子供はやっぱり勉強が嫌い。
そのことを思って子供には接するのが良い。
大人だって勉強は嫌い。
大人は子供の延長線上にある。
だから。
楽しく勉強する。
そんなことができるのか。
勉強という字を考える。
勉学を強いる。
強いる=強制する。
人間は誰でも強制されることを嫌う。
強制されるということは支配され、上から命令されることになる。
自由に生きたいという心の叫びに反する。
だから人間は強制されることを嫌う。
だから勉強が嫌い。
というのも納得できる。
元来、勉強は好きで行うことではないということになる。
強制を意味する言葉の入った勉強はしなくて良いのか。
当然、誰もがしなければならないと思っているだろう。
では、なぜ勉強には強いるが含まれているのだろうか。
嫌でもしなければならない。
嫌だからこそしなければならない。
そのことが成長につながる。
そう思うことにする。
そのことが強制から前に一歩進むことができる。
勉強の類義語に学習がある。
学習の字には強いるが含まれていない。
だいたいどちらも同じような意味で使われることが多い。
同じような意味で使われているのになぜ勉強には強いるがあるのか。
二つの違いを辞書で調べてみる。
辞書によっては同じような意味と書いてある。
広辞苑によると
勉強とは
精を出して務めること。
学問や技術を学ぶこと。
さまざまな経験を積んで学ぶこと。
学習とは
学び習うこと。
経験によって新しい知識・技能・態度・行動傾向・認知様式などを習得すること、およびそのための行動。
このように書かれている。
勉強、学習も学問や技術を学ぶことは共通している。
勉強は自分の意志で学ぶことに対して学習は経験により学ぶことが含まれる。
勉強は無理しても努力して励むこと
本当はやりたくないことを頑張る
学習は経験により学ぶことが含まれる。
勉強はさせられるというような受動的な意味合いがある。
学習は自分からするという能動的な意味合いになる。
そこで勉強は嫌いということになる。
意識を変える。
勉強させられるのではなく、、自らが学んで習う。
というように意識を変えていく。
勉強から学習へ
意識を変えていく。
勉強は嫌だけれど学習はする。
そんな気持ちを持つようにする。
たとえば、歴史で江戸時代について勉強する。
同じことをするのでも言葉を変えて江戸時代について学習する。
どちらも同じことをしている。
細かいことを言うと勉強する= 学習する。
ではないけれど。
でも、していることはどちらも江戸時代について調べる。
考証する。
そんなことだ。
していることはほとんど同じ。
それならば勉強するのではなく学習する。
そうすれば言葉的には強制ではなくなる。
強制でなくなれば嫌いという言葉もなくなるかもしれない。
幼い頃はいろいろなことを体験し、楽しく学んでいた。
つまり、学習していた。
それがいつからか楽しく学ぶことを忘れ、勉強させられるに変わっている。
その結果がやっぱり勉強は嫌い。
それでは成長しない。
大人は勉強を学習に変えることができる。
そして勉強の大切さも分かっている。
それは今まで体験したことにより体得した。
つまり、学習したことにより体得した。
2024/10/02
