
4.前回の話で書き忘れたテレビとホテルのバーの話をちょっと書きます。テレビはクリケットの印象しか残っていません。チャンネルを回してもクリケットの放送をどの放送局でもしていていました。ホテルのバーは数回 一人で飲みに行きました。席はなくカウンター式の立ち飲みでした。小さい場所に宿泊以外の人でいっぱいで皆んなビールを飲んでいました。種類は2つしかなく日本にも1つはある種類でしたが忘れてしまいました。今は酒もタバコもダメなのでよく分かりません。学生時代の[ハイライト]を懐かしく思うのは同年代の人はお分かりでしょう。さて日本に帰った私は忙しい毎日を送っていました。バブルのさかりでわけのわからない仕事も多々あり出張で九州の方に行ったりしていました。そして新卒の新入社員も7から8人入ってきたと思います。派遣でかなり儲けていて事務所では 儲けていないと思います。そして私は独立することを考えていました。それはちょっと 社長についていけないところと派遣が主流ですので 人の出入りも激しく人間関係も大変なのと体調面もあったと思います。何よりも バブルで今がチャンスと思ったのもあったと思います。私はその設計事務所で2年間お世話になり イギリスまで行かせてもらい社長には感謝しております。ちょうどバブルという良い時代のせいもあったのですが?私がやめると家に1本の電話がかかってきました。事務所の片隅に机が1つ置いてありたまに 知らない人が来て何か机に向かって書類作成などの作業をしていました。前に書いた電気の派遣で施工管理の仕事をしていたのはその会社で公共施設というのは米軍の施設です。そこからの電話でうちの会社の仕事をしないかということでした。その設計事務所は90%以上防衛省施設局の仕事をしており本社は九州にあり今まで主に沖縄方面の仕事をしていたのですがバブルのおかげで東京の方の仕事が増えて人が足りないということです。防衛省は六本木にあるのですが移転して市ヶ谷(三島由紀夫が切腹したところ)の方に引っ越しその跡地の六本木の土地をバブルのおかげで高く売れるということで 大々的に自衛隊の建物を建て直すことになったのです。本当は施工管理は米軍施設のみだったのが金額が大きくなったので施工管理がつくことになりそれで私の方に電話があったのです。東京事務所の設備担当(電気担当)のお偉いさんに会いました。その人は沖縄の人でいかつい顔のがっちりした人でしたが優しい人で社員になるかどうか聞いてきました。私はすぐに会社に縛られるのが嫌なのと景気が良くて今がチャンスだと思っていたので契約社員でお願いしますと言いました。後にこれが私の運命を大きく変えることになったと思います。そして私は朝霞駐屯地の建物の施工管理をすることとなります。駐屯地内の出入りのパスカードを取るために戸籍謄本と大学の卒業証明書を取った思いがあります。多少の審査があるみたいです。施設局監督官代行 ということですが早い話が監督官と工事業者との間の使い走り的なようなものだったと思います。施工管理の仕事は大きく分けて3つあると思います。1つは施設局の仕様及び設計通りに施工されているか 2つ目は他業者との打ち合わせ建築と電気になります。民間と違い分離発注のため全てにおいて対等なので建築に対して設備業者の要望をすることになります。今まで散々組下で建築にいじめられた覚えがある私にとっては信じられないことです。3つ目は最終的に一番大切な設計変更になります。全て税金ですのでそれは局にとってもお金に関わってくるので気を使うところです。設計図によっては大きく変わってしまう場合とたまに自衛隊の方からの要望があリ変えてしまう時もあります。変更図を書いて積算し増減金額を決定します。後の会計検査に関わってくるのでかなり局の監督官も気を使っています。会計検査は施設局にとっても1大イベントでそのために全てあると言ってもいいくらいです。設計事務所の人も4日ほど別室に待機させられます。どの物件が選ばれるのかは分からないのですが朝霞にいた5年の間に私の担当した工事が一度だけ選ばれ大変だったことを思い出します。朝霞の工事は3工区に分かれていて1工区は某大手設計事務所、2工区は知らない 設計事務所、3工区は私の担当する設計事務所でした。1工区に建築が4から5人、設備が2たり、電気が 二人ほどでした。あと土木が 3工区全てを見ていて私は知らなかったのですが日本一の土木設計事務所だったようです。全て合わせて事務所には30人以上いたと思います。事務所はほとんど年配の人で当時 私は37歳ぐらいでしたが私が一番下だったような気がします。2工区に最初 若い人がいたと思いますが1ヶ月足らずで来なくなってしまいました。2工区は特にひどく OB とか年寄り軍団 だったと思います。1工区はこの業界では誰もが知っている大手設計事務所でしたが社員もいたと思いますがほとんど年配の派遣の人だったと思います。後に私の工区に建築の方に新入社員のような若い人が1人 入ってきました。業者もそうですが局の方が「お前らいつも仕事を廻しているのに肝心な時にやらないのか」と行ったとか言わないとかそれほど バブルはすごく民間で良い仕事がいっぱいあったと思われます。業者は全て名のある会社が入っていました。特に建築は誰もが知っている会社です。設備は一部上昇の会社も入っていましたが長年施設局の仕事をやっている会社がほとんどだったと思います。六本木の施設局がある防衛省には週に1から2回書類を持って行っていました。ちょっと朝霞駐屯地について少し書きたいと思います。朝霞は中央音楽隊が有名で私の記憶が正しければ競馬のファンファーレをしていたように思います。宿舎は初め見た時 びっくりしました。木造建物の裸電球でそれはひどい建物でした。これでは隊員も集まらないのは当然だと思ったものです。ほとんど防衛予算は米軍のために使われていると思います。後に厚木米軍基地と横須賀基地を見てその考えは正しいと通観しました。防衛予算を増やすそうですが使い道をよく考えてもらいたいと私は思います。ただアメリカのためにだけ増やすのがあれば反対と言わないまでもアメリカを信じられない気持ちです。トランプは何を言い出すかわからないと思います。中国に対して毅然とした態度を取りアメリカに対して媚びへつらうことが日本の国益に有することでしょうか?自衛隊の仕事に携わったものとして自衛隊優先を考えてもらいたいものです。1工区年間50から60億で3工区全体で年間200億近く5年以上で1000億かけて 朝霞駐屯地のほとんどの建物の建て替えが終わりました。バブルは終わりを告げ景気は停滞し始めていました。






また ダラダラと書いてしまいました。次回が最終回です。題目なので また言います[さて ここはどこでしょう]5.に続く