メンタルを強くする!!ちょっとだけ仏教も。 | 国際連合(UN) 特殊諮問機関:世界連邦(WFM)本部執行理事/国際委員長, 国会委員会事務局次長, 青年会議(Youth-Forum)議長:谷本真邦

メンタルを鍛えることに関しては、非常に関心がありました。なんでも基本はメンタルです。小さい頃から、自我意識と向上心(良く言えば向上心ですが、事実上闘争心)の塊であった私は、苦悩ばかりしていました。またすごい短気で、スピッツ犬の様なキャンキャン吠える子犬だったのかも知れません。

最近は「ありのままで」とかいう、「甘い生き方」、つまり自分を変えていく「苦修錬行」、簡単にいうと、いわゆる「体育会系」とは真逆の生き方が、大流行りです。

 

それはそれで、多様性に寛容な時代は良いことだし、心が弱っている人が多い今の時代には、仕方ないのかも知れません。

ただあんまり甘く生きていると、厳しい世界社会で生き残れなくなるのでは?と、ちょっと心配はしています。

かくいう私は、子供時代はそういう「体育会系」のノリが大好きではあったのですが、色々な事に興味をもって、様々なことをやることにしまったので、時間的空間的な拘束は都合が悪いので、やむなく勝手気ままに見える生き方をしてしまいましたが、、、。


ただ、もともと私は「幸福とは苦の逆」だとは思っていたので、甘い生活は一応拒否して生きてきました

物理的には、睡眠を削り、全身全霊で仕事も遊びにも打ち込みました。つまりハードワークをしたのです。

それに加え、真冬に寒水で水垢離をしたり、逆に真夏にガンガン日焼けをしたり、断食をしたり、筋トレをしたり(あと、あくまでも子供の頃のですが、喧嘩をしたり、バイクなどを極限までぶっ飛ばしたりして峠をせめたり、、、)、そのたびにムキムキになったりガリガリになったりしていました。こうして肉体や精神に負荷をかけることをして生きてきました(ある意味ナチュラルハイになっていたのかもしれません)。

 

ベジタリアンやヴィーガンにもなろうと、一時は肉食などをやめていましたが、栄養学の専門の母親に、強烈に反対されたので、やめました(昔こどものころに、反抗せずに母親の言う事を聞いていれば、もっとマシだっただろう、、、ということが、山ほどあるので、大人になってからは言う事を聞く様にしています)。

ハードワークをしていたので、今考えると、ある程度はやりたいことをなんでもさせてもらっていたと思います。スポーツ選手になったり、ミュージシャンとしてプロになったり、大きなイベントをプロデュースしたり。また一流と言われている学者のもとで学問をしたり、はやくから起業家や上場企業の経営者になったり、(世界連邦など)政治運動家になったり、大学教授になったりもしました。私生活でも、お金が儲かったときもありますし、良い人間関係にも恵まれ、とても素敵な女性とも沢山知り合えました。

でも、目標が極端に高く、いつも満足せず、逆にトップになれなければ、自分の名前を出すのを恥ずかしがって、「は前に出さないでおこう」「もっと成功したら出よう」などと考えたりしているうちに、、、挙句やめてしまう。

なんてことを繰り返し、前半生は、本当に中途半端な人生でした。馬鹿でしたね。

 

でも、私は生まれ変わりました。

これが、真逆になって「感謝と幸福」の人生を送れるようになったのには理由があります。
 

私が思いついたことは、向上心を「逆」にしてみたら良いのではないか?、という思考法のレーニングをしてみることにしたのです。
(※ただ、これらの心のトレーニングは、最初はあんまり共感してもらえない思考法ですし、心身があまりに弱っていれば逆効果になりかねないちょっと人を選ぶトレーニングかも知れませんが、普通なら抜群の効果があると思っています。実際、苦悩ばかりして、希死念慮を持ちながら、鬱鬱としていた私も、これで脱却できたのですから。)

 

なお「希死念慮」といっても、私の場合は自殺願望とはちょっと違っていて、「切腹する武士」などに憧れまていました。

 

