15 主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る

16 あなたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう

17 しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する

18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる、と主は告げられた。

19 ネゲブの人々はエサウの山を、低地の人々はペリシテ人の国を占領する。また彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。

20 イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民は、カナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。

21 救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主のものとなる。

 

ちょっと難しい預言ですが、やはりエドムの滅亡が預言されています。

 

ただ、冒頭の15~17節は、主の日、つまりいよいよイエスが再臨される日の近づきに際しての状況であり、これは私個人に直接的な影響を与えているものだと思います。

 

それは、罪の報いを受ける日ということになっていますが、ここはまだ私には謎です。

大患難時代と言われるイエス再臨に至るまでの7年間。

福音知ってそれを自分のものとして握りしめているクリスチャンは、その時代が始まる前に上げられる→携挙されているという預言からの予測もありますし、いやそうではない、というものもあります。

 

もし私がこの世での生のある内に大患難時代迎えるとしたら、そりゃあ上げられた方が良いです。その苦しみを味わうことが無いからです。

 

しかし、今日のみことばにあるのは、どうやら、上げられなかったクリスチャンか、大患難時代の前に携挙が無かった場合のクリスチャンへのみことばと取ることが出来、これはこれで備えとして重要だと思いました。

 

先述の携挙のタイミングについての議論は、おそらく決着することはありませんから、聖書を頼りに最悪に備えておくことは、当たり前のことです。

 

その時代のクリスチャンの姿というのが、おそらく「のがれた者」ということなのでしょう。シオンの山に逃れていくということとも取れます。

 

正直、イスラエルの山に到達出来るのかとか、どれほどの人数になるかとかも想像出来ないのですが、間違いないことは、クリスチャンは逃れなければならないほど追われるようなことになるということです。

 

弱い肉の体を引きずりながら、この世で霊的に生きることは困難が伴うのですが、世界中がそのようになっていくのではないでしょうか。

 

その片鱗は既に「性の氾濫」に現れており、性交を、快楽を得る手法として楽しむことを、まるで人が生まれながらにして得ている権利、つまり人権のように考えられだしています。婚外での性交も権利、売買春も権利のように扱われだしており、まるで神に対して「何が悪いのだ」と開き直っているような世界になってきています。

 

また、同性愛者への集団心理としてのあわれみがとんでもない方向に派生して、今では、性別なんてないという概念が正論っぽさを帯びだしています。

 

犯罪行為の基準については、世の刑法も神も、罪に定められるところは似通うところが多々あります。

しかし、性について、世に良いとされだしていることは、神は罪であると断じられるわけで、この部分で、神を信じる者が追われる要因化する可能性をひしひしと感じています。

ヤコブの家は、世から逃げる運命にあることを感覚的に察知しています。

もちろん、その理由は、性のことだけではありません。

 

どうすればよいのかなあ、と思いますね。

 

私は、神が絶対に受け付けられない罪というのは、先にも申しました「開き直り」から来ると思います。

 

信仰ではなく、倫理・道徳の範疇であっても、婚外の性交というのは、もともとは褒められたものではなかったでしょう。

他人の配偶者とそのような関係を持つことは、立派なことでも、あって良いことでもないでしょう。

 

しかし、みんなやっているからとか、性は楽しめばいいとか、そういう風に嘯きながら、別にいいでしょ死ぬわけでもないし、みたいな「開き直り」で、本来咎められるようなことを肯定していくことで、だんだんとおかしな倫理・道徳へと変わっていってしまうのだと思います。

 

別にいいでしょ、と言いますが、神は確実におられますから、ちっともよくありません。

別にいい、と思っていたことが、実はちっともよくないことだと知らせる役目が、私にはあると思っています。それが、福音を伝えるということです。

 

クリスチャンにもいますし、私もそういう風に思わず考えてしまうこともあります。

「人は弱いから仕方ない」という考えです。

これも一種の開き直りです。

 

実際、仕方ないの時はあるとは思うのですが、もしそれで終わってしまったら、どんどん神から離れていくことになると思います。

その神と逆方向に働く引力に抵抗していくことが、悔い改めであり、実際に行動をあらためていくことであり、そういうしんどさから絶対に逃げない姿について、イエスは「幸いです」と言ってくださっていると私は思います。

というか、私に関しては、それが精一杯です。

 

この預言書の本意とはかけはなれてしまったかも知れませんが、エサウの家、つまりエドムの滅亡は、実は同じような神への「開き直り」の性質が原因であったのではないかとも思います。昨日のQTでたどり着いた神の軽視です。

 

そこから学び、世を見るのではなく、神を見るように。

いつも同じようなところですが、そのようにして罪と戦いたいと思います。

 

終わりの日に、厳しい苦難の中で神を求めても、神を軽視したものは神から開き直られることになります。

あなたの報いは、あなたの頭上に返ります。