自由が操作されている | 小川村塾ブログ

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生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

 標準的な物がいつの間にか、よい物にされているということはないのでしょうか。
 しかも、そのよさが分からない者は、つまはじきにされるということはないのでしょうか。

 たとえば、i-podを筆頭に今の音楽再生機器から流れる音はよい音なのでしょうか。
 一定の決まった音質で流れくる、その音はよい音なのでしょうか。
 誰が、その音がよい音と決めたのでしょうか。
 音について、そんなに分かっていないので、余計疑問に思います。

 昔のステレオ、デッキなどは、音質を自分で調整して自分好みの音にして聞けるようになっていました。
 今はステレオでも、ほとんど工場で設定された状態のままが当たり前になっています。
 設定された音が標準になって、それがよい音とされていると思うのですが、果たして本当にそれでよいのでしょうか。
 設定された音がいちばんよい音なのかもしれませんが、そうなのかなという気持ちも出てきてしまいます。

 何か裏で、すべてが操作されているような感じがしてしまいます。
 自分の好みまでも、操られているような気がしてしまいます。

 自由の中にいると思っているけれど、その自由が操作されている自由なのだ、ということはないのでしょうか。
 万人向けの物、標準的な物というのは自由を操作するための道具なのだ、ということはないのでしょうか。