先日、花盛りの上野へ行ったのは、こちらの見学申し込みをしてたから。
湯島に残る、黒沢ビルです。
![]() 東京レトロ建築さんぽ [ 倉方俊輔 ] この本に紹介されていたのですが、湯島にこんなビルが残ってるとは全然知らず、 月に1回の公開日に申込み、ウキウキやってきました♪ ![]() |
現オーナーの方にご案内頂いたのですが、この辺りは戦争でほとんどの建物が
焼け落ちた中、ここと、もう1軒だけが残っていたのだそうで、ビルエントランス部分
の屋根なども、当時のままなのだそうです。
昭和6(1931)年築 石原暉一設計 RC3階地下1階の建物です。
ビルの前を通り過ぎるだけでは目に入りませんが、このビルには見事なステンドグラスが
入っています。
・・・それもそのはず、日本でステンドグラスを広めた第一人者の一人、小川三知氏のゆかりの
建物だったのです。
先日、目白で開かれた、日本のステンドグラス研究者 田辺千代氏による講座で買ってきた
冊子の内の1冊にもちゃんと紹介されてました。(買ったまま、読んでませんでした。お恥ずかしい。)
小川三知氏は慶応3年、静岡の藩医 小川清斉の次男として生まれ、長男が早世したそうですが、
自分は継がず、弟に家督を譲り、一高からできたばかりの東京美術学校日本画科へ進学し、
橋本雅邦氏の元で山水画を学んだのだとか。
そう、ですから、ここは、小川三知氏の弟さんが建てた建物なのです。
当時、小川眼科といえば、御茶ノ水の井上眼科、本郷の明々堂と並ぶ有名な眼科だったそうで、
相続で手放すまでは、今の建物の裏側、不忍通りまでの広い敷地に、入院施設も整った大きな
建物が建っていたのだそうです。
弟の剣三郎氏は建設にあたり、兄の三知氏に多くの作品を依頼し、ステンドグラスは完成
していたそうですが、ビルの完成を待たず、三知氏は亡くなったのだそうです。
入り口入って直ぐのステンドグラスは、「鶏鳴告暁」の図柄になっているんですね。
鳴いている声まで聞こえてきそうです。
次の扉までの間には、かわいらしいフォントで番号がふられた下駄箱があります。
当時は、なんと、ここに下足番がいて、患者さんの靴を管理されていたんだそうです。
今はビル内を区分して賃貸されていますが、当時は、この建物全体が小川眼科
だったのだと分かります。
そうそう、「小川」なのに「黒沢ビル?」と、思いますよね。
三知氏の弟、剣三郎先生が亡くなられた後、義理の兄弟だった黒澤先生が病院を
引き継がれたのだそうです。
そして、三代目の黒沢先生の後、小川医院の元事務長だった吉弘さんに引き継がれ、
ここまで守り続けられているのだそうです。
続きます。