吉岡先生の突然の訃報に接して | 拓かれた時間の中で

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今日出会い、思い、感じたこと。一つでもよいから、「明日」の元気につながれば・・・。

 9月26日(土)の夜、NPO法人「炭鉱(やま)の記憶推進事業団理事長・吉岡宏高先生がお亡くなりになったという報道に、接した。

 先生は、私よりも1学年下であり、誰もがパワフルと感じるエネルギッシュに溢れた存在であった。

 59歳という、本当に若くしての訃報であり、非常に残念である。

 

 吉岡先生と私との出会いは、恐らく2009(平成21)年3月のことだったと記憶している。

 まだ北海道に総合振興局制度が出来る前年だったと思うが、当時の空知支庁が「炭鉱(やま)の記憶」プロジェクトを支援し、私が国土交通省北海道開発局札幌開発建設部の職員であったときに、その支援する最後の会合にオブザーバーという立場で参加したときであった。

 オブザーバーという立場で国が参画している意味を、余り理解できないでいたのだが、私よりも早くして離職したある部下から助言を受けた。

 「渡辺室長。何より吉岡先生との人脈を構築しておくことが大切なので、是非参加してください」という、今となっては本当に奇跡的な助言を部下からもらった。

 

 最後の会合に参加するとはいえ、参加する以上は「国」の立場として有益なアドバイスの一つでもしなければならないだろうと、北海道における炭鉱開発の歴史を一週間かけて勉強し直してみた。

 結論から言って、直観的に、空知地方だけでこの活動を進めていては、前に進めないだろう、と。

 国の職員は、文字通り一つの地方に賦存する「資源」を、国家的観点から有効活用するという面的・複眼的な視点で仕事を進める必要があり、そう考えれば、空知の炭鉱の歴史が、日本という国家全体の開発に寄与してきた歴史を、実証的に説明する必要があるだろう。

 掘り出された石炭は、どのようにして本州に運ばれたり、資源として活用されてきたのか。

 そう考えれば、自ずと鉄道や港湾といった社会資本との関連性を想起するわけで、実際に曲折を経て鉄路で運ばれ、小樽港から本州へと搬送されていた歴史があった。

 私が会議でお話しさせていただいたことは、「例えば、小樽港との連携など、複眼的に炭鉱の歴史を捉えていくことが必要なのではないか」という一点であったと思うし、その後名刺交換させていただいた吉岡先生には、そのことを強くお話しさせていただいた。

 

 このことが一つの契機となり、私は、様々な立場で、そのことを主張させていただく機会を得た。

 マガジンハウスさんの"web dacapo"では空知小樽と連載にて、また、2009年に開催された「おたる遊幻夜会」のパンフレットにおいてなど、職域を超えて個人の立場としても広く主張させていただいた。

  (「おたる遊幻夜会」のパンフレットから)

 

 そうした声を参考にしながら吉岡先生は、小樽、さらには室蘭の「鉄」をも取り込み、その翌年2010年には「炭鉄港(たんてつこう)」プロジェクトを推進し、2019年には見事「日本遺産」として認定されるに至った。

 

 その吉岡先生と再会したのは、私が北海道開発局の職員研修に携わることになり、先生を地域振興に関する講師としてお招きすることになったときであった。

 「いやー渡辺さん。お元気で何より。その節は、お世話になりました。」という会話から始まり、最後には「お互い、健康に留意して過ごしましょう」と、Facebookにて私が病気がちであることを知っていたから故、かけていただいた言葉が、まさか最後の言葉になってしまうとは。

 (空知の炭鉱遺産の活用は、史実を後世に残すためにも重要。)

 

 当時の北海道庁は、支庁ごとの垣根を越えて仕事をするという発想にはなかったように、あくまで個人的に感じていた。

 だからこそ、空知だけで考えていては前進できない課題をブレークスルーさせることは、国の職員としての責務なのだと、当時私は認識し、行動してきた。

 北海道における「ワインツーリズム」しかり。

 日本における「ワインツーリズム」という言葉は、山梨が商標登録を有しており、北海道でそれを進めるに当たって、コンセプトの擦り合わせ、共有が必要だろうし、相互の信頼関係を醸成しつつ将来へ向けて進めていくことが大切だと、当時私は思い、そこに歯車の一つとして参画させていただけたことは、光栄に思っている。

 

 思い起こせば、「北空知は旭川や留萌との生活圏域を形成している」という、当時の深川市長のご意見を踏まえ、留萌支庁、上川支庁と連携した「広域圏域研究会」を立ち上げようという話を進めようとしたとき、両支庁の担当課長に猛反対された。しかし、その数か月後、当時の「高橋知事からの意見を受けて」と聞いていたが、留萌支庁から逆に「お願いするので留萌港の有効活用プロジェクトに、参画してもらえないか?」との提案をいただいた。

 支庁と支庁という垣根を超えた意識は、例え二重行政と批判されようとも、国が積極的に発想を提示し、調整、アドバイスしていくことにより解決されていくことなのではないかと、もう10年以上も前の出来事になるが、回想している。

 

 国家公務員であることの自覚を有した発想、事業への関わりを、一層大切にして仕事を進めて欲しいと、今は後輩たちに願っている。

 未曾有の少子高齢化の加速による地方の疲弊が、既に進行している中、国として地域やそこに住む人たちの営みを正確に直視した「現実」を見据えた政策を展開してもらいたい。

 恐らく、吉岡先生が、機関車のように疾走してきた「炭鉱」への強い思いは、国家公務員として見習うべき生き方の一つであったのだと、私は思う。

 吉岡先生の本当に突然の訃報に接し、心から哀悼の意を表します。

 安らかにお眠りください。