伊東純也のマネージャーというのは、D-Sports社に所属していた人か。植◯という人らしい。

 マネジメントをする会社としては、JSP(ジャパン・スポーツ・プロモーション)あたりが有名かもしれない。

 サッカーだけではなく、バスケ、ゴルフ等で活躍する選手をマネジメントをする会社というのが存在する。権力を持っているのか、チームに与える影響力が強いようで、経験が殆どないにも関わらず強化スタッフとして招聘される人もいるほど。伊東純也とズブズブの関係だったとしても何も驚くことはありません。

 マネージャーのX、事務所の社長、A子が揉めていたという話があるが、この話は本当なのかもしれない。初期の段階では伊東純也を除いた人たちで和解交渉を行ったと言われている。マネージャーの言い分は「ホテルに一緒にいたのがバレたら不味いから」というもので、「行為があったのがバレたら不味いから」ではない。だから加藤弁護士は「行為があったかどうかではない。すべてでっち上げだ」と話したのでしょう。

 かなり怪しいが、これだと辻褄は合う。伊東純也の「ただ巻き込まれただけ」という言い分も当然ながら成り立つが、こちらも非常に怪しい。


 罪を犯していながら、「巻き込まれた」「俺は悪くない」と言ってしまうのは加害者の心理や人格を考えると何もおかしいことではなく、よくあることです。だから「巻き込まれただけ」と発言するのは普通のことであり、この発言を鵜呑みにすることはできない。

 伊東純也の主張は、「こいつらが勝手にトラブルを起こしたのであって、俺は関係ない。俺は何もしていない。巻き込まれただけ。やったことがバレたとしても同意の上でのこと」という事になります。

 恐らく、このオチに持っていこうとしているのでしょう。突発的に受ける被害なので、証拠を残せるわけがない。そうなると伊東純也は証拠不十分の不起訴。Xというマネージャーは強制わいせつ罪などの罪で起訴されるという流れか、若しくは「2億の損害賠償を止めてやるから、Xも許せ」という話で落ち着くか。

 いずれにしても、どいつもこいつもクズばかりです。



 先日、傾聴僧の会が主催した「神仏習合によるスピリチュアルケアとは?」に参加してきました。

 いつもの場所。



 神仏習合の思想に触れたくて参加したのだが、神道と仏教が統一された思想は語られなかった。

 講師は元救急救命士の人で、その後、僧侶の資格を取得。臨床宗教師、消防チャプレンという聞き慣れない職種を日本に根付かせるために活動している。

 話の内容は主に震災復興に関することで、宗教者としての立場から何かできないかを模索しているようでした。


 僧侶たちと話をしていて思うのは、宗教者と一般人との考え方に乖離があること。特に浄土真宗と一般人との間には、かなりの温度差がある。

 事あるごとに「阿弥陀様が見ていて下さっている」「阿弥陀様が見捨てないと仰っている」「どのような人間であろうと阿弥陀様が救って下さる」などと話すのだが、これは宗教者と言っても良い御門徒相手なら通用したとしても、一般人相手では心の中に入って行くことは殆どないはずです。

 表向きには「ありがとうございます。大変、為になる話をお聞かせて頂きました」などと言いはするが、それは本心ではありません。ただ気を利かせているだけ。しかし僧侶は「相手に伝わった」と感じている。

 この件については、今回の講義でも言及されました。傾聴僧として活動している僧侶が講師(真言宗)に対して、私が常日頃から感じていることを話していたので、これには少々驚きました。僧侶でも私と同じ立ち位置で物事を見ている人がいる。


 講義の場で私も発言しましたが、消防チャプレン、臨床宗教師は日本で浸透させるのは難しいと思います。チャプレンや臨床宗教師は海外初のものであり、国によっては政治の中枢にまで入り込んでいる。

しかし、その国は一神教であったりと、宗教に対して国民の意識が高いところであり、日本とは社会情勢が大きく異なります。日本の場合はオウム真理教、創価学会、統一教会などのイメージが強く、宗教に対しては、あまり良いイメージを持たれていない。たとえ仏教であっても、宗教と聞いただけで大半の人は身構えてしまいます。この辺りが他の国と大きく異なる点です。

