アラン「幸福な農夫」が示す労働の幸福の本質

 

  • 多くの先人たちが問題視した働く幸せの疎外


 労働をめぐる「疎外」を一言でまとめると、

 

「自分の働く幸せが、自分のものでなくなること」

 

と言うことができます。 

筆者自身も、30年近く従業員として会社勤めを経験してきましたから、この働く幸せの物憂い疎外感は、体験的に理解しているつもりです。 


 マルクス・エンゲルスはこのことを

 

「あらゆる自己実現(自己活動)から完全にしめだされている現代のプロレタリア」

 

と述べています。
(マルクス・エンゲルス著、新訳刊行委員会訳、新訳 『ドイツ・イデオロギー』新訳刊行委員会・現代文化研究所、2000年、p134) 


 マルクスのみならず、多くの先人たちも、 近代になって大量に誕生した従業員の働く幸せの問題について指摘しています。
 三大幸福論の著者の一人として有名な

アランは「幸福な農夫」と題した文章で、 労働の幸福について述べています。

長くなりますが、抜粋して引用させていただきましょう。

「幸福な農夫」
 

 労働はもっとも良いものであり、もっとも悪いものであのる。自由な労働ならもっとも良いものであり、奴隷的なものならもっとも悪い。 わたしが最高度に自由なものと呼ぶのは、戸をつくる指物師のように、自分固有の知識により、また経験に従って、 労働する人自身によって規制される労働のことである。(中略)
 人間は、物以外にはつかえる主人をもたず、自分の仕事の跡を目でとらえ、そしてそれを守っていくことができれば、幸福なのだ。(中略)
 戸の掛け金の上に自分で打った金槌の跡を感じる人こそ、なによりも幸福である。 それゆえ、 苦しみがまさしく楽しみをつくるのである。そして、人間はだれでも、きわめて単調ではあるが人の命令に従った労働よりも自分でつくりあげ、自分の意志でまちがえることもある困難な労働のほうを選ぶだろう。(中略)
 最悪の労働は、親方が邪魔したり中断したりしにくる労働である。もっとも不幸な人間は包丁を使っているときに床の掃除を言いつけられるというような、なんでもやらされる女中である。
 しかし、かの女たちのうちでもっとも精力的な女たちは、自分の仕事に対する支配権を獲得し、かくして自分で幸福をつくりだす。
 それゆえ、自分の畑を耕すのであれば、農業はもっとも気持ちのよい労働である。思いはたえず仕事から成果へ、はじまった仕事から継続される仕事へとはせる。(中略)土地にしばりつけられた農奴は、ほかの奴隷ほど隷属的ではなかったのである。どんな隷従でも、自分自身の労働に対する権限と、長続きする確実さとがあるならば、辛抱できるものだ。(中略)自分自身の意志に従って朝から晩まで働くならば、かれらはけっして退屈しないだろう。
 しかし、大量生産は、これと同じ困難切りぬけの方策を提供するものではないことを認めなければならない。葡萄を楡の木にからませるように、 工業を農業に結びつけることが必要であろう。すべての工場が田園工場になるだろう。すべての工場労働者が耕地の所有者となり、自分で耕作するだろう。(中略)動揺する精神のかわりに、安定した精神をもっておぎなうだろう。

(アラン、白井健三郎 訳 『幸福論』集英社文庫、pp.156-158)

 アランの文章は豊かな比喩によって、働く幸せの本質と、そこからの疎外による不幸を表しています。働く者にとって、労働が自分の裁量によって自由に働き、生産手段を自律的に統制できることが、いかに大切なことかが示されているといえるでしょう。

「従業員幸福度(EH)」について考えるとき、このこと、労働における疎外の問題は、よほど心に留めておかなければならないと考えます。

 

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(松島 紀三男 イーハピネス株式会社 代表取締役)

 

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