5月13日に納車される事になっていた。

おそらく乗って帰る事は出来ないだろうと思っていた。なんせ免許を取ってからエンジンで動く乗り物を自分で操縦したことがないのだ。ただでさえ、ユニークなカブの操縦は練習が必要だった。

 

お店に行くと、大奥様が店番をされていた。少し慌てた様子で「とりあえず座ってください」と言われた。なんでも大旦那様はスペアキーを作りに、旦那様はお子さんのクラブの試合に応援にでかけており、現在私にカブの操作を一通り説明できる人物が居ないというのだ。それでは何時になるのかな?と思ったが、では自宅まで納車をお願いして、今日は帰るかと思った。しかし大奥様のお話だと、今日はこれから雨が降るので雨の日には納車したくない、来週の土曜日はとてもいそがしくて納車のために出張ることはできないとの事。平日は私は働いているので、こちらのお店の営業外の時間にしか在宅していない。よくよく考えると「ではどうしろと」という話ではあるが、とりあえず自賠責の開始日を本日にして手続きをすすめてもらうことにした。ずいぶん時間がかかっているが、私は店内をうろうろして、自分が購入したカブを眺めたりしていた。とりあえずの近所のホンダ取扱店に入ったら、この欲しかったカブ50バージンベージュがあったのだ。なんとも言えない気持ちでしげしげと眺めていると、大旦那様が戻って見えた。わたしはご挨拶をした。

 

大旦那様は70代くらいの人物だった。大奥様が「ここがわからない。」と言うと、大旦那様は素早く私の自賠責保険の手続きを進めてくれた。「じゃあ、ちょっと運転の説明をしましょうか。」と、大旦那様は店の前にカブを引き出した。鍵を差すところから、ギアチェンジのコツまで、ひとつひとつ丁寧に教えてくださった。私が「ウィンカーが左にあるんですね。カブはウィンカーが右にあるから扱いにくいと聞いていました」というと「昔はおかもちを左手に持って配達していたので、その関係で右にあったのですが、今のバイクはたいてい左にあるんです。」と教えてくれた。面白いお話が聞けたなぁと思った。「今日、雨が降る前にご自宅にお届けします。すごく近いし。」と言ってくれた。

 

私が家の前で待っていると、軽トラックに載せられてカブがやってきた。大旦那様は「もし一週間経っても怖くて乗れないよ、って事があったら電話してください。日曜日は仕事が休みなので、お手伝いに来ます。」と言ってくれた。ここまでしてくれるなんて、おそらく破格の事だろう。続けて大旦那様は言った。「絶対に、乗っていただきたいのです。自由に乗れるようになれば、それは本当に楽しくなります。」私はこの時に、絶対に頑張って乗りこなそうと思った。

 

カブを駐輪場所に移動させようとして、早速困難にぶつかる。後ろには動くが、前方には絶対に進まないのだ。96kgという代物を扱うのは、これが生まれて初めてだった。雨が降り出す中、カブをその場から10cmも動かせない。「バイクって引っ張っていけるものじゃないのだろうか?」と首をひねりながら、仕方がないのでエンジンをかけて、すこしアクセルホルダーを回して移動した。その日はそれで力尽きて部屋に籠って過ごした。ネットで調べるとギアが入っている状態なので動かないということが分かった。初心者というのは恐ろしいものだ。鍵を差したらギアがニュートラルに入っていることを確認するのは基本だろうが、まずそのような所作から身についていない。微妙にアクセルを回してバイクを引いて移動させるなんて事はこのうえなく危険なのだ。

 

ところで私は身長が148cmしかない。時々147cmになる。シート高738mmのカブ50でも、足つきはとても厳しい。まず乗り降りから練習を始めた。乗って、降りて、乗って、降りて…。バイクがこんなに重いものだとは…、汗だくになる。郵便配達や新聞配達の方々が素早く軽く乗りこなす光景と現実とは、かなり乖離している。シフトペダルの位置やリアブレーキの位置を確認に時間を費やした。

 

エンジンをかけて、アクセルを回す事はとても勇気が必要だった。そっと回すと車体はグラグラと揺れる。安定させようとさらに回せば急発進気味になる。初日はサイドステップに足を乗せることができなかった。

人通りの無い一通の道路で、「ボボボボボ…」と前進する練習を続けた。「ギアチェンジ」なんてまだまだ先だ。数日すると、取り合えず一速で前進できる様になった。ブレーキを使って停止して、足をつけることもできるようになった。しかしそうこうしている間に、燃料がなくなりそうになっているのに気が付いた。給油をしなくてはならない。すぐ近所のセルフスタンドへの経路を綿密に調べて、給油の方法はyoutubeで勉強した。命がけの給油は晴れた日の午前中に決行しようと決めた。

 

前進するだけなら、普通に出来るようになっていた。15km/hくらいになると、エンジン音がうるさくなるのがわかった。多分負担がかかっているのだろう。さてギアチェンジだ!と思ってペダルを踏みこむと「がくん!!」と車体が揺れた。そう、アクセルを戻すのをすっかり忘れていたのだ。まだまだ基本が身についていない。片側二車線の交通量のある道路に出るのは、まだ無理だろうと感じた。私は角まで来て、エンジンを停止させてバイクを引いた。休日の午前中の人も車もない通りまで来て、再び乗車した。ガススタンドはすぐそこだ。

 

給油自体は全部音声で説明してくれるので、難しくはなかった。帰りのルートは長い一通の道のりで、私は一時停止を守って、安全を確かめて進んだ。今まで私は歩行者の立場で過ごしてきたが、初めてドライバーの立場になった。「あそこで立ち止まっている人は、道を渡るつもりなのか?家に入るつもりなのか?」今まで気にもしなかったことが気にかかる。バイクでキャンプに行くことが最終的な目的だが、そこにたどり着くために焦りは禁物だと思った。