奈良県天川村。
この地の森を奥深くに入ったところに、大峰山系がある。
平安時代、古くに修験の地として拓かれた。
大峰山の麓にあるのは、洞川温泉という郷だ。
この山に初めて登ったとき、一面の霧が立ち込めていた。
そこで、何か大きな存在の胎内にいて、
外界と今いる場所は、全く違う世界で、
自分の中で何か大事な変身が起こっている
そんな気持ちだった。
霧の山は気持ちがいい。
霧や雨だと、景色が楽しめないなんて人は、
きっとちゃんと山に登ったことがないんだと思う。
もちろん、雨が降ったりすると、危険は増す。
滑落や、山の地面が崩れることもある。
大峰山(大峰は山系の名前なので、正確には山上ヶ岳だ)は、
常に崩落して修復中の箇所があり手放しに安心できる山ではない。
でも、晴れた山でもそれは同じだ。
ちょっと確率が上がるに過ぎない。
人間は死ぬときにだけ、死ぬのだ。
また、山岳愛好家にとって、
霧は警戒の対象だ。
いつ突然に、天候が変化してもおかしくないからだ。
1000mを超える山だと、雷雲が立ちこめることもある。
そんなとき、ゴロゴロと低く唸るそれは、
頭のすぐ上から音を投げ込んでくるように感じる。
ぼくは山が好きでよく登る。
装備も一通り揃える。
でも、こうした危険には無頓着だ。
明らかに危険な時には登らない。
一般的に危険と言われているコンディションでも、
自分が直感的に大丈夫だと思えれば登る。
その辺の感覚は鋭いと思う。
ダメだったら引き返せばいいのだ。
せっかく登るなら、どんな天候も楽しみたい。
小雨が降る山上ヶ岳を、左手に傘をさしながら登ったこともある。
シーズン終わりの平日で、数人としかすれ違わなかった。
両手を使えるようにしておくのが、登山の基本だ。
転んだ時に体を守るためだが、
そのときは濡れたくなかった。
体はなるべく乾かしておきたい。
濡れると寒いし、何より不快だ。
大峰山は修験の地で、山頂には、
金剛寺が鎮座している。
年配の修行者でも登れるように、歴史を通じて、
道はある程度整備されてきた。
片手がふさがっても、足取りに気を配れば問題はない。
ぼくは、この霧の中を登っていく。
大峰山には、3回登った。
晴れも、雨も、霧も経験した。
当時の写真をレタッチして仕上げ、
一つのテーマのもとにまとめていく。
すると、時期も年も違う3回の登山の記憶が
ごちゃごちゃと混ざっていく。
こうして、人の記憶は変わっていくんだと思う。
記憶を思い起こすことは、
その時に一番都合がいいと感じるものを引っ張り出してくることだ。
楽しいから、楽しい記憶を引っ張り出す。
悲しいから、悲しい記憶を引っ張り出す。
人間には、今感じていることを拡大させたい欲求があるらしい。
破壊的な気分の時には、「破壊すべき嫌な記憶」が思い起こされる。
でも、思い出していくと、その記憶はどんどん変わっていくように思える。
どこか色あせて、刺激が減る。
楽しい記憶も、悲しい記憶も、怒りに満ちた記憶も、
感情が抜け落ちて、冷静に見ることができるようになる。
記憶の情景はセピアやモノクロで表現されるイメージがある。
この印象はきっと正しいんだと思う。
ぼくは、嫌な記憶を思い出しても、それを止めようとはしない。
自分がその瞬間、感じていることは真実だ。
それを止めてしまうと、自分の中の流れをせき止めてしまう。
それに、どんな感情も何か創作するきっかけになる。
ぼくが表現したいことには、今までの体験の質感が必要だ。