 生きていて困ったことがあっても、誰も宗教者のところには行かない。行くとすれば占い師やカウンセラーのところです。それくらい宗教は日本に根づいていない。というより信頼されていないのです。それを考えるとチャプレンや臨床宗教師を日本で根付かせるのは困難を極めると言って良い。

 因みにチャプレンとは消防チャプレン、警察チャプレンなど、職業ごとにあるらしく、宗教の立場から対象者と接することを心がけた職種。臨床宗教師は臨床の場で宗教を生かすことを目指した職種です。


 講義が終わった後、みんなで食事に行ってきました。


 祇園にある「ページワン」


 参加者の大半が僧侶で他は葬儀屋。やはり一般人の参加者はどうしても少なくなる。ぬいぐるみ病院の人は用事があるらしく先に帰ってしまった。その為、話の内容は宗教の話ばかりになりました。宗教以外の話をしたのは私ともう1人くらいではないか。宗教以外で話したのは主に医療です。


 傾聴僧の人の話が為になりました。「相手を分析することはできない。一般化もできない。相手のことは結局、分からない」というスタンスに立って傾聴をしているそうで、共感はしないらしい。

 医療の現場は、この辺りが古く、遅れている。相手の目線に立って、ひたすら共感するというスタンスを取ることが多いと思います。できる限り相手に寄り添う姿勢は大事ではあるが、この共感するというのが、曲者なのです。おそらくロジャースの来談者中心療法が根っこにある。

 来談者中心療法は、来談者を中心とする心理療法なので、相手に対して

「〜しなさい」「〜した方が良いのでは」などとは言わない。その代わり来談者を中心に据えているので、来談者の言動を肯定的に捉えるところがある。共感に努めます。

 実際は医療従事者が相手を中心に据えているのかと言われると、非常に怪しいものがある。一応、学校や勉強会ではそのように学んではいるが、ただ知識として頭の中に入っているだけ。人によっては綺麗さっぱり忘れている。

 傾聴僧の傾聴は、相手のことは分からないので、ひたすら傾聴して、相手が何を考えているのか、今後どうして行きたいのかなどを相手から引き出すことに努めている。

 相手にとって何が正しいことなのかなど分かるはずもない。だから共感はしないとしている。

 これを聞いた時、新鮮な気持ちになったのと同時にパズルのピースが一つ収まった感覚がしました。

 共感をする。というのは、心理学でいう強化にあたります。ペットや子どもが何かをした時に褒める行為は、その行動を助長する(強化する) 行為です。絶対に正しいことなら、その行動を強化することに不都合はないのかもしれないが、相手をコントロールする行為ではある。その為、アドラー心理学では「褒めてはいけない」としています。

 鬱状態にある人なら、共感することで気持ちが盛り上がる可能性はあるので、使い方次第なのかもしれない。しかし「その人が正しいと思っている。だから共感して、その考えを強化しよう」とするのはあまりにも短絡的で無責任ではないかと思う。


 以前、何かの心理学の資格を取った時に、箱庭療法やバウムテストは「相手から気持ちを聞き出すことが大事なのだ」と聞いたことがある。「この位置に〜を置いたから、このような性格だ」とか、「この位置にリンゴを描いたから、このような事を考えている」というのは分かるはずがない。統計を取っているようだが、信憑性の高いものではありません。それらのツールを使って相手から聞き出すところが重要なのであって、配置や色なんてのは大して役に立ちません。

 これが傾聴僧の言う「分析はできない」「一般化ができない」というものだと思う。


 仏教は法話として一方的に語りかけるばかりで、そもそも対話が少ない。それを良しとしない人たちがおり、その人たちは「傾聴することが大事だ」として傾聴僧を広めようと活動している。いつも行く神社の神主さんも参加者の1人です。若い僧侶にも教えているらしく、今後は今までとは異なるタイプの僧侶が現れてくることになります。今は僧侶と一般人との間に壁がありますが、それが取り払われる日が近い将来やってきそうです。

 夜遅くまで飲めない酒を飲んでしまいましたが、この日は有意義な1日となりました。