのリスト」「戦場のピアニスト」と違う。

そこが同じ人種差別を扱った映画なのに観ている時に変な重さがなくまた後味がよい。

 

それはどうしてか。

それは、ドクター・シャーリーは自分から黒人差別のひどい渦の中に飛び込んで行った。

自分からひどい差別を受けるような機会を作った。

 

高級マンションに住んでピアノの演奏をして豊かに暮らすことができる。

それなのに何故か。

 

山崎豊子著「二つの祖国」の匂いがする。

日本人なのにアメリカで育ち、アメリカ人からはアメリカ人とは見られず。

日本人からは日本人と見られない。

 

それと同様なことがドクター・シャーリーにもあったのかもしれない。

黒人なのに富裕層。

普通の黒人からは黒人とは違うと思われる。

そして、ピアノ演奏の能力は認めるが、他は普通の黒人扱いをされる。

 

どっちの人間にもなれていない。

自分は何なのだろう。

そう思ったのかもしれない。

 

自分を見つけたい。

そんな気持ちがあえて黒人差別の強い南部でのピアノ演奏旅行を計画したのだろう。

 

とにかく淡々として物事が進んでいくが2人の関係が強まっていくのが分かり、最後は気分よく観終えることができる映画。

 

差別はどうしても起こる。

差別なんかないと言っても

それはきれいごとで、些細なことで差別は起こる。

 

人種、階級、障害、能力、財力、あらゆることが差別の対象になる。

差別は常に起こっている。

 

しかし、日本にいる限り日本人同士での人種差別は感じない。

部落差別があると言われるが、当事者は深刻な問題だろう。

しかし、表立って叫ばれることはない。

しかし 島国から外へ出た時には大きく感じる。

 

人種差別は受けてみなければ分からない。

今いる環境から出てみなければ分からない。

日本の中にいる限り人種差別はあまり感じられない。

日本という国、島国から出て海外へ行ってはじめて分かる。

そして、差別はいけないということも痛感する。

 

2024/07/28