日欧EPA大枠合意。自動車増収分、ワイン・チーズ生産者支援の強化を
日欧EPAが、平成29年(2017年)7月6日、大枠合意になりました。TPPを超える貿易額の合意となります。このEPA合意により、自動車の関税が撤廃されEU・ヨーロッパへの日本車の輸出が増加されることが見込まれます。そのかわり、ワイン・チーズの関税が削減・撤廃されEU・ヨーロッパからのワイン・チーズの輸入が増加します。
日欧EPA合意は、日本経済の発展のために、特に自動車の輸出増加が期待されることで、重要な合意ということが言えます。
日本は、今までTPPに、もっと言えば、対米中心に貿易を考えていたものを、EUとの貿易を強めていくことで、更に日本の幅が広がったということが言えます。
トランプ大統領によるTPP離脱を踏まえて、日本がTPP以外の戦略を練り直す必要があったものです。
この日欧EPA合意により、今後、日米FTAの協議も進むと思いますが、その交渉も、対米関係だけに軸足を置いていないという意味で、有利に進むものと思われます。
その反面、ワイン・チーズの関税撤廃は、日本におけるワイン・チーズの生産者に対する大きな打撃になります。
自動車産業の発展のためにワイン・チーズの生産者が犠牲になるなどということがあってはなりません。
また、日本ワインや国産チーズは、国際的にも評価が高まっています。今回の日欧EPA大枠合意を機に、日本ワインや国産チーズの生産を強化して、対EUへの輸出額を増加させるような支援も行うべきです。
自動車増収分をそのまま全て生産者への支援に、などとは言いませんが、日本ワインと国産チーズの生産者に対する支援をより強化することは大切なことであると考えます。
相手にとって大切なものの譲歩
交渉ごとは何でもそうですが、譲歩が必要です。
問題はいつ、何を譲歩するかです。
最初から譲歩しては、交渉ごとはうまくいきません。ギリギリまで粘って最後に譲歩することが大切です。
そして、何より相手にとって重要なものを譲歩することが大切です。自分にとって大切なものを譲歩するのでは、交渉の結果負けてしまったことになってしまいます。相手にとって大切なものを譲歩することが大切です。
裁判でも相手が何を一番拘っているかを適切に捉えて、それを最後に譲歩することが大切です。それは離婚という個人間の交渉でも、大企業の行うM&Aでの交渉でも同じです。
今回の日欧EPA交渉では、どうだったのでしょうか。
その経緯は、次のブログ記事で詳細に書きましたが、日本にとって大切なものは自動車の関税撤廃であり、EUにとって大切なものはワイン・チーズの関税撤廃であったのです。そのため、他の論点がまとまった後の最後の交渉の詰めのところで、日本とEUとで、自動車、そしてワインとチーズの関税撤廃についてのギリギリの交渉が行われたのです。
EUがチリ同様2019年ワイン関税撤廃を要求(その1)〜日欧EPA交渉
この最後の交渉の際、自動車とワイン・チーズでは貿易額の大きさが遥かに異なり、ワイン・チーズの関税を撤廃したところで、自動車の関税撤廃など引き出せないのでは、という評価が報道ではなされていました。
しかし、EUにとって、ワイン・チーズは、その貿易額の多寡に関わらず、重要なものなのです。
そのため、最後にワイン・チーズを譲歩して関税撤廃することで、自動車の関税撤廃という大きな譲歩を日本は引き出すことができたのです。
EUにとってはワインは暴動が起きるほどの大切なものであること
ChampagneTroyesmanifestationdu9avril1911(1911.4.9シャンパーニュ トロワ〜オーブ県の県庁所在地でのデモ)
EUにとってワインが、どれだけ大切なものなのかについては、ヨーロッパ、特にフランスにおいて、ワインを巡って暴動まで起きたという歴史を見ていただくとご理解いただけるのではないかと思います。
フランスでは、1864年にフィロキセラというアメリカから侵入してきた葡萄の樹の根につくアブラ虫により葡萄畑が壊滅してしまいました。その後、アメリカの台木に接ぎ木することで、葡萄畑が復活しました。
ただ、フィロキセラの害を受けた葡萄樹を抜いて台木を購入して植え替えをするということは費用がかかり、大規模な生産者が有利になります。この大規模生産者が収量の多い葡萄品種でワインの大量生産を行ったのです。
そこで、ワインの価格が暴落し、多くの生産者が納税できず、当局の差押え措置が行われました。このため1907年6月20日、ラングドック(南フランス)のナルボンヌにて生産者の大規模な反乱が起き、死傷者が生じるほどになりました。
そこで、このような混乱に対応するべく、法律の規制が定められました。
まず1905年に不正防止に関する法律が定められました。ワインの偽装などの不正が罰則(3ヶ月以上1年未満の禁錮および罰金)をもって禁止されました。さらに1908年デリミタシオン法が制定され、これによって行政命令による産地区画の確定が行われるようになりました。
そして、この行政命令により、オーブ県でとれる葡萄でつくったものをシャンパーニュと呼ぶことができないこととなりました。
ランスやエペルネーのあるマルヌ県では高い評価のシャンパーニュが生産されて生産者は潤っていましたが、オーブ県の生産者は、ワインをネゴシアンに供給するだけの生産者が多く生活に困っていた中での行政命令でした。
そこで、オーブで大規模な反乱が起きました。失うものがなくなった生産者は、fousseuxという先の尖った鍬を手にRévolte des vignerons(葡萄栽培者の暴動)を起こしたのです。
これを受けて、上院が撤回すると今度は、1911年1月17日および18日、マルヌ県の生産者が暴動を起こしたのです。同じマルヌ県の県外からの葡萄を用いてシャンパーニュを名乗っていたとみなされたところが襲撃されたのです。
このようなワインに関する暴動が収まり、現在のAOC法ができたのは、1935年になってのことでした。
日本人の感覚からすると、ワインのことで暴動が起きるということは想像しづらいかもしれませんが、フランスそしてEUにおいて、ワインは、暴動まで起きるほどの存在なのです。日本で、米の不作で一揆が繰り返されたように、ヨーロッパではワインのために暴動が起きるほどの存在なのです。