続きましたWK-Pでございます。<(_ _)>
ここ2、3日はなんか書く内容が今一だなぁと感じてたんです。
本の内容をもとに書こうとすると、筆者の伝えたいことと違うことを書いてやしないか?とか、
ただ本の内容を書いてるだけで、そんなのただのパクリだろ!と思われてるだろうなぁ。
て感じで書いてて楽しくありませんでした。
更にはアクセス数とか気にしたりして、自分で書いておきながらメッチャ見返りを求めてたなぁと昨日の投稿で気づきました。はい!
こりずに雲黒斎さんの本をもとに続きます。
(このフリでまた書くなんてそうとうハートが強い?いえいえ、ただMなだけなんです)
なぜこんなにも雲黒斎さん押しかと申しますと、
今私が伝えようとしていることに気づけたのは、ぶっちゃけ彼のメッセージのおかげです。
そしてそれを自分の中で納得いくまで考えて考えて考え考えて考えていったとき、はっ!となったんです。
そのことに気づけたことで、ゆるふあな生活を過ごせるようなりました。
彼のメッセージが偉いとか、すごいとか他のメッセンジャーはどうだとか、伝えたいのはそこではなくて、純粋に気づけたことに対するお礼と感謝の気持ちを表したくてブログをはぢめました。
そしてまた誰かの気づきにつながってくれたら、これほど幸せなことはありません。
(まぁそうならなくても別にいいんですが、世界中の誰もが助けなど必要なく、それぞれのペースで学んでいるので、私のただの自己満ですぅ。)
というわけで(どんなわけだ?)
人生の目的は”幸福とは何かを知ることだ”と書かさせていただきました。
本には他にも人生とは善を知るためだ、と書かれていたり、入試問題「愛とは何?」を受けてこの世に入学して来たなんて書かれたりしています。
だからあなたのいる世界、周りを見渡せばあなたの魂の学力レベルが低いことに気づくでしょう、未だに争いが途絶えず、それぞれが傷つけあうなんて幼稚園児並みだと、皮肉ってる表現もありました。
(こんなことではダメだよ。もっと善とは、愛とは何かを考え行動しようよと遠回しに伝えたいのかもしれません。)
私のこれに対する感想は、それでも問題ではないのでは?いいんじゃね?という立場です。
は?こんなにひどいことが起きてるのに、生きたくても生きれない人もいるのに、大切な命をなんだと思ってるのか?
と様々な意見があると思います。
残された家族は?傷つけられた人の思いは、そんなこともわからなくて何が愛だ!ふざけるな!
一般的にそうなると思います。
それでも、あなたにとっては問題ではないんです。
当事者にならない限りそれはあなたの問題ではないし、他人がどれだけ綺麗ごとやゴタクを並べようとも、その当事者以外の人にとっては問題は起こってすらいないのです。
だから悲しい事件を知って深く悲しんだり、必要以上に落ち込み、悲観することはないのです。
人が誰かを傷つけるとき、被害者が可哀想だ、加害者が悪だと決めつけるのは、はたして正しいことなのでしょうか?
加害者の立場を考えたことがありますか?一側面の情報だけ鵜呑みにしてはいませんか?それらは全て当事者にしか分からないのです。
もっと言えば当事者本人にもわかっていないのかもしれません。
決して人を傷つけることに賛成だとか、犯罪を助長してるわけではありません。
当事者でない他人の私たちにできることがあるとするならば、その出来事によって間接的に何かを学ぶことくらいしかないのです。
善い悪いの判断はその時代、その場所、その時々によっていともたやすく歪んでしまいます。
戦場においては人を殺すほど英雄だった時代もありました。
何故そんな風になるのか?
それは個々の受け取り方の違い、個々の学びの違いによって善悪自体が異なるからです。
心病む出来事を知ったとき、あなたは何を感じますか?どう行動しますか?
当事者でなく間接的な出来事としてあなたの前に表現されているのは、ひょっとしたらあなたが耐えられないからなのかもしれません。当事者では冷静に判断できないからかもしれません。
どう対応するかなんてその時になってみない限り、誰にも分りません。
あなたにとって、まだ起きてもいない問題に悩み苦しむのは止めましょう、ということです。
かなり脱線しましたが、次回続きます。<(_ _)>