アサフの賛歌
1 神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。日の上る所から沈む所まで。
2 麗しさの窮み、シオンから、神は光を放たれた。
3 われらの神は来て、黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その回りには激しいあらしがある。
4 神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せられる。
5 「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」
6 天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。セラ
7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。
8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄れらやぎをも。
10 森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。
11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。
12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
13 わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
やがてやってくる裁きの日、それは、神が来られたことを明確にあらわされて、「あれはきっと神様だ」というような曖昧なものではなく、明確に神がその存在を示されるのだということがわかる。
そして、裁きにも曖昧さが無い。
神と住まうところ「上なる天」なのか、永遠に激しい苦しみにあう「地」なのか。
どちらかだ。はっきりとするのだ。
今の世界は、はっきりしない世の中だと言える。
そもそも、神がその存在をはっきりと見せられていないこともあって、判断とか嗜好によってその肯定や否定が決められるという、人間判断に委ねられた世界であるよううに思う。
よく、「神は信じる人にはいる」「信じない人にはいない」なんてことを言う人がいるが、それは言い得ているのだ。
しかしそれは、世の中の状態を言っているのであり、神については何も語っていない。何も知らない無知な話である。
そのような中だから、神はいる、と信じることは、真面目な人ほど難しさがあると思うし、なんだか「神なんていない」としている人の方が、正しさとか誠実さを感じるというのもわかる。正直な人だなと。
しかし、神はその存在を人に依存されるような方ではない。
やって来られて、明確にされると言うのだ。
一方、私を含めて、現在この世で神を信じる人の拠り所は、やはり神そのものなのではあるのだが、どうしても自分の行動にその妥当性を見出すことで、神は絶対の絶対にいるのだ、と肯定したがる傾向があるように思う。
時にそれは、”ささげもの”とか”生贄”に神の存在を頼るということで表面化する。
しかし、神は生贄で生計を立てておられるわえではない。当たり前だが。
だから、感謝の表れとして約束(戒め)を守れよと言われるのだ。
ある寺?神社?で驚きを覚えたことがある。
境内に供え物専用の建物があった。そこには米俵が摘みあがっており、その他のきらびやかなものが数多く置いてあり、それが一般公開されれているのだ。
名義のお札もかかっている。大企業、不動産業者だった。
こんなにもやるのか、と。
考えてみれば、参道に建てられている鳥居のようなものにはそれぞれ、企業や個人の名前が入っていた。献金か献品した人のことだろう。
神の存在を人に頼るとは、まさにこのことで、人もまた、派手に献金やらをやることで神の存在を肯定するように仕向けて行く。そのことを、世では宗教と言っているのだと思った。
架空かよくわからないものを神としてありがたがって、ほら君も、ほら君も、ということでやがて勢力化・権力化しているのだ。
そして、その手法哲学をありがたがるのだが、偶像とはこのことで、人間都合に合わせたハリボテの神だ。
しかし、聖書にあらわされているこの真実の神は、全くそれとは違うことがこの編でも示されている。
そして、そういう世のやり方に惑わされるなと言われている気がする。
そんなもんで私を飾ろうとするな、という風にも感じるなあ。
まああれやこれやと、私は性格が屈折しているものだから、神を信じない者、他所の神みたいなものを信じる者のことをこうしてやんわりと揶揄してしまうのだが、神は、それも不要だと言われている気がしてならない。
やがて、神はご自身で全てを明確にされるのだから、ただ「伝える」という役割と感謝に徹しなさいよ、と、そう言われるのだろう。