病院と仙太郎

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さて日本の母が脳梗塞になった話からblogを再開することにしようと思う。
母はもともと頭痛持ちだった。
職業柄、手のしびれを数年前から訴えていたが、それはあくまで長年の職業病によるものであり、頭痛も肩こりから来るものであるから、整骨院に行ってみたり、ヨガに行ってみたり、スイミングに行ってみたり、針治療をしてみたりして誤魔化しごまかしやってきた。

素人が最もやってはいけないこと、それがネット検索による自己健康診断。
病状を入力し、自分でああ、私はこれか・・・と診断する。
また、かねてから血圧が高かったが、数年前から色んな書籍やネットでもみかける「高血圧は薬で治さない」的な情報が正しいのだと思い込み、薬なんか飲まない方がよい、血圧は高くて当たり前らしいなどと信じ込んでいた部分もあった。

そうしてある日、気分が悪くなり、大阪市内で有名な脳外科に行ったのであるが、そこでは「脳梗塞はすでに起こっているが、これは古いものであるから、ここでどうこう出来るもんでもない。血液を流す薬を飲んで、また1か月後にでも来てください」と言われ帰宅。
その15時間後に再び気分を悪くし、その日がたまたま日曜であったため、別の脳外科に行き、そこで即入院、集中治療室に入れられ治療が開始された。

母が入院した脳外科も大阪市内では名の知れた病院であるが、ネットで調べると評判は二分化される。
酷評を書く人もいれば、そうでない言も書かれてある。
また、この病院に実際に関わった人からも両方の評判を聞いた。
しかしながら実際に入院した母は「この病院で良かった」と言った。
先生やスタッフが一生懸命に手を尽くしてくれたからである。
私も父も同じ印象である。

退院する日、担当医から「この程度で済んでよかったな。ほんまは、最初に行った病院で誤診されへんかったら、もっと早い段階で治療できたんやけど、それを見逃しよったから・・。また起こらん事を祈るのみや。また気分が悪くなったら、すぐおいで。夜中でも休日でもすぐおいでや」と言われ、母は数種の飲み薬を貰い退院した。
遠い外国に戻らねばならない私にとって、この病院と医師が今後の母にとってホームドクターになる事が1つの安心材料となったのは間違いない。

母の退院の前日のこと。
日曜の昼過ぎに面会に行くと、救急で運ばれてきた患者の付添人や家族が待つ待合室の前を通ると、4人ほどの身内らしき人達が泣きながら話していた。
多分、60代位のお父さんと成人した娘、息子だと思われた。
お父さんらしき人が「お母さん、失明するて・・言われた・・」と言った瞬間、娘さんらしき人が声をあげて泣いた。
私はその横の販売機で水を買い、母の病室に戻ったのであるが、不謹慎ながらも自分の母が失明しなくて良かった、ただただそう思った。

もしも失明、半身不随などになった場合、私はどうしたのだろうか。
日本語の分からない子供を連れ、日本に戻る事を決行しただろうか。
すぐに日本で職を探し、移住する準備をしただろうと思う。

面会を終えた夕方、再びその救急外来の待合を通って外に出るのであるが、娘さんらしき人だけソファに座っていた。
胸には新生児の赤ちゃんが眠っていて、娘さんもうつむいていた。
他人事ではなかったと思うと、恐怖心で頭が真っ白になった。

日本滞在中、実家の仏壇もどきに毎朝手をあわせ、「頼む!!ばあちゃん(母の母)!!まだ私、親孝行できてへんねん。だからもうちょっとお母さんを元気に生かしてやってて欲しい。そうでないと私、自分を許されへんまま生きていかなあかん。ばあちゃん、頼むわ!!」と言っていた。
そうして毎日、仙太郎の桜餅やぼた餅をお供えしていた。
仙太郎の餅のおかげか、ばあちゃんは母を軽度の脳梗塞で戻してくれた。

母を置いて帰る事、かつてここに暮らしがあった大阪を離れること、支えてくれる友人に別れを告げることは何度経験しても辛い。
後ろ髪をひかれたまま、しかしそれはキリがなく、私が選んだ道は関空から旅立たねばたどり着かない遠隔地で、重い足を引きずりながらも笑って帰る、これが13年前に自分で選んだ道なのだと言い聞かせながら。

しかしながら今回の事で母も父にとっても、私にとっても学ぶ事があった。
それは過信してはいけない、自己判断や自己診断など決してすることなく、手のしびれや継続する頭痛はちゃんと診てもらわねばならないという事である。
イギリスではなかなか検査に回してもらえないが、今後は大げさに言うて検査に回してもらうようにしなければと心に決めるのである。
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