子育てと閉鎖された学校生活。
娘の描いた絵が学芸会のパンフレットの表紙に選ばれた。
たくさんの女の子が手をつないで輪になって、その中には体が変な具合に曲がっている子がいたり、空を飛んでいる風の子もいる。輪の中心には青い太陽が輝いていて、ピアノの鍵盤はぐにゃりと曲がり、カモメが飛んで、雨も降っている。
全てが曲線で描かれている。
娘に聞くと、自由と楽しいを表現したかったのだそうだ。
親ながら素敵な絵だと感心した。
でも、娘は友達にこう言われたらしい。
「太陽が青いなんておかしいとか、体が不自然に曲がって気持ち悪いって言うんだよね。私の絵が選ばれるのはおかしいってさ」
「そう言われてなんて答えたの?」
「なにも言わなかったよ。だってその子はそう思ったわけだし。でも、なんでわからないかな〜。ただの絵なのに。絵は自由なのに」
全く、その通り。私もそう思う。
そして、こうも思う。
学校以外の場所でこの絵を見た子は同じ指摘をするだろうか?と。
極めて、常識、規則という名の閉鎖された空間の中では、子供達の中には、どこかヒステリックで、お互いを監視するような緊張感を強いられている子もいるのだろうな〜。その子のように。
わたしはその子に聞いてみたいと思った。
「ワンピースやドラゴンボールを観て、同じ感想を抱いた?」
その質問で、その子が何かに気づいてくれればいいと思う。
その質問が、その子自身が自分を深掘りするきっかけになってくれればいいと思うからだ。
漫画やアニメだけにとどまらず、表現は自由でいい。
てか、自由だ!
実写でも、映画、ドラマでは現実では起こりえないことが起きている。
『シンゴジラ』を観て、
「あんなの嘘じゃん!」
なんてイチャモンをつける5年生はいない。
でも、学校で友達が書いた絵には、
「なんで家と人の大きさが同じの?変だよ〜」
と、イチャモンをつけたりからかったり。
「それはただの嫉妬だよ〜」
「ただふざけて言っただけだと思うよ」
それならそれでいいが、
わたしが心配しているのは、
「ただ〜だよ」
ではない場合の子供の心の動きにちゃんと先生は気付けているのだろうか?
と、いう事である。
「親もいるし」
そういう意見もあるだろう。
でも、親が気づく事は実はとても難しい。
5年生ともなれば、子供は、親の前では親の都合に合わせた態度をとる。心によからぬ変化が起き始めるとそれを隠す。
だから、親の前で見せるサインは本当に小さな小さなものとなる。
例えば、先日、
知人と話したこんな話。
自分の子供がこんなことを言ってきたという。
「友達の○○ちゃんのパパ、すごい有名な人なんだって。パパ知ってた?」
「知らないよ」
「ずっと同じクラスで友達なのに全然知らなかったよ〜。最近、彼女、パパの話ばかりするんだよね。すっごいパパ自慢ばっかり。でも、有名人だったら自慢したくなるよね〜」
「でも、今まで一度もそんな話しなかったってことは、パパから言っちゃあダメだよって言われてたんじゃないかな〜。その子、最近どう?元気ある?」
「ん〜。確かにね。元気なくはないけど、なんで急にパパの自慢するようになったんだろうとは思ったね。なんか○○ちゃん、ちょっと変わった感じがした。なんか幼くなったというか〜。わかんないけど」
それで、知人はなんとなく気になってそのパパの名前を検索した。
知らなかったが確かに著名人のようだ。プロフィールを見ると、「独身」になっていた。
「ああ、そういうことか〜。やっぱりって思ったよ」
子供は、必ずサインを送っている。
そのサインに、誰か一人だけでも気づいてあげて、
「わかってるよ」
と、いうサインを送ってあげることができれば、
その子の人生はそこから全然違う方向に向かい始める。