「人生やり直したいと思いますか?」

と、隣の研究室の教授(女性、50歳)に雑談で聞かれた。

「いやぁ、こんな大変な人生、一回で十分ですねぇ」

そう答えると、教授は「そうですよねぇ、私も早く死にたいと思ってるもの」といった。

 

僕は本当のことを言うと死ぬのが怖いタイプだし、どんなに長生きできたとしてもいつかその日が来ることを想像すると冗談でなく震えが起こる。こんなに若くからそんな想像をしていることがいつも損だと思うが、抗えない運命が人間にはあるのだという残酷さには本当に辟易、というか悲しみに近いものを覚える。最近では、どんなに長生きしても友達がみんな先に死んじゃ意味ないか、などと考えて自分をいっとき慰めたりするが、それでも怖いものは怖い。友達の90歳のババアは「いつ死んでもいい」と言っていたから、そう思える日が本当に来るのだろうかと思ったが、この間ババアがちょっと一週間ばかし中国に旅行に行って帰ってきたら「来年も行きたい」とか言い出したので信じる気を失った。

 

ではなぜ上述の教授にあんなことを言ったのか。それは、教授の返答を先に予測していたからだ。教授はこちらが大学学部生だった頃から教員で(当時は一介の助手だった)、当時から研究室を訪ねて2時間も平気で喋り合っていた。仲がいいというよりは、お互いにただただお喋りで、時間の感覚というものが鈍いせいだろう。時間の感覚が鈍いのはどちらかというとあちらの方で、僕は相手に合わせる性格だからに過ぎないのだけれど。その相手に合わせる性格、というのと、それなりに付き合いが長いので、おそらくここでの最適解は「人生は一回で十分」だと察したという話だ。

 

僕はどちらかというと懐古厨で、古いことを思い出しては丁寧に心の引き出しにしまい、またしばらくすると開けて眺める。新しいことよりも思い出の方が好きで、だから昔の友人に会う機会があろうものならあまり思い出を汚されたくないと思って躊躇してしまう。と、同時に懐古厨でもあるから昔に浸りたくて会いたい気持ちも生まれる(アンビバレント)。そのせいだろうか、付き合った女性と長くは続かないのは。どんなに短い付き合いでも後では思い出すし、永遠に付き合うにはさっさと別れるしかない、というのもあるのかもしれない。この間一年生の学生「先生、恋愛ってなんですかね!」と突飛な質問を受けた時にも「付き合うことはおわること、最初から別れるつもりで付き合うのが恋愛ですよ」とこれまた突飛のカウンターパンチのようなものを返した。無論、学生の求めていた回答ではないのでノーダメージであった。学生の方は「ディズニー行くと別れるって言いますもんね」とか、それまた違う例えを出してきたから、「いや、そうではなくてね……」と続けようとしたら、彼女らはもうその話題から興味を失っていた。

 

恋愛に限らずだけれど、一つの単語に集約するとうっかり恋愛とは一義的なものだと勘違いしてしまう。私の「好き」とあなたの「好き」はそもそも違うものを指しているとか、「付き合おう!」と合意したピークの瞬間を恋愛だと認識したらその後の期間は恋愛と呼べるのか、とか、だから人間は別れる別れる詐欺をするのだとか、結婚したら恋愛はおわり?結婚しても恋愛と呼ぶのだとしたら、それはそれで当初の「恋愛」とは同じ意味ではないでしょう、とか。言葉はとかく人間が解釈の幅を狭めて安心するために存在することがあるのだと、とかく恋愛とはその最たる例であると、そういうことをこの機会に教えてやろう、というつもりだったけれど、まあ上手く行くはずはない。というより、本気でそれをやったらある種アカデミックハラスメントとセクシャルハラスメントの合わせ技のようになりかねない。

 

話を戻すと、僕は未来より過去を大事にする人間だと思っているので、なかなか女性とは上手く続かない。この辺で別れたらいい思い出にできそうだと思ったりするし、「別れましょう」と相手にいわれたら、どう格好つけたら素敵な過去として相手の印象に残るか(意地の悪い言い方をすれば、後悔させられるか)を考えている。それはいわゆる「素敵な別れ言葉」と心のうちで呼んでいるのだけれど、要するに、人間はどうせ目の前のものほど大事にできないので、次に付き合ったり結婚した相手のこと、現状の生活を一瞬でも飽きたと思った瞬間、自分のことをいかに思い出させるかという、そういう怖い発想をするのだ(蠍座的な)。

 

そういう意味では、付き合う前までが楽しい、という定説は正しい。でもこの定説が定説たる所以は、その瞬間男も女も本当に成就するかどうかを確認していないからだ。確認したら付き合うわけで、それはおわりの始まりで、でも確認するまでは恋人関係が始まるかもわからないわけで。だから学生から恋愛相談を受けると僕は「好きっていわない、いわせないゲームをしなさい、それが楽しい恋愛であって、気持ちを確認することは大事じゃない」と教えている。学生はいや、お互い好きかどうかで悩んでるんですけど、という顔をする。こちらは、わっかんねぇか、子供だからな、といって笑う。そういうゲームが楽しめないのなら、「付き合う前までが楽しい」は結果論でしかないのだからなんの意味もない。もっと言えば、少し前に流行った「蛙化現象」に抗う方法はこの一手でいかに長く続けられるかにかかっているのでは、とすら思う。

 

こういうことをいうと不誠実な男の意見だと思われるかもしれない。というかよく思われるし、若い女の子と飲みに行くとその友達に怒られたりする。「あんたはっきりしろよ」と。いや、男の話ではなくて、そういう状態でお互いがいかに楽しめて、事実上恋愛関係、というジレンマをいかに作り出せるかの話なのだけれど。ジレンマやアンビバレント、これは僕の一番好きな言葉かもしれない。