「市井(しせい)の人」たる祖父 | 拓かれた時間の中で

拓かれた時間の中で

今日出会い、思い、感じたこと。一つでもよいから、「明日」の元気につながれば・・・。

 祖父母、父の弟や妹、さらには祖母の義母までが同居するという、今では考えられない「家庭環境」で、私は育った。

 不思議なことに齢58に近付くに連れ、良くも悪くも、私は祖父である故・渡辺幸三の影響を受けて成長したことを、今さらながらに実感している。

  【写真は、どうやら虫垂炎の手術で入院中の祖父に抱かれている私】

 

 幸三の祖先は、1600年まで伊達政宗が本拠を置いていた宮城県・岩出山町。

 明治維新後、岩出山伊達氏当主・伊達邦直が札幌の北にある「当別町」に入植する際、同行したことは、「当別町史」に記録が残っていた。

 生前幸三が私たち家族に語ってくれていたのだが、幸三の父親(または祖父)が神主であったのだが、酒癖が悪いがため、幸三はそれを見ていて「酒」を一滴も口にしたことはなかった。

 当別から札幌市、今の東区にある天使病院前で青果店「渡辺商店」を営むようになったのは、第二次世界大戦以前のことだと聞いている。

 青果店の土地・建物を所有していたにも関わらず、戦争の「召集令状」が届いたことから、残される妻や息子・娘のためにそれらを売却し、現金に換えて戦地へと赴いた。しかし、その現金を、放蕩息子である私の父親が、遊び歩いて使い果たすことになるとは、祖父も想像だにしていなかったのであろう。

 結局、戦地へ向かう途中に終戦となり、札幌に戻ってきたものの、手放した土地・建物は家族が継続して住んで商いをしていたにも関わらず、戦後はずっと借地・借家生活となるのだから、「運命」というものは数奇なものである。

 一方で、弟の孝四郎氏は、札幌市ススキノに現存する「わたなべビル」を建築し、北海道調理師会会長を長く務め、よく外車をうちの前に停めて遊びに来ていたものだ。当時のことを知る札幌の料理人たちは、その話を聞くとなぜか震えあがっているのだから不思議だ。

 兄弟でも、戦争によって、こうも歩む人生が変わるものかと、子供ながらに考えさせられた。

 

 こうと決めたら酒を生涯口にしない程の自制心があるというか、明治人の頑固さなのだろうか、家にいても自分の座る場所、生活リズムは絶対に崩さない。煙草は終始「エコー」を離さなかった。それが原因で、肺癌で命を落とすことになるのだが。

 【写真は、青果店の前にて。この時も、煙草を離していない。】

 

 テレビも幸三にチャンネル独占権があり、我々がプロ野球を観たい、アニメを観たいといったところで、絶対に譲らないのだから困ったもので、見かねた私の父親が、もう一台どこかから中古テレビを見つけてきて買い与えてくれたことは、当時、死ぬほど嬉しい出来事であった。

 

 さて、青果店はと言えば、全然儲からないのだ。

 私の母親が、「年金を貰って、商売の赤字補填しているくらいなら、廃業した方がよい」とアドバイスをしても、絶対に聞く耳を持たない。

 幸三は、朝早くから祖母と札幌中央卸売市場に仕入れに出かけるのだが、夏休みなどには、私もたまに連れて行ってもらい、市場とはこういうものなのかと、幼いながらに世間勉強を楽しんでいた。

 また、当時は珍しい「移動販売」のようなことも幸三は行っていて、9時頃に荷物を軽乗用車に積み込み、毎日決まったコースで決まったお得意さまに商品を届けていた。14時頃には店に戻ってくるのだが、時間があれば、私も荷物の積み込みや積み卸しの手伝いをさせられていた。これは、あくまで、母親の命令で、仕方なくやっていたという記憶が残っている。弟は、要領がよいのか、学校から帰宅後荷物を置いて、直ぐに外に遊びに行っていたので、手伝っていた記憶はほとんどない。

 さらに、家に誰もいなくなるときには、料金表も書かれていないにも関わらず、私は一人留守番をすることが度々あった。不思議なもので、そういうときに限って来客があり、値段さえ分からないので、何となくこんなものかと思いながら、適当な金額を言って商売をしていた。小学生の頃である(笑)。

 一度であるが、留守番中、病院のお見舞い用に果物を籠に詰めてもらいたいというお客様が現れたときには、正直参った。祖父母たちの見様見真似の記憶で作ってみたものの、相当いい加減だったせいか、お客様に随分と怒られた(苦笑)。

 そんな中でも、週刊誌なども扱っていたので、少年マガジンをはじめとした全ての週刊誌をいち早く読めることは、とても有難かった。しかし、本もそれ程売れないので、売れなかった週刊誌は「赤伝(あかでん)」と呼ばれる書類を書いて、卸元に返却するのだが、その赤伝書きが私の日課(労働)でもあった。思えば、小学生ながら、無償のアルバイトをしていたようなものだろうか。それにしても、毎日なぜこれ程までに本が売れ残るのか考えた結果、よいアイディアが浮かんだ。

 「マガジンとサンデーをセットにして、10円値引きすれば、きっともっと売れるはずだ!」と思い立ち、輪ゴムでセットにして、勝手にそんなサービスを始めてみたところ、直ぐに母親に見つかり、「何勝手にやっているの!法律違反になるんだよ!!」と叱られた。よいアイディアだと思ったのだが、小学生にそんな法律は分からないし、そもそも果物の値段だってよく分からないんだから、いいじゃんか!と。

 唐突ながら、私は、今も果物は好きではない。

 その理由は、本なら返却すればよいものの、果物は売れ残ったら腐るし、腐りかけた果物を日々食べさせられることは、秘かに虐待ではなかったのだろうか(笑)。

 

 まぁ、そんな幸三ではあったが、頑固でありながら、家族や他人には優しい人でもあった。ときには、ヤクザが店にやってきたら怒鳴って追い返したり、普段は余計なことは言わないが、やるときにはやるという精神。

 当時の私には頑固過ぎて辟易することもあっただろうし、偉くもなく、なりたいとも決して思わず、本当に「市政(しせい)の人」の典型だったかも知れない。しかしながら、今のような朝令暮改が繰り返される政治を観ていると、私にとっては身近に存在する愚直であり、頑固に生きるという「人生の一つの見本」のような人物であったことは、間違いない。