特に、尊敬していたのはベトナムのティッククワンドック(Thích Quảng Đức) 師です。

余談ですが、この人は1960年代の方で、よく南ベトナムの独裁者ゴディンジェム政権の弾圧に対して、政治的プロテストとして「火界定」で抵抗するために焼身自殺をした狂信的僧侶と思われがちですが、こういう見方は、まさにマダムヌー(ゴディンジェムの義妹として華やかなプロパガンディストでしたが、のちに大変な嫌われ者になっちゃった人です)の意見と同じです。

師の周辺の証言を読んでいると、とても穏やかな優しい常識的な僧侶だったと言います。また師の行為はLotus Sutraが元であったのでは?、という英文記事をみたことがあります。

・・・そうであれば私は、「法華経」の「薬王菩薩本事品」ですね。衆生を救うための宗教的行為だったのでは?と推測しています(このお経の内容はお坊さんでも理解していない人がいるようですが、ざっくりと我流で無理やり日本語に翻訳すると、高貴な身分の出身であった宿王華菩薩が、釈尊に『なぜ薬王菩薩はそれほど凄いのか』を問うた時、釈尊は『薬王菩薩の前生は、一切衆生喜見菩薩という方で、全智の日月浄明徳如来に、長い間の修行のまとめに自分の体に香油を被って、その身に点火をして供養し、天へのぼり如来の足にすがった。これは、長きにわたる衆生救済において、あらゆる供養のなかで、最も尊い行為である』と答えた、、、というような内容です)。きっとこれを体現されたのでしょう。そして「心頭滅却」といえばこの師です。一切衆生喜見菩薩と同じように香油のかわりにガソリンを被り、その身に火を放って、体が燃え尽きてその肉が崩れ落ちるまで、しばらく蓮華座のまま、表情も崩さなかったのです。これは映像にも残っています。普通なら皮膚に火がついたら熱くて転げまわるか、もし気道に炎が入って即死したのならすぐにゴロンとなるかのどちらかです。まさに衆生救済への強い信念がもたらす「心頭滅却すれば、、、云々」とはこういうことでしょう。もちろん私は、こういう大菩薩聖人には、足元にも及びませんが、私も少しは苦痛に耐えて、世界のためには自己犠牲を持つべきだとは思って生きてきました。

そこで、まずは「平等心」を持つようにしました。これは他人を差別しない、なんていうケチな話ではなく、それは「自己」と「他者」を同一視することです。

これは、意味がちょっとわかりにくいので、次の段階まで、説明します。

それは、「自」と「他」を交換して「視る」という瞑想方法です。極端に例えると、現実では「他人」が活躍しているのを見ると「私(一人称を使用)は凄い!」と思い、現実の「自分」が活躍したら、「あいつ(三人称を使用)!なかなかやるじゃないか」と、「自」と「他」を、逆に置いて観ることをします。

私は、あらゆる宗教や思想を学んでいたので、知識としてチベット仏教のヒーリング法である「トンレン瞑想」というものがあることも知っていました。苦痛を感じている人を見れば、「その苦痛は全部自分に来てください、そして自分の幸福な状況を相手に渡してください」という念じて瞑想をすることです。
 

しかもその人が、愛する人ではなく、全ての人、特に嫌いな人、その人に自分の幸福を差し上げたい、そして私がその人の苦しみを自分が引き受けます、と念じたりします。これは慈悲の瞑想として知られていますね。


例えば普段から、「盲目の人を見れば私の目を渡してください、足の無い人がいれば私の足を渡してください」と祈る、などの瞑想です。バクティ―(信仰)・ヨガにも、カルマ(業)・ヨガにもつながる瞑想法です。

これは、普通では考えにくい祈りです。

 

極端にエゴが嫌がります。「本当にそうなったらこわい」という感情が自然に芽生えます。でもこの強烈な刺激が、エゴを粉々に壊して、純粋な魂が残るのです。でもこれによって「怒り」「嫉妬」「執着」などの感情が、大幅に減ります。

 

仏教では「一切皆空、所行無常、諸法無我」といい、釈尊が無色界の修行に入り「非想非非想」の段階を経て、「無上覚の悟り」「涅槃寂静」へ至る境地に往くための、菩提心(ボーディーチッタ)を持ち、一切衆生を救済する菩薩(ボーディーサットヴァ)になることが大切、と言います。

