先日、ヨシダナギという写真家の写真展に行ってきた。
場所は渋谷西武デパートB館の8階だ。
この写真家はアフリカの僻地に旅しては、少数民族を撮っている。
「アフリカ人のかっこよさ」を伝えたいそうだ。
ぼくは、しっかり調べ物をして、正確に書くということができない人間なので、
この作家は、本も2冊くらい上梓していた。
1冊はアフリカ旅の本、もう1冊は、今回テーマにする『拾われる力』という本だ。
この本では、ヨシダナギさんが、いかに「拾われてきたか」を書いている。
世の中には、「拾う人間」と「拾われる人間」がいるらしい。
彼女は、「拾われる人間」らしいが、
ぼくもどう考えても「拾われる側」だ。
拾う人間は、なんでも人並みにできて、社会にしっかり適合する。
24歳になって、わかってきたのだが、
ぼくは「人に合わせる」力が項目ごと欠如しているらしい。
今までは、万能人間になろうと、無駄な努力をしてきた。
ただ、やっと気付いたのは、
「自分はそうはなれない」
ということだ。
ぼくにあるのは、空間把握力と色彩感覚、そして行動力だ。
何かに没頭することは得意だけど、
注意を自分から分散させるとはてんでダメだ。
数字の計算とかはできないし、
複雑な事務作業はできない。
人と会話するときも、興味のない話題になると、
意識の焦点がどこかへ行ってしまう。
マシンガンのように話しかけられると、
それはもうノイズでしかない。
話題を切るか、どこかへ行くか、反応できずに無視をしてしまうかだ。
最近、自分自身の営業をしている。
でも、困ったことに営業も向いていなかったようだ。
今までは、そうしたことに「ちゃんと」対応しようとしていた。
ただ、最近は、「もうこれは自分にはできないんだ」
という謎の安心感とともに、「ちゃんと」を放棄してしまっている。
こんな人間は、意外と多いんじゃないかと思う。
ぼくは、高校受験をして早稲田大学の付属校に入った。
大学はそのまま早稲田の法学部にいった。
なぜ、こういう右脳系の人間が早稲田の超論理系の学部に行けたのかは謎でしかない。
今、写真を撮ったり、作品を作っているときはフロー状態に入っていると感じている。
フロー状態では、とても集中していて、それでいて疲れない。
完全なインスピレーションを受けることができる状態だ。
高校・大学でテニスをやっているときも、このフローに入っている感覚を経験した。
ただ、振り返ってみると、勉強でこの状態に入ったことはない。
読んでいると時間を忘れるような本はあるけれど、
残念ながらそれは「学校的な」勉強には入らない。
ぼくにとってフローはアウトプットなのだ。
何かを自分の中から出すとき
あるいは自分を何かが通っていくとき
この感覚は訪れる。
不幸中の幸いだったのは、何かを書くときはフローに入れるということだ。
おかげで、長文の筆記試験ばかりの法学部で
のらりくらりと単位をとっていくことができた。
きっと教授は、その生徒に法律の知識や考え方がないとわかっていても
「こいつは書くのが好きそうだな」と感じると、評価をあげてしまうんだろう。
大学は教授の一存で成績が決まる世界だ。
100人の答案を見てたら、ごく少数の立派な答案以外は、
何が何だがわからなくなるに決まっている。
学生は大体、法律のほの字も知らない。
きっと
キラキラ光る宝石を大切に拾い上げたら、
他は不毛の砂漠地帯だ。
だいぶ話が飛んでしまったが、ヨシダナギさんの話に戻る。
彼女も、自分の得意なこと、好きなこと以外はできなかった人間らしい。
万能人間になれない、自分の好きなことでしか努力できない人間は、
「拾ってくれる人」を探す努力をしたほうがいいらしい。
ぼくは、いい人間関係の作り方はよくわからない。
それに、巷に溢れている「いい人間関係の作り方」は
ぼくに実行できないことばかりだ。
だから、こうして自分の内面を外に出していくことで、
社会の中で目立つようにしていこうと思う。
自分の中にこもっていては、誰にも気づかれない。
書くことは、得意だし、好きなことだ。
好きなことをすることが、自分のブランド化の最高の近道だということを
自分を使って実験してみようと思う。
ちなみに、写真展は大体「撮影可」なのだが、
ヨシダナギさんの作品の写真はない。
他の写真家の作品を写真に撮るのって、
なんだかなあと思ったのだ。
Nagi Yoshida(ヨシダナギ)Official Web Site
ヨシダナギの拾われる力