えーっ!
鬼のパンツって虎の毛皮で出来てたかー?
 
10年履いても破れないって、、そりゃ良い強いパンツやけど、お洗濯はどうするの?
パンツって、我々の世代で言うズボンのことだよね? あと、おすすめは分かるけど、どこで買えるの?
 
しかもイタリアの童謡から来てたとは!!


どうも!

こちらは
3Dモデリングソフト・ライノセラスの、主にジュエリーに特化したプラグインソフト・『エヴァンスEVANCEのコマンド説明と、
La vague jewelry School で学んだ私のジュエリーな日々などを綴るブログです!
 
ソフトと学校を応援し隊員ですが、あくまで応援であり、問い合わせは現状は受け付けておりませんので、直接お問い合わせくださいますよう、お願い致します!


 
4人のモナリザって番組みてた! 
見てたつもりだったけど、これも心で理解できた!! 抜粋だ!
 
 
最初に描かれたモナリザは左の絵。
20年いたローマからフィレンツェに戻った50歳のダヴィンチは住む場所も仕事もなかったそうです。
ダヴィンチに住むところも仕事も紹介したのがダヴィンチのお父さん。
 
なんのこたぁない、お父さんはリサの実家の斜め向かい辺りの家に住んどったらしい!
で、そのリサの旦那さんはお父さんのお客さんだったんですとよ。
 
 
 
で、右側。
今、我々が知ってるモナリザの顔のモデルについて、2010年にモナリザの研究書を出したローマ在住、歴史学者ロベルト・ザッペリさんの話。
 
 
アラゴン枢機卿の秘書が残した日記に、枢機卿は晩年のダヴィンチのアトリエを訪ねたとあると発見。
 
「当代きってのフィレンツェ出身の画家レオナルドダヴィンチは我々に3枚の絵画を見せてくれた。 洗礼者ヨハネと聖アンナと聖母子だ。 そしてもう一枚は女性を自然のままに描いてあり、それはジュリアーノ・メディチが発注したものだ」と書かれている 
 
 
ときのローマ教皇の弟、ジュリアーノ・デ・メディチ(ヌムール公爵)
 
モナリザはジュリアーノが幼い息子のためにその母親を描かせたものなのです。 
ジュリアーノには多くの恋人がいましたが、その中で彼の子を産んだ女性はたった一人だけ、それがウルビーノ出身の女性パチフィカです。
 
記録によると彼女は出産後に亡くなったようです。
 
その子はイッポーリトと名付けられました。
その後ジュリアーノと共にローマに行きメディチ家の一員として温かく迎えられました。バチカン美術館 に展示されている壁画、カール大帝の戴冠式(ラファエロ・サンティ作) 
 
 
西暦800年の出来事を描いていますが人物のモデルはメディチ家の人々だとされています。 
ローマ教皇はメディチ家出身の教皇レオ十世。 跪く少年はイッポーリトだと言われています。 
この絵はイッポーリトがメディチ家の跡継ぎとして正式に認められたということを示しているとも言えます。
こ、これはモナリザ・ジュニアやんか! 逆か!彼に似せて描いたんか! 
 
反転させてみた! ヒーッ!
 
想像するにジュリアーノはダヴィンチにこう注文したのだと思います
「あなたの想像力で息子の母親を描いてくれ」と。
母親の姿を息子に残すためにモナリザは描かれたのです
 
モナリザの着ている黒い服というのは、当時は一般的に着ることはなかった。
黒い服を着ている女性というのは特別な場合に限られていた。
 
主に絵画の中の聖母マリアが着ているのです。
これはイエスを後に死んでしまうということを暗示しているので、聖母マリアは黒い服を着ているのではないか
 
ダヴィンチは幼い子を寂しがらせないよう母の肖像を急いで描こうとしたので、前に描いてあった絵を流用したのではないかと
 
ロベルトさん「イッポーリトの母であり、ダヴィンチの母でもあると思うのです。確証はありませんが・・」
 
 
 
しかし、1516年3月17日 ジュリアーノは結核に倒れ、急死。 
 
この絵はイッポーリトの元に届けられることはなかった。。
 
 
 
ラファエロの残したデッサンもある。 ありがとう、ラファエロさん。いっぱいヒント残してくれて。
ラファエロとミケランジェロのそれぞれの師匠とダヴィンチは同期の弟子だったそうで、
歳は離れてても、切磋琢磨しあったんだろうけど、やっぱり当時でも圧倒される存在であり、尊敬してたんでしょうね。。
 
 
去年行ったモザイクタイルの先生が仰ってたけど、工房を持つと親方は子分を食べさす為に、下仕事は子分にさせて、親分は受注を受けるために接待などに忙しかったと。
 
ダヴィンチはせいぜい2、3人でやった方が良いものを残せるって先駆けでもあったのかなあ?