 

もちろん、私は「まだ」如来(タターガタ)=仏の悟りや、キリスト意識などには、ほど遠いですが、菩薩の足元を見た位までは来たような気がします。

これは「引き寄せの法則」で、「私は豪邸に住んでいる」「私は高級車に乗っている。。。」などと、アファメーションすると、想念は物質的に実現する、ニューエイジの考えとは全く反対の方法です(ただ、これはこれで現世利益としては良いのですが、仏教的に言えば、煩悩の「餓鬼」のカルマを積む修行じゃないかしらとは思います?)。


でも、ちょっと自分を内観すると、エゴの存在が、あらゆる苦をもたらしていると気付きます。エゴを破壊して、純粋な「真我」を見出すと、「梵我一如」の境地に達する、ということが理解できます。

 

逆境が来ても、自分が望んだことではないか、無理やり思えます。

だから昔、事業がうまくいかず、資金ショートしたり、借金苦になったり、怖い人からとり立てられたりしても、(嬉しくはないですが)基本的には乗り越えられました。人の三倍働けば返せると信じれました。

そうすると、神様や、周りの人のお陰か、どう考えても入ってきそうもない大金がドーンと入ってきて、なんとかなった、ということがちょいちょいありました。

 

そうすると、苦難の裏には、幸福があると信じられるようになっていきます。

そして、本当に「当たり前のことなんて何もない」、「有難いこと」だと、何にでも感謝できるようになりました。


だからこのトンレンの瞑想をガンガンしました。

「人間五十年、下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり、、、」と考えると、大宇宙の芥子粒のような地球でさらにそのウィルス的な存在にすぎない「人間」の社会的な成功・失敗、まして嫉妬・怒りなどはくだらないことです。

 

でも、この考えによって、「なんでもありの怠け心」というのは、おこりません。私は元来怠け心も起こしがちで、それと戦うのには苦労しましたが、怠惰な心というのは、常に何らかの行為を実践することが「嫌だ」という「積極的な嫌悪」の潜在意識があるということもわかりました。

 

だからエゴを破壊する心のトレーニングが必要なのです。エゴを破壊すれば仕事がバリバリできますよー。

 

多くの生物を観察していると、本能のまま生きていて生態系の弱肉強食の生き残りの恐怖心のなかで生きていることが良くわかります。そのため、本当に人間に生まれて良かったぁと思います。これは本当に稀な嬉しいことです。地球上では神(宇宙エネルギー)の真理を探究できる、唯一の生物です。

 

でも、せっかく人間に生まれた今生も、いつまで、生きていられるか、などはわかりません。

生まれてきた以上、人間は全て死刑囚みたいなものです。いつお迎えが来て、死の執行がなされるかが、わかりません。

50年後に生きているかどうかわかりません。

ということは、10年後に生きているかどうかわかりません。

ということは、1年後に生きているかどうかわかりません。

ということは一週間後に生きているかどうかわかりません。

ということは今夜生きているかどうかすらわからないのです。

 

人は生きている前提で予定を組みます。死んでるかもしれないよ!とは考えません。もちろん「この根拠のない楽観」が社会信用という基盤を築いているのはわかりますが、個として考えれば即時死んでいるかもしれないと思うべきです。

 

また明日、事故などで、体の一部が欠損するかもしれません。そんなことは誰にもわからないのです。

 

そうすれば一時の無駄にできないはずです。まぁ私は出家僧ではないので、山の修行より、里の修行、、、つまり一般社会で働くという実践に励みたいと思っています。

 

私は海外旅行が大好きで、ネパールやインドにも行きます。インドは悪習慣がまだまだありますが、その分のびしろは沢山あります。でも、こんなところだったら「山の修行」は「やり放題」です。

