日本の台風情報、速報などを随時確認しながら、全国の皆さまに被害のないことを祈るばかりです。
本日の記事は、上海情報ございません。
テレビ朝ドラからの連想で、ほぼ愚痴の吐き出しブログです。(27日に書いたものなので、今日の朝ドラ内容までは追いついていません)
お忙しい方、台風でそれどころではない方、どうぞスルーしてくださいませ。
朝ドラは、昭和31年頃を迎えていて、私もこの世に生まれている時代になっています。
寅子は新潟から東京に戻り、裁判官としての仕事を続けながら、「はて?」を繰り返しています。
男は働いて稼がなければならないけど、女は働く必要がないのに、なんでわざわざ働くのだ
という考え方が、まだ主流だったこの時代。
いきなり父の話に逸れますが、、、
昭和50年前後、大学時代の私は友達が多く、勢力的に活動し、充実の日々を送っていました。
その私に向かって、
「女に友達は必要ない。女の幸せは男に尽くすことだ。お前は仕事はするな!」
と、父は言い切りました。
「はて?」
と、その時に確実に思ったけれども、私は言い返しません。黙って聞いてるフリをしてスルーしました。自分の考え方を否定されることが一番嫌いな父に、ヘタに反論したら、烈火のごとく怒りまくり、全否定し、私の人間性、存在そのものを消す勢いになることは承知していますから、私の意見は1ミリも言いませんし、顔の表情も変えないようにします。眉毛ひとつ動かしただけでも、地雷を踏むことは目に見えています。
父が私をどうしたかったのか、亡くなって3年弱、今となっては何もわかりません。
私に勉強しろ、勉強しろ、と言い続けていたのは、法律家にしたかったのか?とも思いますが、中学生の頃の私に
「女の検察官は生意気でいかん!」
と、帰宅と同時にぷんぷん怒りをぶつけてきたことがありました。私の顔を見て、さらに怒りが増したらしく、八つ当たりされ、お説教が続きました。自分の後輩の女検察官がまるで私であるかのように、訳わからぬまま、私は貰い事故で怒鳴りの的になりました。
いつものことながら、何やら意味の分からぬ私は、
「はて?」
でした。でもキョトン顔しても怒鳴られますので、私はポーカーフェイスで対応しました。
子供の頃から、遊びを許されず、音楽の才能のない家系に生まれた私がやっても無駄だという理由で、ピアノを習わせてくれず、絵本もオモチャもない生活の中で、小学校受験をさせられました。
その受験して入った小学校が、偶然にも寅子のモデルとなった三淵さんの通った小学校でした。明治末期にできた師範学校の附属です。朝ドラが始まってから、小学校の同窓会グループのFacebookは、盛り上がっています。
そんなご縁も感じつつ、楽しく観ている朝ドラです。
寅子は父より先輩の法律家なのに、父よりずっと新しい考え方で、憲法14条を真っ直ぐに受け止めていることに、私もこんな親に育てられたかったなぁ、とため息が出ます。
父は
「憲法14条なんて、あり得ない。全て人は法の下で平等だなど、言ってるが、平等などあるはずない。」
と、言っていました。
父には「家族制度」廃止の民法改正も、通用致しません。
父が我が家の憲法、そんな家で育った私からすると、寅子が男女平等にこだわり、婚姻制度にも疑問を持ち、ひとつずつ悩みながら、闘いながら前へと進んでいく最先端の生き方は、カッコよく、娘のゆみちゃんが羨ましくもあります。
日本で初の女弁護士のひとりであり、判事として裁判長まで勤めたことに憧憬しかありません。
家族を自分の所有物であるかのように捉え、自分の思うようにならないと大声で怒鳴って威嚇する父に育てられ、すっかり戦意喪失、自己肯定感がほぼゼロの私は、何かをやりたいという意欲も沸かないグータラ体質ができてしまったと、父のせいにすることで、精神状態の均衡を保っております。
あの時代に、自分の能力を活かし、世間の向かい風に負けず、偏見に屈せず、自分の道を突き進んだ寅子には、それを理解し応援してくれる家族がいたこと、戦争で悲しいことがたくさんあったものの、強く信念を持って生きるだけの自己肯定感が満ち満ちていたのだろうな、と羨ましく思います。
寅子の母の存在も大きかったことを振り返ると、私には私を庇ってくれる母も、応援してくれる母もいなかったなぁ、と改めて悲しく思うと共に、そういう家庭(家庭とも言えない独裁軍国家、ヒトラーに支配されているような環境)で育った私は、自分の家族作りにもたくさんの失敗を重ねてきたことを反省するばかりです。
晩年の数年は母の看病に通い、母亡き後は、献身的に父の世話をし尽くした私に、怒鳴ることはあっても、一度もapologizeもappreciateもなかった父のことを思い返しながら、
我が子には、未熟な母で ごめんねと
今こそ言わねば 古希の夏
今日も朝から30℃。暑い上海です
お読みくださり、ありがとうございます