正直「ここでなら悟りを開くのはたやすいかも・・・」というくらいに思えます。

具体的には、かの地では、大自然や近代的な街が美しいところもあれば、牛や犬の糞と雨水でやたら汚れているところを裸足であるかないといけないところがあったり、ときおり「聖者風」の詐欺師が出没したり、「コブラか!?」と思ったらおもちゃだったり。さらには、めちゃくちゃ熱い所と寒い所が点在していたり、批判すべきカースト制度の上位の人が、それをいいことに、人に働かせてゴミだらけの町の道路でぼろぼろで寝てたりする横で、カースト下位の人が、政財界の大物や、IT長者だったりとか、、、(もちろん人権問題として是正が必要なところはあるものの、そのカオス感が興味深いところでもあるのですが)。

でも、私がよく生息している東京・NY・ハワイなどでは、欲望を刺激する宣伝と誘惑にあふれています。

例えていうなら「食べられる物がないところではなく、高級レストランの中でご馳走に囲まれながら、断食する」というようなもので、これはかなり辛いです。これを頑張らないと、解脱の道は遠いんですよねー。

 

凶悪犯罪者になってしまった麻原某も、ヒマラヤで修行だけしていれば、もしかしたら、本物の聖者になれたかもしれません。かの教団の教義は、一般的には「色界」と訳される世界を「形状界」と訳すなどちょっと名前を変えたり、本来はサマディ―や解脱の妨げとなるといわれている六神通(超能力ですね)など凡夫の興味をそそるものに焦点をあてたりしてはいますが、実践的な後期チベット密教の流れを組む、まともなものだったんです。だからはじめは、ダライラマ法王も、宗教学者が評価したのも、そのためです。しかし東京にいたために、凡夫どころか鬼神と同一の他化自在天の魔王になって、「神政一致の新日本国の法王になる」などと妄想して、とち狂ったのでしょう。

 

かの教団では、極限を目指し、アンダーグラウンドサマディ―という地中で瞑想するヨガ修行などもしていたそうですが、修行中に死者が出て、これを隠蔽したというのがテロ組織になる第一歩で、あとは転げ落ちるように、保身と政治権力、陰謀論や終末論の妄想に狂っていったそうなのです。

いっしょにするなと叱られそうですが、日蓮宗・寒壱百日大荒行も、わが谷本家の父方の菩提寺・天台宗比叡山延暦寺での千日回峰行も、死者が出る厳しい修行です(世界連邦日本宗教委員会の現会長は田中神社本庁総長ですが、初代会長は京都帝大出にして千日回峰行を満行した高僧・葉上照澄大阿闍梨です)。出家僧侶の修行というものは、伝統的な宗教でも生死の境のなかですることもあるのですから、かの教団も修行は命をかけるものなのだから、亡くなったら亡くなったで、ちゃんと届けておけばよかったのに、、、と思います。そうすれば何の関係もない人たちが犠牲になることもなかった。。。

 

私は、権力妄想などは、全くありません。「愛と平和」で暮らしたいと思います。私は、親族からは「ラヴ&ピース馬鹿」とか「愛と平和を愛するおじさん」とか言われております。

 

でも、真面目な話に戻すと、こういう「安処」な人生の裏には「苦悩」があります。幸福な人生を会得するには、「尋・伺」の三昧を越えて、「不苦楽」の境地まで行くことが必要です。

 

しかも、こうすることによって普通の社会生活、つまり仕事がはかどるのです。
 

もともと、苦悩でもがき続けていたのに、私が魂の歓喜へ覚醒した方法の一旦をご紹介しました

 

(谷本真邦)
 

※ここでは主に仏教について書きましたが、私は基本的に「超宗派」です。なんでも学ぶのが好きな私は、この春学期に日本宗教界(日宗連)のトップの尊敬する先生のすすめで、國學院大學の神道講座を受講し修了させていただきました。ご皇室のご台臨の光栄にも浴し、記紀だけでなく延喜式・中臣祓等の資料等も勉強させていただきました。古文・漢文等も得意でしたし、古文書を読むのも好きなので、大変貴重な学びになりました(私はもともと理系から文系に専攻を変えた者ですが、子供の頃から、古文・漢文をやっておいて良かったと思いました。よく学校の勉強なんて社会で役に立たないよーとか言いますが、どこで役に立つかわからないので、豊かな人生を送るには、やっぱり学校の勉強は大事ですよ!)